案山子
月浦影ノ介
案山子
これは、
体験したのは、尚人さんの祖父だという。名前を仮に、
和人さんが育ったのは、山間の小さな村だった。今から六十年ほど前の、ある秋の日のこと。
当時、小学五年生だった和人さんは、学校から帰る途中、両側を田んぼに挟まれた細い農道を歩いていた。
いつもの通学路である。その日は宿題を忘れた罰として、居残り掃除をさせられた。一緒に下校する友達もなく、一人ぼっちの帰り道だ。
夕暮れが迫る茜空の下に、青々とした稲穂が風に揺れてざわめいている。あとひと月もするうちに稲穂は
そのときふと、和人さんは違和感を覚えて立ち止まった。左に顔を向けると、目の前の田んぼの真ん中に、
別に案山子など珍しくもない。他の田んぼにも、案山子は幾つも立っている。だが、何かが
その違和感の正体を知りたくて、和人さんは案山子をまじまじと見つめた。
特に何の変哲もない案山子である。十字に組んだ木の棒に青い半纏を着せ、顔の部分の丸いハリボテを白い布でグルグル巻きに覆い、その上に麦わら帽子を被せた、どこにでもある“ごく普通の”案山子だ。
―――そういえば今朝この道を通ったとき、こんな案山子あったっけ?
それが違和感の正体だった。毎朝、毎夕、必ず通る道である。無意識のうちにどこに何があるか、
―――昼間のうちに作ったのかな?
この辺りの案山子は、だいたい七月のうちに農家が皆で協力して作り、田んぼに立てる。今頃になって、どこの誰が作ったのか。
しかし作ったばかりにしては真新しさが感じられない。青い半纏も麦わら帽子も薄汚れてボロボロで、もう何年も前からずっとそこに立っているかのようだ。
もっとよく見ようと案山子の方へ足を踏み出したとき、奇妙なことが起こった。突然、案山子の頭がぐるりとこちらを向いたのだ。
「うわあっ!」と、和人さんは叫び声を上げ、その場に尻もちを付いた。
案山子の顔―――白い布に太い黒線で描かれた「へのへのもへじ」が、和人さんをじっと見据えている。そのとき、和人さんにはそれが何故か、笑っているように思えたという。
案山子はしばらくの間、和人さんとにらめっこをするように顔を向けていたが、やがてぐるっと身体を反転させると、青い稲穂が揺れる田んぼの上をピョンピョンと飛び跳ねながら、北側にある小さな山の方へと去って行き、そのまま黒々とした木立ちの陰のなかに姿を隠してしまった。
和人さんはしばらくの間、腰が抜けたように動けなかった。驚きのあまり声も出ず、これは夢ではないかと何度も自分の頬をつねった。
やがて、案山子が消えた山向こうから、一陣の風がどうっと吹いて来た。何か強い“気配”を感じる風だった。その風に顔を煽られた和人さんは、慌てて飛び起きると一目散に逃げ出したのだった。
家に帰り着いた和人さんは、両親にそのことを話したが、二人ともまったく信じてくれなかった。たまたま遊びに来ていた叔父が「きっと狸にでも化かされたんだろう」と言ったが、やはり本気にはしていないようだった。
和人さんの話を信じてくれたのは、一緒に暮らす祖母だけだった。祖母は和人さんに、こんな話をしてくれた。
昔、近所の子供が神隠しに遭い、あの山の山頂付近にある祠の側で見つかったことがあったという。
「あの山には子供好きの古い神さまが棲んでおるからな、きっとからかわれたんじゃろ」
連れて行かれんで良かったなぁと笑う祖母の言葉に、和人さんは思わず震え上がった。
尚人さんがこの話を祖父の和人さんから聞いたのは、小学生の頃のことだそうだ。
その祖父も数年前に鬼籍に入り、後を継いだ尚人さんの父が、現在も農業を続けている。
今年の五月のゴールデンウィークに田植えの手伝いに実家へ帰った際、祖父から聞いたその話をふと思い出した。
「古い神さま」の棲む山は、田んぼの広がる土地の北側に今も鎮座している。
今年の秋には、収穫の手伝いにまた実家へ帰る予定だ。
そのとき、神さまの化けた案山子が近くにいないか、周りをよく注意して見るつもりだと、尚人さんは話の締めくくりにそう言って笑った。
(了)
案山子 月浦影ノ介 @tukinokage
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