第9話 新居

「荷物が少ないと呆気ないものだなぁ」


 風呂敷包みだけで引っ越しが完了した安藤と咲良と新之助。

 来る途中で購入した箒を使いながら久秀が呆れたような声を出した。

 柴田家で貰った古布で畳を拭き上げている新之助が声を出す。


「引っ越しとはそれほど大変な事なのですか?」


「そうですねぇ、私が江戸から国元に帰る時でさえもう少し荷物がありましたよ」


 竈の灰を搔きだしていた咲良が聞いた。


「調理道具なども必要ですが如何いたしましょうか」


 久秀は眉を寄せて溜息を吐いた。


「それはおいおいですね。まずは布団を何とかしないといけません。二組は必要でしょう?」


「布団ってどのくらいするのでしょうか……」


「私の経験では、せんべいなら四百文もあれば買えますよ。二組なら八百ですね……はぁぁ」


 咲良がギュッと目を閉じた後で言葉を発した。


「安藤様、私の着物を売りましょう」


「いや、それは」


「私は貧乏浪人の妻でございましょう? 絹物など必要ございません」


「面目ない……男として情ないです」


「安藤様、そのようなことを言わないでください。安藤様の責任ではありません」


「そう言っていただけると多少は気も楽だが……それより咲良殿、我らは子まで設けた夫婦ですよ? 安藤様は無いでしょう?」


「あ……そ……そうでした。では何と呼べば? 旦那様とか?」


 久秀が息をのんで赤面した。


「なかなか破壊力がありますね。ではそのように。新之助様も、呼び捨てに致しますが、どうぞご容赦ください。それと、私を父と、咲良殿を母と……我慢してくだされ」


「はい、よろしくお願いいたします」


 拭いたばかりの畳に座って頭を下げあう三人。

 ふと咲良が言う。


「旦那様は私をなんとお呼びになるのでしょう?」


 久秀の顔が再び朱に染まる。


「さ……さ……さくら?」


「はい、旦那様」


 掃除の手を止め、暫しそのまま互いを呼ぶ稽古をしていた。


「ごめんなさいよ」


 カラッと玄関が開き、お嶋が顔を出した。

 居住まいを正し並んで頭を下げる。


「お嶋殿、此度は本当に世話になった。これが妻の咲良、こちらが一子新之助だ」


「まあまあ、ご丁寧におそれいります。私はついそこで柳屋という料理屋をしております嶋と申します。ちょいと良い男だと思って私からお声がけをしたのがご縁の始まりなんですよ」


 咲良が丁寧なお辞儀で返す。


「お嶋様、私は安藤久秀が妻、咲良と申します。何分にも世間知らずでお恥ずかしい限りでございますが、どうぞ良しなにお導き下さいませ」


 新之助も声を張る。


「あ……安藤新之助と申します。どうぞよろしくお願い申します」


 お嶋が目を丸くした。


「いやぁ、こりゃ驚いた。さすがお武家様のご一家だ。この辺りじゃお目に掛かれないような人品ですねぇ。私はご覧の通りの不束もので、言葉遣いも作法もさっぱりなんですよ。お恥ずかしいのはこちらの方ですが、どうぞよろしくお願いしますね。ああ、そうだ。用事があって来たんですよ。ねえ安藤様、いつから働けます?」


「私の方はいつからでも構わぬが」


「じゃあ明日からお願いできますか? といっても最初は調理の補助だけですから心配には及びません」


「相分かった。よろしく頼む」


「それと、言いにくいのだけれど……一応私が女将ですから、店の者の前ではその口調は勘弁願います」


「あっ……ああ、そうだな。いや、そうですね。女将さんよろしくお願いします」


「あらあら、こんな良い男にそう言われちゃうと照れちまうねぇ。それと台所の物などは買う前に相談して下さいな、店で使わなくなったものもあるし、買うにしても顔が利くからね。布団とか鍋釜もいるんじゃないのかい?」


「ええ、これから買いに行こうと思っていたところです」


「それなら知り合いを寄こしますよ。商売仲間だから悪いことにはしやしません。じゃあ後で顔を出させますからね」


 手を振りながら出て行くお嶋を、三人はポカンとして見送った。


「何というか嵐のような人だなぁ」


「本当に……」


 気を取り直して掃除の続きをしていると、ものの一刻で布団屋が顔を出した。

 なんでも吉原に卸している店らしく、在庫はあるのですぐにでも納品できると言う。


「それほど贅沢なものは必要ないのです。敷物を三つと掛物を三つ、枕もあれば尚良しです」


 とんとんと話が進む。

 人の良さそうな布団屋の若旦那が、ニコニコしながら言った。


「でもまだお若いんだ。大きめの夫婦布団をひとつと、坊ちゃん用のをひとつで良いんじゃないですか?」


 久秀が慌てたように言う。


「いや、同じものを三組でお願いします。それで……代価はいかほど準備すればよろしいでしょうか」


「そうですねぇ、お嶋さんと相談してみますよ。なに、それほど無茶なことは言いません」


「そうですか……」


 そうこうしているうちに、今度は勝手口から声がかかる。


「柳屋から参りました」


 咲良が慌てて対応に出る。

 なにやらごにょごにょと話していたが、困ったような顔で久秀を呼んだ。


「どうしましょう、旦那様」


「どうしました?」


「鍋やら釜やら、まな板から包丁まで」


 紺色の腹掛けをしたまだ稚児髷のままの少年が、大きな風呂敷包みを背負ったまま勝手口に立っていた。


「これは……」


 あまりの待遇に困惑した久秀だったが、腹をくくることに決めた。


「ありがたくいただきましょう。後は仕事でお返ししていきます」


 その声を聞いた少年が嬉しそうに背負っていた荷物を板場に置いた。


「では失礼します」


 誰が教えたのか、商売人らしい丁寧なお辞儀をして駆け出していく。

 咲良はどうして良いのか分からず、久秀の顔を見た。


「まあ江戸っ子の気風って奴でしょう。ここは甘えておきましょう」


「はあ……何というか……凄い人ですね、お嶋さんって」


「ええ、少々強引だが悪気が無いし、腹に何かを持っているわけでも無い。何というか、傑女って言うのでしょうね」


「なるほど……お勉強になります」


 昼時になると、もり蕎麦が届き、夕刻になると酒と煮しめが届く。

 さすが吉原贔屓のお大尽が贔屓にする料理屋だと、久秀も咲良も感嘆してしまった。

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