和ませ屋仇討ち始末記

志波 連

第1話 切腹

「御当主様のお帰りにございます」


 門番の声が中庭まで響き渡った。

 数人の武士が駆け寄り、馬から降りたこの家の主の両腕を掴んだ。


「何事か!」


 腕を掴まれたこの家の主は山名藩家老三沢長政。

 長政と共に帰着した者たちが抜刀し、まさに一触即発の空気が流れる。

 その者たちを視線で制し、腕をとられたまま自宅の前庭へと進む。


「なっ……これは……」


「ははは! 俺に逆らうとこうなるってことだ。安心しろ長政、お前の妻女はなかなかの味わいだったぞ? そこに転がっている小童に邪魔をされてしまったがな」


「正晴様……これはいったい」


「俺が抱いてやるというのに拒むからじゃ。まあ、所詮は女の力、最後は善がっておったわ」


「なぜ妻はこのような姿に?」


「一番良い時に乱入した息子の罪を恥じて自害したのよ」


「息子は……」


「光栄に思うがよい。我が自ら手打ちにしてやった」


 歯を食いしばる長政の顎を扇子で持ち上げ、下卑た顔で笑っているのは、ここ山名藩の当主山名将全の次男である正晴だ。


「久しぶりに戻ってみたが、所詮田舎は田舎よの。見目良い女は一人もおらん。お主の妻女がまあマシな方というところだ。暇つぶしに抱いてやったというのに。気分が悪い! この責はお主に取ってもらわねばなるまいなぁ」


 怒りで肩を震わせつつ、長政が声を出す。


「責とは? 我が妻と嫡男の命をもってでも償えぬほどの咎がございましたか?」


「ああ、あったな。ひとつは俺を歓迎しなかったこと。もうひとつは俺に逆らったことだ。そしてもうひとつ」


 長政が顔を上げた。

 へらへらと笑う正晴の右腕の着物が切れ、ほんの少し血がにじんでいる。


「この俺の体に傷を負わせたことじゃ。このことは万死に値すると思わんか?」


 長政は返事をしない。


「この大罪はお主の命で償ってもらおうか。長政、家名断絶の上切腹を申し付ける! 準備をいたせ!」


 長政は動じずゆっくりと口を開いた。


「我が妻に対する狼藉、そしてそれを止めようとした嫡男への刃傷。とうてい納得致しかねる所業でござる。このことは改めて主君に報告し裁断を仰ぐ所存。お覚悟召されよ」


「なんだと! この俺に逆らうと申すか!」


「我が方に非はあらず! 正晴様の暴挙と存ずる!」


「やかましい! ああ、お主にはもうひとり子がおったな。その子に咎を受けさせようぞ」


「正晴様!」


 長政の叫びに、顔を歪めた正晴が側近に耳打ちをした。


「お待ちください! 我が次男はまだ幼少の身。その者に咎を受けさせるなど正気の沙汰ではございません!」


「うるさい! お主がわが身可愛さに言い逃れをするからそうなるのじゃ。早よう連れて来い! そうじゃ幼子と申したな。では切腹も儘なるまい。我が刀の錆にするのも面倒じゃ。誰か! 木刀と縄を持って参れ!」


 その頃三沢家次男の新之助は、学問所からの帰り道をてくてくと歩いていた。

 その手には途中で拾った梅の小枝を持っている。

 この角を曲がれば正門という場所で、いきなりしゃがみ込んで蟻の行列を眺めていた新之助の視界が影で覆われた。


「新之助様、こちらへ。お急ぎください」


 いつも優しく話しかけてくれる男が、真っ青な顔で立っている。


「安藤さん? どうしましたか?」


「後でご説明いたします。声を出さず私と共に」


 戸惑う新之助の手を引き、外塀に沿って裏に回ったのは、三沢家剣術指南役の安藤久秀だ。

 久秀は安藤家の三男でありながら、その類まれな剣の才能を見込まれ、剣術指南役として三沢家に出仕していた。

 元来の子供好きで、嫡男哲成も次男新之助も、この久秀に剣を習っている。

 その久秀に抱えられるようにして、新之助は訳も分からないまま裏庭へ続く戸をくぐった。


「何事ですか……血の匂いがします」


「お気を確かに持たれよ。詳細は後ほどご説明申す。今はこの安藤を信じてここでじっとしておって下され。何があっても声を出してはなりません。私以外の者には気を許さず、何があってもここに隠れていてくだされ」



 今年8歳になったばかりの新之助でも、肌で感じるような緊張感が呼吸を忘れさせる。


「わかりました」


 頷いた新之助に引き攣った笑みを見せ、久秀はその小さな体を納戸の奥へ押し込めた。

 頭の上から隅に積まれていた古布を掛ける。


「必ず私がお迎えに参ります」


 そう言い残すと、静かに戸を閉め走り去る。

 気配を消して座敷に上がると、白装束に着替えている長政と視線があった。


「首尾は」


「抜かりなく」


「時間が無い。すぐに発て。文箱に金子がある。急な事にてそれしかない」


「お許しいただけますれば、相打ちなら可能かと」


「無駄じゃ。新之助を頼む。仔細は江戸の柴田殿に」


 それだけ言い残すと、長政は静かに部屋を出た。

 文箱の金子を懐にねじ込み、納戸に取って返した久秀は、新之助を連れ出した。


「ここから先、何があっても声を出してはなりません」


 頷く新之助の手を引き、納戸の裏を通って前庭が見える廚へと向かう。


「目に焼き付けておきなされ」


 細く開いた板戸から見えたのは、後頭部を割られ、血まみれで絶命している兄と、その骸の横で今まさにその刃を腹に突き立てようとしている父の姿だった。

 新之助は歯を食いしばり、悲鳴を飲み込む。


「御免!」


 介錯の刃が振り下ろされると同時に、新之助は気を失った。

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