春を届ける人
色街アゲハ
春を届ける人
船に乗って一時間足らず、海を隔てた遠目に浮かぶ島に建てられた、さながら海上に突如として現れた街とでも云った外観を見せるその地で、近々催される謝肉祭の事は度々耳にしていた。
それはこの地上で開かれる祝祭の中でも群を抜いて豪奢な、凡そこの世の物とは思えない程に、それはそれは賑わしい物である、と聞き及ぶに至って、遂にこれは一度目にしておかねばならない、と意を決して、かの地に渡るべく絶えず繰り出される船の、その一つに乗り込んでいた。
折からの盛況の為か、この様な目的には不釣合いな小さな船までもが駆り出される羽目となったらしく、沖合で激しく波に揉まれ、揺れる船内では気分を悪くする者が続出し、子供達に至っては泣き出す者まで出始める始末。歩く事はおろか、立ち上がる事すら困難で、揺れに耐えかねて堪らず立ち上がった人たちが次々と転倒し、甚だしきに至っては壁際まで転がって行く者まで現れた。
その様な中で、何の支えも無いに関わらず、一人だけ別の世界にいるかの様に、微動だにせず後ろ手に手を組んで立ち、何食わぬ顔で次々と乗客を助け起こす老いた乗組員の姿が一際目を引いた。
成程、生粋の船乗りとはこう云う物か、と一頻り感心していると目が合った。一段落して再び後ろ手に腕を組んで立っていた老船乗りは、改めて見ると最初の印象と違って、随分と見窄らしく見えた。着ている服はしっかりと、シミ一つ無い物なのに、全体から受ける夢破れ生きる理由を失った者特有の、見る者を暗い陰鬱の中に引き摺り込む空気を纏っており、それが他の全てを台無しにしてしまっているのだった。
助け起こされた人々も、彼の顔を見るなり困惑の色を隠し切れず、礼の言葉も忘れ逃げる様に離れてしまうのだったが、自分もその例に洩れず、出来れば目を逸らして関わらずに済ませたかった所、いや、それは余りにあからさまに過ぎる、と仕方なく軽く会釈するに留めたのだった。
すると、老船乗りは何を思ったか、こちらに寄って来て、あまつさえ話し掛けて来ると云った行為に及び、こちらの困惑を余所に、その場からいっかな動こうとしない。
「どうですか、お加減の方は如何ですか?」
「いや、今の処どうと云う事はありませんよ、有難い事にね。」
「そうですか、他の方々と違って、こういう揺れに随分お慣れの様で。」
「まあ、振り回されるのには慣れてますのでね。ままならぬ世の中と云った所ですか。」
幸い、当たり障りのない会話には慣れているので、適当に返事をしているだけだったのだが、これが思ったより話が弾んでしまい、気付けば周りの騒ぎを余所に随分と話し込んでしまうのだった。
「ところで、お客様、私、今はこの様に人並みの仕事に与らせて頂いておりますが、嘗てはそれとは程遠い、謂わば人知を超えた立場に従事していた、と言ったら信じますか?」
話に夢中になって、最早彼に対する最初の印象など吹き飛んでいたので、
「いや、信じる信じないは別として、興味はありますね。」
そう言って先を促すのだった。
「では、話させて頂きます。」
恭しく一礼すると、彼はその数奇な身の上を話し始めるのだった……。
‶私はここに来る以前、春の訪れを告げる役目を負っておりまして、それがどう云った内容の仕事かと申しますと、それ程難しい事ではありません。春の空気を一杯に詰め込んだ袋を担いで、方々回りながらそれを届ける、と云った、至って簡単な物でして。雲に紛れ、風に乗りながら各地を回るのは、それはもう楽しゅう御座いました。
家々の戸口より、春の空気をそっと送り出して、未だ残る冬の気配を追い出して、固く縮こまった木々の蕾を綻ばせ、地の中で眠る蛙の眼を瞬かせたりと、やっている事は同じでも、それによって起こる事は実に千差万別。こちらが春を届けている筈なのに、寧ろこちらが春の訪れに立ち会っている様な、自分の中で気付かなかった春が芽生えて徐々に綻んで行く高揚感に、身も震える心地で居た事は、今でもはっきり思い出す事が出来ます。
そうして、辺り一面に満ち溢れた春の空気をまた袋一杯に詰め込んで、再び未だ春の訪れを待ち望みながら寒さに身を縮こめている地へと向けて飛び立って行くのです。言ってみれば春を運ぶ渡り鳥と云った所でしょうか。
一か所に留まる事無く、常に風に乗って春の訪れを告げる者。私共の様なものを何と呼ぶのでしょうね。子供向けの本には、分かり易く”春の精”と書かれている様ですが。
それが、ある時を境に全てが変わってしまったのです。私が常と変わらず春を送り込んでいた時の事です。常ならばそれで辺りは春の息吹を吹き込まれ、やがてこちらから何もせずとも皆生き生きと新たな目覚めと共に、歌うが如く動き始め、こちらの目を大いに楽しませてくれるのですが、何とした事か、その時に限って、ある所だけが何時まで経っても冬の気配が去らず、そこだけいやに薄暗く、周りの目覚めた者達もそこだけ避けて通ろうとするので、余計にそこだけが目立ってしまうのでした。
この様な事今迄に無かった物ですから、それはもう弱り果ててしまい、かと言ってこのままこの地を去る訳にもいかず、そこで一体何が起きているのか、と地に降り立って覗き込んでみると、そこは何の変哲無い小さな家。部屋の片隅に置かれた、今にも崩れ落ちそうな見窄らしいベッドに、今にも消え入りそうな程小さな子が臥せっているのでした。
その子の身体に冬がしつこく纏い付き、私が幾ら春の空気を送っても、そこから冬を追い出す事がどうしても出来なかったのです。それでもめげる事無く風を当て続けていると、生気の無い頬に僅かながら赤みが差し、その唇に微かに笑みが浮かぶのですが、それも束の間。この地より追われた冬の名残が全てこの子に憑り付いたかの様に、再び冬の帳がこの子に降り立ったかと見ると、忽ち元の木阿弥と化してしまうのでした。
周りは春の空気に酔いしれ、これから生まれる命の喜びに満ち溢れていると云うのに、この子の身体だけがあの耐え難い冬の寒さの中に逆行しようとしているのでした。
今となっては、それもまた自然の摂理、どうあってもそれは曲げる事の出来ないこの世の理であったと理解する事も出来ましょうが、他に為す術知る術の無かった春の精である私にその時他に何が出来たでしょう。ただひたすらに春を送り続ける以外に。
それになにより、私は見てしまったのです。あの子の笑みを。自身の内にあれ程冬を抱えておきながら、その
悲しいかな、その時は訪れませんでした。袋の中だって無限じゃあありません。遂に溜め込んだ春の空気が尽き、そよとも風を送る事の出来なくなったその時から、その子の身体は再び厳しい冬に包まれて行くのでした。冬がその子の身体を霜の張り付く様に覆い尽くして行く様を、私はただ見ている事しか出来ませんでした。力無くふらつく足取りでその子に近寄って、しかし出来る事など私には何も残っておらず、ただ唖然とその子の少しずつ弱って行く様を見守る事だけしか。
だと云うのに、その子は寒いとも苦しいとも一言も言わず、人の身には決して見る事の出来ない筈の私の姿を認めて、”アナタが春を届けてくれたのね、どうも有難う。”と、感謝の言葉を告げるのでした。
それを最後に静かに眠る様に目を閉じると、それきり再び目を覚ます事はありませんでした。
どれだけ自分を責めたか分かりません。ですが、人の身であろうとも、春の精だろうと、結局の所出来る事は限られているのです。出来る事しか出来ないのです。そう悟るまで、どれだけの間その場に蹲っていたでしょう。気付くと部屋の中はその子はおろか、ベッドも何もかも、その子の痕跡を残す物は全て片付けられてしまって、唯薄暗い空っぽの部屋がそこにあるだけなのでした。
そして、私は最早春の精ではなく、かと言って人でもなく、何者でもない者としその場を立ち去るより他ありませんでした。
もう、風に乗って春を届ける事など出来る筈もなく、いいえ、例え出来たとしても、そもそもその様な考えすら起きませんでした。あの子の命が失われたのと共に、私の中の春は永久に終わりを告げたのです。
当て所無く各地を彷徨い歩き、色々な物を目にして来ましたが、そのどれ一つ取っても自分の心に何一つ入って来ない事に我ながら驚いた物です。
抜ける様な青空の下、一面目の覚める様な鮮やかな色取り取りの花畑が、風を受け、一斉に揺らめいて空の青と溶け合う瞬間に立ち会ったですら、それが自分の中に一切の痕跡を残す事無く素通りするだけであった事。それに気付いてしまった時、もう本当にこの地上には自分の立つ場所など何処にも無い、そう思い知りまして、幸いこの船の船長に身一つで拾って頂きまして、今もこうして海の上を行ったり来たりと、さながら幽鬼の様にこの身を永らえていると云った次第なのです。″
船が港に着き、乗客が我先にと降りて行く。街では既に祭りの準備も整いつつあり、熱気溢れる雰囲気は港にまで伝わって来ていた。街の住人は当日に纏う意匠選びに余念がなく、早くも奇抜な恰好をした人々が至る所で散見される。人の腕程もある鳥の羽をふんだんにあしらった極彩色の衣装を纏った様々な表情の仮面を被った人々。彼等が当たり前の様に街中を闊歩する様子は、俄かに別世界へと迷い込んだ様な心地にさせられるのだった。
乗客のみならず、船の乗組員も、非番の者達はこの街の空気を味わうべく、船より降りて雑踏の中へと紛れて行く。意外だったのが、件の老船乗りまでもがその内の一人であった事で、彼の話の内容から言って、この様なお祭り騒ぎには興味を示すまい、などと勝手に思い込んでいただけに、つい気になって理由を聞いてみた所、
「おや、先程の話を信じて頂けましたので?」
などと、惚けた返事。
別に先の話を丸ごと信じた訳でも無いが、こうもあっさりと放り投げられる様な返事をされると、何だか上手いとこ揶揄われただけ、と言おうか、騙されたと言おうか、正直余り良い気分になれなかった所に、
「いえ、失礼しました。あの話を半分でも真面目に受け取って下さる方は初めてな物で、つい。冗談はさて置いて、船乗りには順に陸に上がって休息を取る決まりが有るのですよ。常に海の上に居るとおかしくなってしまうらしく、それを防ぐ為との事ですが、おかしな話ですね。私は疾うの昔におかしくなってしまったと云うのに。」
そう言って彼もまた、他の船乗りたちと同じく街の雑踏の中に紛れて行くのだった。
暫くの間、その姿の消えた後をぼんやりと見詰めていたが、何時までも呆けているのも埒が明かないと思い直し、来るべき謝肉祭を心行くまで堪能しようと足を踏み出すのだった。
……祭りの終わった後の船の中は、快い疲れと、それを表わすかの様な穏やかな海の為か、大半の乗客が眠りの中に居た。行きとは打って変わって静かな船内で、小さな声で話す母子の話を、半ばぼんやりとした意識の中で聞いていた。
途切れ途切れの会話だったし、こちらも注意して聞いていた訳でもないので、その全てを耳にした訳ではないが、飽きもせず繰り返される謝肉祭のパレードの情景は嫌でも耳に付いた。
「凄かったねえ、あの子。凄い綺麗だったねえ。」
「ああ、そうねえ、綺麗だったわねえ。」
「私もあんな風に出来る様になるかな? こう、枝をびゅう、と振ったら、お花がぱあって。」
「ああ、そうねえ、出来る様になるわねえ、きっとねえ。」
母子の話を聞くとはなしに聴いていると、どうやらパレードの演者の内の一人について話しているらしい。謝肉祭のクライマックス、四季を模したパレードの印象を、先程から未だ興奮冷めやらずと云った様子で捲し立てる子供。中でも一押しは春の部、特に春を届ける役目を負った、あの老船乗りの言葉を借りるならば”春の精”の役に扮した子役だった。協会より賜った聖水を手に持った枝に浸して、観客たちに振り撒くと、そこから様々に花が溢れ、芳しく香りを放ち、香りの薄れるのと共に消えて行った花々の事。緑を基調とした服に身を包み、所々に花をあしらい、動く度に花弁が止めどなく舞い、すぐさまその後に又新たな花が開く、などと言った事を滔々と語る子供の声。
「本当、どういう仕掛けなのか知らねえ。」
と言う母親に、
「仕掛けなんかじゃないよ! あれは本物、本当の春の精なんだよ!」
と向きになって声を張り上げる子供。
「ああ、そうだったわねえ、」
と返す母親。明らかにまともに取り合っていない口調に、苛立ちを隠せない子供とのやり取りを聴きながら、ふと、あの老船乗りの姿が無い事に今更ながら気付いた。最初は非番なのかと思いそのまま流そうかと思っていたのだが、
「そういえば、あの見回りのお爺さんはどうしたのかしら。今日は居ないみたいだけど。」
と言う母親の言葉に、思わず耳を聳てた。かの救出劇は他の乗客達にもそれなりの印象を残していたらしい。
「あれ、お母さん知らないの? あのお爺さん、あの子と一緒に何処かに行っちゃったよ。」
返す子供の言葉に驚き、想わず身を起こして聞き入っていた。
子供の言うには、パレードの様子を見るとはなしに見ていた老船乗りの姿を目に留めるなり、まるで旧知の間柄の様な気安さで、乗っていた飾り車から降りて近付いて行った春の精の子。その姿に気付いた老船乗りの驚きと云ったらなかったと。以前見た落ち着き払った態度が嘘の様に、その場に崩れ落ち、泣き崩れ、それを宥め抱すくめる春の子の姿。その光景に観客、パレードの役者達は皆一様に驚きで足を止め、一時期パレードの進行が妨げられる程であったと。
やがて落ち着きを取り戻した老船乗りは立ち上がると、傍らに尚も佇む子の手を取り、そのまま二人は行き交う人々の群れの中に紛れて行って仕舞ったと。何事も無かったかの様にパレードは再開され、人々もそんな出来事など無かったかの様に、再び周りは熱狂に包まれ、途絶えていた雑踏の騒がしい声が全てを掻き消してしまった……。
そんな経緯を、拙いながら懸命になって伝えようとする、子供の言葉に耳を傾けている内に、ふと一つの考えが頭に浮かんで来るのだった。考えていて馬鹿らしい事と思わないでもなかったが、眠気の中半ば夢と変わらない意識の中での事、どの道直ぐにでも忘れてしまうであろう刹那の夢と割り切って、その考えに暫し身を委ねるのだった。
老船乗りが未だ春の精? だった最後の時に、その全てを吹き込んだ春の精気が、病床の子に新たな存在としての命を吹き込み、人としての命が尽きた後、春の精として生まれ変わり、老船乗りの代わりに世界を廻っていたのだ、と。普通ならその後決して交わる事の無い二人は、謝肉祭と云う、夢と現実、仮初と現し身とが混在する場所で、偶然(偶然? 本当に偶然なのだろうか?)再会を果たす。その後、二人は連れ立って春の世界へと再び旅立って行くのだ。
ぼんやりした意識の中で、去って行く二人の後ろ姿を思い浮かべながら、例え夢であったとしても、そんな結末があっても良いじゃないか、偶にはそんな都合の良い結末があっても良いじゃないか、と、夢の中であっても頻りに言い訳をする自分に苦笑しながら、次第に迫って来る睡魔に身を委ね、意識を手放そうとするのだった……。
穏やかな波に揺られながら、自分も仮初でも良い、眠っている内に幸せな結末まで運んで行ってくれる様にと、そんな儚い願いを込めて。
終
春を届ける人 色街アゲハ @iromatiageha
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