第4話
人の視線が気になって嫌だった。鼻先に白い画用紙が降ってくる。ひらひらと薄水色の空 を泳ぐ。紙は数秒後には重量に負けて、校庭へ落下した。一枚、一枚、一枚、一枚。まばらに、けれどもとめどなく振り続ける画用紙に違和感を覚えた生徒が何人も足を止める。
昇降口の手前で、仲良く記念撮影をしていたショートカットの元女子バスの彼女たちも、 顔を見て発生源を探した。彼女たちはそのままスマホのシャッターを切った。屋上だ。誰 かが発見する。おれも目を細めて、屋上を確かめる。ちょうど南中していた太陽がおれの 視界を光で塗りつぶした。光が何重にもぼやけて、繰り返し瞬きをした。普段なら立ち入 り禁止の屋上にひとつ人影があった。紺色のスカートがひらめき、胸元の『卒業おめでと う』と書かれた花の飾りも風に揺れた。少女の影は、抱えていたスケッチブックを一枚め くり 、それを根本から千切った。ああ、やっぱり。
「あれ、3 組の晴田だ。なんで屋上なんかに… … ?美術部のパフォーマンスかな」
ちぎった紙をそのまま放る。捨てているようにも見えたし、紙飛行機を遠くまで飛ばそう としているようにも見えた。
晴田の手から離れた紙が宙を泳ぎ、ゆっくりと落下した。おれはゆっくりとしゃがみ込み、 少し砂を被った画用紙を拾って、側面を撫でた。 おれのスケッチだった。鉛筆の線も、画用紙に残るかすかな躊躇いの跡も、紛れもなくお れだった。 騒ぎに気がついた先生の怒号が聞こえだす。屋上も騒がしくなる。けれども晴田は顔色ひ とつ変えずおれのスケッチブックを散らしていく。
三月の薄い水色に白が散る。雲さえひとつない、快晴だからより白が際立ってうつくしか った。晴田はキャンバスに絵筆でえぐるように絵具を載せて、感情をばら撒くひとだった。 それを野生動物のようにうつくしいとおれはおもっていた。その彼女が他人の、おれのス ケッチブックをふりまいている。 画用紙をすてて、校門へ向かおうとするおれを「最後までみていかないのか」と坂口が引き留めた。あれと屋上を指さす。
「俺も教師やって十年ちょい、これまで自由に卒業制作をさせてきたけどな、こんなのは じめてだよ。最終日まで出さない挙句、屋上ジャックしてパフォーマンスする類の作品を 出してくるとはねえ」
わざとらしい坂口の言葉に思わず笑いが込み上げた。
「あそこまで派手にやれるのも晴田杏璃の天賦の才ってやつなんでしょうね」
「やけに他人事だな、お前も共犯だろ」 坂口はスケッチを一枚拾い上げ、おれに差し戻す。
「おれはただ… … いらないものを彼女におしつけただけです。おしつけたもので彼女が創作活動をした。それが油絵ではなくこういうカタチだった、単純な話じゃなですか」
そうだ、おれは、晴田杏璃のカッターナイフで、絵具で、キャンバスだった。おれは、晴 田杏璃のつくる傑作の画材のひとつだったんだ。ああ!なんて。
「青垣。結局、美大やめてそのまま内部進学するんだって?」
「はい。経済学部に進学します」
「じゃあすぐ近くのキャンパスか。んで、お前の主張だと、これはあくまでも晴田の卒業 制作である、と。あってるか?」
はい、とおとなしく口で答えつつ、だからなんだと坂口を睨む。
「おまえは卒業制作が未提出ってわけだ」
「居残りでもすればいいんですか」
「それもいいけど、まあ、宿題だな。いつになってもいい」
恩師があたりまえのようにいうから、なんだか目が熱くなって、視界がにじんだ。ごまか すように屋上の、太陽の方をみた。
なあ晴田、きみが憎い。傷も膿も汚い生理現象も思い出もそうやってみんなひとまとめに うつくしいものに加工してしまうから。きみをみてると死にたくなる。
でもさあ、おれみ たいな出来損ないだってきみの手にかかれば美しい作品になれるんだって。
なあ、この喜びをどうすればいいかわからないんだ。 すべてをばらまき終えた彼女が大きく手を振る。
おれは右手を挙げた。おれのさよならの合図だって彼女に届いたのかはわからない。けれど晴田はV サインを向けた。
それが笑顔だったことは逆光の中でも、おれにでも、わかった。晴れてよかったなと隣で坂口がいう。
ほんとうに、今日は晴れてよかった。 三月一日。高校の卒業式、おれは親友と絶交した。 けれどもそれは、世界でいちばんやさしい断絶だった。
おれはそう、信じている。
願わくば、晴田杏璃にとってもそうでありますように。
せかいでいちばんやさしい断絶 入相 @harukujiracco
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