捕食・被食・悪食

目々

酩酊のち泥酔一歩手前

 差し出した手首に青い血管が透けて、配線のようだと思った。


「何」

「噛まないんですか、つうか吸わないんですか」

「え……? 人間もさ、いきなりパン突きつけられたって食べなくない?」


 君ペース早いんじゃないのとだけ答えて、机の上に置いた缶を取ろうとしたであろう手で盛大に空を掴んでから、茂杉先輩は誤魔化すように俺に怪訝そうな視線を向けた。


 茂杉先輩はバイト先の先輩で、吸血鬼だ。

 本当に吸血鬼かどうかは知らない。俺のバイト先は至ってありふれたコンビニだ。大学一年の夏休みに暇を持て余して始めてから辞める理由も時期も見つけられずに働き続けてもう二年は経っている。そんなところに吸血鬼がいるかと言われたらその通りだと思うし、俺だって言ったやつの頭の具合か冗談の趣味をある程度は疑ってしまう。

 確証だって曖昧だ。バイト初日に店長からそう説明されたのと、説明された本人がそう自己申告しか頼りにできるものがない。そんなものの信憑性がどれほどあるかと言われたら、全く以て怪しいものだ。


 ただ実際に先輩は飲料用冷蔵庫のガラス戸や防犯カメラに姿が映らないし、雨が降っている間は絶対に店外の清掃に出ないし、昼間のシフトで見かけたことは一切ない。


 清掃とシフトはともかく、防犯カメラは言い訳がきかない。吸血鬼は鏡に映らないらしいが、だからと言って鏡に映らないから吸血鬼という理屈でもないだろう。もっと他の何かかもしれない──人間ではなさそう、という点では全く以て納得できてしまう。基本的には人間は、というかこの世の物理法則に従って存在するものは光の反射という現象及び事象から逃れられないはずだ。それが適応されないということは、少なくともそういった理屈の外にいる存在なのだろう。俺はそう理解している。


 確証と言えるほどのものはない。けれども、否定しきるほどの根拠もない。


 それでも俺が先輩を吸血鬼なのだと当然のように受け入れてしまったのは、店内の無機質な照明の下でさえ先輩の顔色が新品の経帷子みたいな白さだったのと、やけに量の多い髪が墓石みたいに真っ黒だったのと、こちらを見て笑みの形に細くなった目が穴ぼこみたいにどうしようもなく昏かったからだろう。


 俺が先輩について知っていることはそれほど多いわけでもない。休憩で食事らしいものを取っているところを誰も見たことがないとか、毎週欠かさず漫画雑誌を買ってはアンケートまで出しているとか、そのくらいだ。

 食事を、というより固形物を食べているところを見たことがないと言ったほうが正確だろう。休憩室のパイプ椅子にかけてやたら甘い紅茶飲料やブラックのコーヒーをちびちびと飲んでいるところはよく見かけるが、あれで成人男性の必要カロリーが摂取できているとは思えない。いつだったかの深夜勤務のときに吸血鬼なら血とか吸わないんですか、と聞いたときは「俺素面だと人前で飯食うの苦手なんだよね」とやけに人間らしい答えが返ってきた。

 それでも別に体調を崩すということもないらしい。顔色はいつ見ても貧血と睡眠不足でぶっ倒れる寸前のような有様だがシフトに穴を開けたこともないし、レジ打ちも早くて正確だ。たまに喫煙所で行き会ってはぼんやりと紫煙を燻らせながらとりとめもない雑談をすることもある。煙草を摘まむ指先を見ていると仏壇の蝋燭を思い出したりするがまだ口に出したことはない。


 仕事ができて愛想もいいし同僚とも良好な関係を築けている、総合していい先輩だと思う。吸血鬼ではあれど、それとこれとは別の軸で評価が確立できている。


 少なくとも俺にとっては発売日に漫画についてそれなりの勢いと熱量での雑談兼感想会じみたことができて、好きな作家が三人くらい共通していて、見たことのある映画と見に行きたい映画が結構な率で合致する時点でいい先輩以外の何物でもない。友人と呼べるかどうかはともかく、バイト仲間としては親しく付き合えている方だろう。何となく勤めてから未だに辞めずにいる理由の一つに先輩がいる、とすると何だか大袈裟かもしれない。収入や暇潰しと比較した際の詳細な比重はともかくとして、先輩がいるからという理由は不本意ながら確かに存在している。


 だから今夜のようにして遅めの上映を見終わった後に俺の住む学生アパートの一室に雪崩れ込んでの感想会と飲み会を同時開催するような真似もできるし、それで映画の話から先輩個人の話に流れて結果として俺が奇行に及んだとしても、それは仕方のないことだと思う。


 先輩は目の前に突きつけられた俺の手を無造作に押しやって、手元の缶に口をつける。酒を飲み始めたばかりの大学生が飲み会で飲むような、度数が低くて甘口の酒をちびちびと飲んでいるだけなのに、目にうっすらと酔いの気配じみたものが貼り付いているように見える。この人そういや相当酒弱かったなとこれまでの家飲みでの狼藉の数々を思い出しつつ、俺はコップに注いだばかりの日本酒を口にする。


「人を通り魔みたいに言わないでくださいよ。どっちかっていうとあれでしょう、据え膳。そういうのを無碍にするような真似、どうなんですか」

「だって据え膳に毒盛ってくるタイプだろ君」

「あんなにたくさんのシフトを共にした後輩が信じられないってことですか」

「だからこそだよ。君好きな映画はって聞いたときに真っ先にドッグヴィル挙げたじゃん」

「ドッグヴィルの何が悪いって言うんですか。気を使ったんですよあれは、知名度あるやつ答えた方が反応しやすいだろうなって」

「好きな作家は」

「飴村行と遠藤徹です」

「そういうとこだよ」


 先輩が溜息すら吐かずに答える。その呆れすら浮かばない能面じみた顔を見ながら、俺は手元の缶を干す。

 アルコールが喉を焼きながら滑り落ちて、留まった胃をじりじりと焙る。

 一度深い息を吐いてから、更に言葉を続ける。


「じゃあ何ですか、知らない大学生の飲み会に参加して行きずりの相手の血は吸うのに、俺の血は吸えないって言うんですか」


 俺の問いに先輩は缶を手にしたまま、片目だけを細めてみせた。


「絡み酒だなあ。つうか、どうしようもなく外聞が悪いな……」


 誰から聞いたの、と淡々とした口調で先輩が問う。

 缶を持つ生白い指先を見つめながら、俺は答えた。


「多崎とこないだシフト一緒になったんですよ」

「あー……」


 同僚の名前を出すと、先輩は納得したように間抜けな声を上げた。

 多崎は近場の大学に通っている同僚で、アルバイトに入ってきたのは俺よりか後だが、そこそこ長く続けてくれているし年も近いので話が合う。

 その多崎が先月シフトが被った大雨の日に、暇潰しの雑談として「茂杉さんって飲み会好きなんですね」と意図の分からない話を振ってきたのでそのまま続けさせたところ、何でも多崎の所属しているサークルの飲み会に友人だということで参加させてほしいと頼まれたらしく、あまつさえそれを何度か引き受けたということが分かった。何だってそんなことをしているんだと他の学生バイトにも話を聞けば結構な人間が多崎君と同じことを頼まれていることが発覚し、尚更俺は困惑したのだ。

 茂杉先輩は大学生ではない。バイトが本業かどうかは知らないが、少なくとも学生だという話は聞いたことがない。そもそも詳しい年齢も知らない。以前聞いたときはホウレキ生まれだとかよく分からないことを言われた。

 細かいことはともかくとして、問題は一点に絞れる。

 全くの外部の人間が、大学生の飲み会に身分を偽って参加している。その奇行の意図が気になった。

 それを問い詰めるつもりで今日の映画と家飲みに先輩を誘った、という意図がなかったと言えば嘘になるだろう。

 先輩は視線を右斜め下の床に向けたまま続けた。


「別にさ、疚しいことをしてるわけじゃないんだよ。飲み会に参加してるだけで、年長者だから多めに払ったりもしてるし」

「そこの説明はいいです。何でそんなことしてるんですか」

「……飲み会が好き、ったら誤魔化されてくんない?」

「そういうこと言う時点で誤魔化す気がないやつじゃないですか」


 やっぱり血を吸うためですかと聞けば、先輩は先程の俺のように缶を勢いよく干した。

 逸らした喉は作り物のように真っ白で、上下する喉仏が何かしらの仕掛けのようだった。


「一応ね、合意ではあるよ。極力痕も残らないようにしてるし、無理強いとかはしないし」

「合意ならいいってもんじゃないでしょう。具体的に何が悪いったら分かんないですけど、とりあえず部外者がこう……不審者でしょう、それ」

「まあなあ。ちゃんと紹介してもらってるからそこまで不審者ってわけではないけど、部外者なのはそうだね」


 ようやく空になったらしい缶をべきべきと潰してから、先輩は息をついた。ふらりと揺れた頭をすぐに元の位置に戻して続ける。


「でもそうでもしないと吸えないし」

「だからそれは俺が」

「そうじゃなくってさ……俺はさ、自分の許容量も分からずに馬鹿の飲み方をした血中アルコール濃度とジャンクい食生活と自堕落で不規則でふしだらな生活リズムが混交した血の味が好きなんだよ」


 吸血鬼らしい、というよりシンプルに趣味の悪いことを吐いてから先輩は新しいビール缶を手に取る。プルタブを何度か引っ掻くような仕草を繰り返してからようやく開けて、そのまま口をつける。

 不本意な話題のときは酒のペースが上がる辺りは吸血鬼も人間と一緒なのだなとおかしかった。


「嗜好は一旦さておくんですけど、飲まないと死ぬんですか、やっぱり」

「死なないけどね、弱るよ。月一くらいで吸えてればまあそこそこ元気にやれるなくらいではあるけど」


 燃費がいい。人間もそのくらいの頻度でいいなら食費や光熱費が浮くだろうに。

 初めて吸血鬼先輩を羨ましいと思った。


「一応ね、月一くらいなら自力でどうとでもなるし、最悪指定の病院行けばなんとかしてはもらえるんだけどさ……味気ないからね、配給食」

「穏便にやればいいじゃないですか。バイト先の連中とか、それなりの関係が成立済みのところで」

「職場にそういうの持ち込みたくないじゃん。言ったろ、俺飯食うとこを他人に見られたくないって」

「俺に聞かなかったのは何でですか」

「君サークルの話とか全然しないから、てっきり入ってないんだろうなって思ってた」


 もしかして飲み会とか頻繁にやる方と懲りないことを聞かれて、答える気にもならずに視線だけを向ける。先輩は気まずそうに目を伏せて、手にした缶に口を着ける。

 酔いが回ってきているのだろう、瞬きの頻度が増えたその黒い目を見ながらふと考える。

 どうして俺では駄目なのだろうか。

 自慢ではないが俺も食生活の偏りには自信がある。一人暮らしになってからは三食をまともに取る日の方が稀だし、冷蔵庫にはろくな食材が入っていない。大学生らしく生活リズムは乱れ切っているし、翌日の予定に支障がなければ酒も飲む。

 先程酔いに任せて先輩が白状した嗜好にそこそこ合致しているのではないだろうか。

 どう切り出したものかを酔いの回りかけた頭で試行していると、こちらの目を覗き込むようにして先輩が言った。


「君はさあ、強い酒ばっか飲むじゃん。しかもそれなりにこう、こだわりとかある感じの」

「それは……せっかく飲むなら美味いやつ飲みたいじゃないですか。酔うまでのリミットもあるわけですし」


 好きな酒の種類も銘柄もある。けれどもそこまでこだわりがあるわけでもない。馬鹿みたいなフレーバーの新商品にも手は出すし、手軽に買えて雑に飲める安酒も好きだ。精々映画を観るときに役者以外にも監督や脚本の名前を気にするくらいのもので。この程度でこだわりというかどうかは微妙なところだ。しいていうなら日本酒やその他の蒸留酒は値が張る分だけ缶酒よりはアルコール分が高いので酔い潰れるのに重宝しているくらいだろうか。

 先輩はビール缶を両手で握ったまま続けた。


「俺はさ、甘くて薄い安い酒とかカスみたいなビールっぽいもののアルコールでしっちゃかめっちゃかになった血が好きなわけでさ」

「はあ」

「つまり君のことは嫌いじゃないし、生活習慣が壊滅してて食生活も破滅の一途を辿ってるのはいい感じに好みだけど、血中アルコールの趣味が合わないわけだ……さっきも言ったろ、俺だって美味いもの飲みたいわけだよ」


 ごめんねと本当に申し訳なさそうにいうものだからどうしようもなく腹が立った。


 先輩と後輩という関係で、ただ友好と多少の好奇心で提案したことを無下にされる。ただそれだけなのに、自分がここまで苛立つのも意外だった。

 勿論先輩にも選ぶ権利があるだろうし、そのことについて難癖をつけるだけの権限を俺が持っていない。そのくらいのことを理解できる理性はある。

 それでも何となく面白くないのは、俺にも酔いが回ってきているせいだろうか。


「まあね、君の血が俺好みのやつになったら飲んでもいいし──」

「いいですよ」


 先輩が笑顔のまま黙り込んだ。

 俺の返答の真意を反芻しているのだろう。無駄なことをしている。

 俺はその照明の下でも黒々とした穴のような目を見つめて続けた。


「いいですよ。俺が今の生活そのままに、弱くて安い酒を飲むようになれば、あんたの好みになる。そしたら吸ってもらえるってわけですよね」

「ん……まあ、そうだね。シフトと隈見る限り、君もろくな生活してなさそうだし」

「自慢じゃありませんが食事も嫌いです。だから酒飲んでるんですよ」


 酩酊とカロリーが同時に取れるなら便利だろう。俺が飲む理由の一つだ。栄養素やバランスなどは論外だろうが、極論熱量さえ確保できていれば生き物はそれなりに長持ちする。

 酔いの回った先輩の目が、怪訝そうに翳る。俺の主張のせいだろう。心外だけども愉快だった。


「月一でいいって言ってましたよね? じゃあ話は簡単だ、月に一回こうやって俺の家で飲めばいい。そんときに、安くて甘ったるくて全然酔えない酒を飲んでいればいいってだけでしょう」


 だから知らない大学生の血とか吸うの止めてくれますか──さすがにそこまで露骨なことは言えなかった。

 ただ、自分を選択肢に入れて欲しい。そこから始めるべきだろう。そう思った。


「じゃあ、まあ……考えとくよ」


 先輩がのったりと首を前に倒す。了承してくれたというサインなのだろうが、その様子がどうしてか不本意そうに見えるのは気のせいだと思うことにした。


「まずは一回、お試しからね。いくら払えばいい」

「とりあえず酒代持ってくれればいいですよ」

「君結構飲むからな、結構しそうだ……じゃあ、次の土曜にする? またこうやって家で飲んで、君が飲んだら吸わせてよ」


 それでいいかなと目を細めてから、


「あとさ、普通に心配だから飯は食べてよ。荒れた食生活の若者は好きだけど、度が過ぎると死んじゃうからさ、人間って」


 先輩との約束なと嘯く口の端から、白々とした牙が覗いた。

 俺は考えておきますと答えて、また空になったコップに酒を注ぐ。

 何だかろくでもないことのためにどうしようもないことを決めたような気がしたが、それこそ酔って忘れてしまうべきだろう。


 手にしたコップを一息に干す。

 喉に浸みる熱と甘ったるい香りに噎せ返りそうになりながら、俺の血もこうして先輩の喉を灼けるのかと想像する。

 ほんの少しだけ、愉快な気分になった。

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捕食・被食・悪食 目々 @meme2mason

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