第六信:透過
その日の夜も、私は、今夜は何をしようか、と考えながら、露台の欄干に腰掛けていたのだが、ふと何気無く空に目を向けて、見上げる月が何時もとは違って、只ならぬ雰囲気を湛えている事に気付いたのだった。
それは、私が初めてこの場所で自らの浮遊の啓示を受けた、あの日の夜の月と同じ、否、それよりも更に増す、怖ろしいまでの妖しい輝きに、刹那鼓動のドキリと跳ね上がるのを感じ、思わず見た事を後悔しそうな程に、それは凄まじい表情で此方に迫って来るのだった。
くっきりと周りの夜から切り取られた輪郭、でありながら、次の瞬間、ボロボロと端から毀れて行き、遂には粉々に弾け飛んでしまうのではないかと、そう考えてしまう、それ程までに内側から激しく光を放つ満月なのだった。
一旦その魔力に囚われてしまうと、最早私にはそれに抵抗しようなどと思いも付かないのであった。そのまま私は、一杯に目を見開いた月に意識の全てを奪われ、もう自分の何もかもが夢幻であるかの様に分からなくなってしまっていた。
それからどの位経ったのか、気付いた時には、私はこれまで昇った事も無い、危険な程に高い所を飛んでいた。
そこでは、高所特有の冷たく強い風が絶え間無く吹き付け、見下ろせば、遥か下方に都会の光景が、まるで紙細工かと見るまでに小さく、その窓の一つ一つから、さながら豆電球の如く黄色く平べったい光が覗いていた。
それを見て、私は知らず笑いが零れて来るのを抑える事が出来なかった。不思議と愉快な、それは玩具めいた眺め。今ある自分が元居た処から遥か遠く離れた事に対する、それは自嘲の笑いであったのか。
そうしている裡に、何処からともなく聞こえて来る、柔らかな、それでいて何処と無く物悲しさを感じさせる旋律。
それは、何時か何処かで聞いた事のある様な、しかしいざそれを思い出そうとしても、それは記憶の彼方へと遠ざかって仕舞う類の。
こう言うと人は、それは記憶の錯誤などとしたり顔で言う物だが、どうして! これ程までに感じられる確信にも似た感覚が錯覚などである物か。しかし、そうは言いながらも私はどうしてもその正体が摑めないままだったのだ。そうして、私のそんな困惑を余所に、その旋律は変わらず物悲しく。それは、誰かが一人ぼっちで口笛を吹いている様な、静かに、今にも途切れてしまうかの様に切れ切れに。
それは、耳に聞こえて来るのではなく、心に直接響いている様な、甘美な顫えに似た物を私に起こさせるのだった。自然全てをその中に委ねたくなってしまう、そんな、ただただ綺麗な旋律。
おそらくそれは、私達がこの世に生まれ落ちる以前に流れていた物。私達は生まれると同時に記憶喪失となり、それ以前の事をすっかり失ってしまうのだ。多分、それらを覚えている事は、私達人の身には決して許されない事なのだろう。そうでなければ、私達はこの世界で生きて行く事など決して出来ないであろうから。
しかし、時として僅かながら忘れきれないまま生まれてきてしまう者も居る。そうした人にとってこの世はいかに生き難い世界である事か。そう言った人たちにとっての唯一の慰めとなる物、それは生まれる以前の残された僅かな消息を、夢と云う想像によって予測し、再構築する事なのだろう。
君や私の様な種類の、夢の中でしかその安寧を得られない様な類の人間は、つまりはそう言った事になるのだろう。だがこれは話が逸れた。
そんな事を考えながらも、私は更に上へ上へと昇って行く。半ば自分の意志ではない、何かが私をこうして動かしながら、何処かへと連れて行こうとしているに違いない。しかし、何処へ? 私に分かる筈が無かった。
そして、分からないまま、気付いた時には、そのまま、私は月を通り抜けていた……。人々が月と見たもの、それは空に空いた大きな穴だったのだ。
青い月 色街アゲハ @iromatiageha
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