第3話


コバルトブルーの絵の具が手のひらから滑り落ちる。悴んだ指先の感覚が鈍っていたのは わかっていたのに。お守り以上におれの指の隙間にしっくりきていたものがなくなると不 安でたまらなくて、けれども満員電車では身動きが取れず、せめて小指ほどの白いパッケ ージがどんな軌道で転がっていったかだけでも視界に入れたくて、首を伸ばす。


けれども 朝の喧騒の中で誰かの尖った革靴の先に蹴られて、どこかへ消えた。

ベンチの下?自販機 の隙間?

見つかったところで誰かに踏まれたそれは使い物になるのか。探すより買ったほ うが早い。コバルトブルーでなくても青はある。だから別に。そう、あれには、いくらでも代わりがいる。


電車の中で絵の具を握りしめた形のまま、右腕が脱力する。指先だけに力がこもっていて、 身体の感覚期間全てがおかしくなったようだった。

部品の一部が故障して、電気が通らな くなった機械人形はえてしてこんな思いだったのかもしれない。


本当におれが絶交すべきだったものは、晴田の隣にいる権利じゃなかった。

恋だの愛だの いわれても、適当に頷いておけばよかった。

でも晴田の隣を手放さなければ、間違いなく おれは殺されていた。晴田の無償の愛に、あいつの運命に!

どうしたっておれは、晴田杏 璃に出会ったあの日からどうしようもなく詰んでいたんだ。


一昨年の展覧会の図録だった。断絶と調和。表紙になっている大きな青い作品も、現代ア ートらしい、抽象的で、超然としていて、こちらを煽ってくるような作品だった。表紙に なっている作品は見たはずなのに思い出せない。ほら、美術なんて極めたってこうなる。 おれは口の端に薄い嘲笑をはりつけながら、表紙を開いた。つらつらと書かれるまえがき を無視して、作品のページをめくっていく。タイトル、無題。それが一番意味が分からな い。ページをめくる。書道のようにけば立った筆跡を見せて、重ねて、歪なグラデーショ ンを作成する。紺地に白い渦、茶色のかたまり。さながらニュースがうつす台風の進路図 のようだ。これでタイトルは「集中する力」とくるんだからわからない。

お次はピンク・ フロイドの狂気のジャケットのような絵。タイトル「作品」だからなんだよ。答えてくれよ。目が痛い。色が、形が、感情が、おれを刺す。

青りんごのかわむきの絵。 虚像。シンプルなタイトルの油絵だった。この絵は中央がせりだすように歪んでいて、右端と左端で受ける印象が全く違う。

たったそれだけの仕掛けの作品。正面から見ればキャンバスが歪んでいることが一目瞭然で、写真で全体を俯瞰してしまうとなんともつまらない絵だった。断絶と調和。これの感想だ、この言葉は。断絶を調和だといってしまえる無神経さだとか、調和と断絶をはき違えたおれと晴田になんてぴったりなんだろう。

切り裂いてやろうか。絵の前でカッターナイフをちらつかせる。泣き叫べよ。刃におれの 顔が映っている。手首を外側に傾ければ入ってくる光の角度がかわり、おれの顔は溶け、 街灯のひかりを反射して銀色に光った。


「おい愚弟」と姉の低い声がした。姉はおれが答えるよりさきに「話があるから車に乗り なさい」とドアを開け放った。

「おれはなんもしてない」

「うん。なんもしなかったねあんたは」

じゃあなんで。

「なんもしなかったからだよ。気持ち悪がらなかったでしょ、お母さんに習って害意を発 したり、お父さんの伝書鳩にだってならなかった」

「こう言ったらあんた起きるかもだけど、なんでもよかったんだよ。美大受験でも、深夜 ドライブでも、水泳教室でも、旅行でも。途中で辞めても、クソガキが、で済ますつもり だったの。ほら、私って幸いお金はあるから」

「………… おれ、そこまでしてもらうほどいいことはしなかっただろ」

「それ以上に私はあんたから機会を奪ったんだよ。テーマパークで遊ぶ機会も、お父さん とクロールの練習をすることも、運動会で家族全員でお弁当を食べることも、全部」

酷い姉だよね。

「… … じゃあもっとやさしくしてほしいすけどね」

「してるでしょーが、お姉様に感謝なさい。美術予備校2 年分がどんだけになると思って んの。美大進学だって画材だって私が出すことになってたんだから」

「それに関してはちゃんと返すよ」

「馬鹿。言ったでしょ、借りを返してんだからそれをまた返したらややこしいでしょうが!」

「あらそう?友達できたんでしょ」

「絶交したし」

「あはは!流石は私の弟、肝心なところですぐアクセルを踏む!」

「笑い事じゃねえんだけど」

「笑うしかないでしょうが、っていうか積極的に笑いなさい。あんたの姉さん見なさいよ。 家を引っ掻き回すだけ引っ掻き回して、あの時の子とは別れてるし母親と通話だってして る」

「別にこれからあんたは絵を描いてもいいし、描かなくたっていい。その友達に会いに行 ってもいいだろうし、会わなくてもいい。できるんだったら応援する。まあ、やれなかっ たことだって責めることはないわ」

「でも、あんたは人を傷つけた。私は、家族もあの子も傷つけた。それは忘れないように しましょう」

おれは、絵がかける人間だと思っていた。なんなら、上手いとさえおもっていた。絵がう まいから、絵を描く人間だからおれは生きていてもいいと思えていた。絵がかけなくなっ たら、ダメだったら死ねると信じていた。その選択肢が取れる人間になりたかったんだ。 そして、晴田杏璃はそういう女であって欲しいと思っていたんだ。

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