第2話


秋。十一月、神様のいない月。蝉は地面に落ちていなくなり、みずたまりのそばを歩いて もボウフラに襲われなくなった。 金賞 青垣あおがき 一透かずゆき。夏のあの惨めさも、晴田との喧嘩も全ておれを裏切 ったわけじゃなかったんだ。絵を描いていていいんだ、おれは。頭ではわかっていたが、 どうしたっておれは都合がいいから、神社に行ってお礼参りをした。 石段をひとつずつおりながら、姉に報告に行こうと思い立った。朝の時点では、予備校に 行こうと思っていたが、講義もないのだから必ず行く必要はない。なによりも、おれの美 術予備校代も画材代もすべて姉が負担してくれている。真っ先に報告すべき相手だった。 姉のすきなショートケーキを買っていこう。ショートケーキ。舌先で溶ける白いなめらか なクリームに、少しざらざらとした黄色いスポンジ。先から根元まで深い赤に染まったイ チゴ。

「美大を受験するのかって、お母さん、それは一透と話し合って。私はあの子にできるこ とをしてあげてるだけ。… … 罪滅ぼし?そうよ、なにか文句ある?」

姉は電話をしていた。家でしたい話ではないことはすぐにわかった。

「私がはじめたことなんだから最後まで責任は持ちます。もういい?人を待たせてて。… … どうして私がお母さんたちにいまさら恋人の話をすると思っているの?」

姉は、最後は吐き捨てるように電話を切った。いましかない、と思った。それと同じくら い隠れたいと思った。 「あ、電話終わった?」 「ごめん。時間間に合うかな… … でも車でとばせばすぐだから」 「事故ったら元も子もないよ。聞いて万智ちゃん、私ドライブデートだいすきなの」 おれはずっと学習しないやつだ。はは、と乾いた嘲笑が喉にはりついた。彼女たちが玄関 をでていくから慌てて正反対のほうへ逃げた。3 階から4 階むかう踊り場でへたり込む。 大丈夫、おれには証がある。深呼吸をしながら、もう一度結果がのっているホームページ を開く。最優秀賞、なし。金賞、青垣一透(かずゆき)。銀賞、銅賞と知らない名前がつづいて、最後 の行をおれは都合よく見落としていた。県知事賞:晴田杏璃。去年も、一昨年もなかった。 初めて作った賞。晴田杏璃のための、賞。 晴田からメッセージが入った。

『金賞おめでとう!』『祝賀会をかねて美術館いこうよ』既読。一番最初に目についた飛び跳ねるウサギのスタンプを送信する。そのあと、なにげな しに絶交しよう、と文字を並べた。送信はしない。ただ画面を見ている。絶交という二文 字はスマートフォンではすぐには出てこないことを知っている人間は一体どれほどいるの だろう。 絵を描こう。この孤独感も全て絵にして吐き出そう。あの赤い絵のように、全部をぶちま けて晴田をめちゃくちゃにしてしまうような絵を。おれの絵をみて、嫉妬に狂う晴田のこ とを脳裏に描こうとして、失敗した。 イーゼルをたて、キャンバスを置く。絵の具を油で溶かす。その最中、おれは何度も唱え た。大丈夫、大丈夫、大丈夫。おれはきっと大丈夫。けれども、何かの塊がおれの心臓を なで、肺を通り、気管支を駆け上がってくる。恐怖のような、焦りのような、絶望のよう な。どれともよぶことができない塊がおれの内臓を蹂躙していた。 ショートケーキ。白いなめらかなクリームに、少しざらざらとした黄色いスポンジ。それ から、つややかな赤。クリームのようにぶあつく白を置く。盛り上がった色気のない白を カッターナイフで削っていく。絞り口のように美しい波になるように。盛っては削り、削 っては盛った。 おれのなけなしの才能が死んでしまう前に、おれの十八年をかけて傑作を作らなければな らない。おれは今すぐ証明しなければならない。


「青垣、あたしと出会った時のこと覚えてる?先生の同級生が書いたっていう絵のまえで、 あたしたち頓珍漢な印象を話したよね。青垣は青リンゴの皮むきで、あたしは水と陸地が 反対になった地球だっていった」

うん。晴田が目を伏せて髪を耳にかける。晴田の爪先は淡いピンク色に塗られ、人差し指 にはラインストーンがついていた。見たがっていたけれど、指摘することができなかった。 照明の揺らぎに合わせて晴田のまぶたがきらきらとひかる。

「あたし、いまでも昨日のことみたいに覚えてる」

虚像。シンプルなタイトルの油絵だった。均等に黒く塗りつぶされた横に長い画面の中央 に白い紐が張られている。頼りない細い紐。たしか刺繡糸を数本編み込んだ紐だった。半 分に分けられた画面のそれぞれに明るい黄色の球体が描かれている。土星の環のように球 体を囲む明るい緑色の環が描かれている。ただ土星と違って、球体と環の線は繋がってい て、丁度緑色と黄色のグラデーションになっていた。なんどみてもりんごの皮むきだ。そ れは全体でみれば球体ではあったが、上から下へ向かうほどに小さな粒子のように散って いた。左右とも、概要としては同じ絵だった。ただ、右では黄色の部分が、向こうでは青 にぬられているだけだった。

「あたし、青垣のことが知りたくて、青垣が世界をどうみているのか知りたくて、同じ油 絵を始めたの」

「… … 意外だ。おればっかり晴田のこと追いかけてるんだと思ってたから」

「あたしのほうがずっと必死だったよ」

胃の下がちくりと痛む。いやな予感がした。

「あたし、青垣がすきだから」

「… … おれの絵が?」

終わりにしてくれ。勘弁してくれ。きみは、晴田杏璃だろ。天才ら しく感情的に、作品制作をするんだろ。絵の具のチューブからそのままキャンバスに乗せ たり、うさぎを青く塗りつぶしたり、おれを怒りの感情にまかせて殺した絵をおおやけに みせる。

「初めて会った日の青垣の笑顔がわすれられないの」

なあ、やめてくれよ。おれの 願いも空しく、水族館の青い光がおれたちを仮想的な夜に閉じ込める。

「青垣の笑った顔がすき。デッサンしてるときすぐ夢中になって右手を真っ黒にするとこ ろがすき。作品を作り上げたときの自慢げな軽口がすき」 青垣の全部が好き。骨も血も全部、ちょっと面倒くさいところも。 「あたしね、青垣が描いた絵は全部が傑作だと思ってる。いつだって青垣の隣にいたくて、 同じものがみたくて。ほら、あたしこれまで転勤続きでずっと一緒の親友とかできたこと んかったし」 知らない、聞いていないそんなことは。頼むからそれ以上なにもいわないでくれ。

「なんで。よりによって、晴田が、きみが、そんなことをいうんだよ」

おれのことがすきならどうして天才でいてくれないんだ。

「なあ晴田、おれとおれの絵、どっちかしか選べないならどうする?」

おれのなけなしの才能が死んでしまう前に、おれの十八年をかけて傑作を作らなければな らない。おれは今すぐ証明しなければならない。おれは天才じゃない。初めから絵を描く 運命を背負って生まれてきた子どもじゃないけど、晴田の下位互換だけど、おれは絵を描 いていていいって証が欲しかった。おれがすきならおれの笑顔より、書いている姿より、 おれの絵を選んでくれよ。

「… … それって、どっちかを選ばないといけないこと?」

アイシャドウとアイラインで誇張された目が困惑で歪む。

「じゃあ、きみは、おれがみじめになるから絵を書くのをやめてくれといったら止めるの か」

ああ、頼むから否定してくれ。それはできないといってくれ。

絵を奪われたら死んでしま うと答えてくれ。

「そんなことで信じてもらえるなら。あたしは絵をやめるよ」

悲しそうに 彼女は微笑んだ。

「信じてよ。あたしたちは親友じゃん。三年間一番近くにいたでしょ」

「… … 十八年のうちたったの三年だろ」

晴田杏璃は運命に選ばれた子どもだった。どんな人生のまわりがあろうとも、彼女は必ず 絵を描き始めただろう。今回は偶然、おれだっただけで。

「なあ晴田。この一年、おれがきみとどうなりたかったかわかるか。おれときみは親友で、 きみはおれのぜんぶがすきならわかるだろ」

意地の悪い問いかけだった。はは、と舌が嘲笑で焼けきれる。痛い。熱くて、痛い。でも 頭の指先だけは冷えていた。 彼女が泣きそうな顔で首を左右に振る。

「じゃあ答え合わせだ」

悲鳴になり損ねた呼吸音が 横隔膜のしびれとともに内臓を傷つける。

「きみの絵を見るたびに、殺してやりたいと思ってた。にくかった。きみが死んだらおれ がこの絵の作者だって名乗ってしまいたかった。世界でいちばん美しいと思ってた」

もっとはやく、おれはきみにさよならをしなければいけなかったんだ。

「どうして?」晴田 の目が朝の湖畔のように光る。うつくしいと思った。メイクで飾り立てる姿よりもずっと、 おれはそっちの晴田がすきだった。爪の間にあらいのこしの青い絵具をちらしている晴田 杏璃がすきだった。運命に選ばれた晴田杏璃が憎たらしくて、でも、やっぱりきみの絵が いとおしかった。きみは五月の木漏れ日のようにうつくしい。だから、おれじゃなくたっ ていいよ。

「絶交しよう。もうおしまいだろ」

「いやだよ」

「じゃあ付き合うか?おれはきみとキスもセックスもできないけど。きみを愛してるなん て死んでもいわない!」

「それでもいい。どんな形でも青垣のそばにいたい」

いやだと首を彼女が振る。なみだが青白く瞬きながら落ちる。星が墜落する。ふざけるな と思う。彼女にのこしたおれのなけなしの友情が叫んでいる。やめろ。でも同じくらいお れのエゴイズムがきれいだと感嘆している。こんな奴、おれなんかに、おれのために不幸 になろうとしないでくれよ。

「……… おれは、限界なんだ。ごめん、後出しじゃんけんしかできなくて。だから、他の 誰かと」

なあ、晴田。こんなの哀れだって思わないか。

おれは後出しじゃんけんしかできないから、もらった手紙に返事を描くことしかできない やつだから、未練がましくいうよ。おれたちが絵筆を持てない虫であれば、よかったな。 夏、水辺にわくボウフラのようにただそこで湧いて死ぬだけの生涯なら、運命なんかに怒 り狂うことなんてなかったんだ。きみもおれに泣かされずに済んだはずだ。 だからさ、やっぱり、おれたちは出会ったこと自体が間違ってたんだよ。

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