せかいでいちばんやさしい断絶

入相

第1話


 赤いうねりに飲み込まれ、青い直線に首を絞め殺される。スリラー映画。さて、これは なんの映画だったか。パラサイト。機械仕掛けのオレンジ。ミッドサマー。好きな映画を あげて全て振り払う。違う、どれでもない。悲鳴。恐怖。叫び尽くして、唾液が口の端を 伝う。ああ、これは一体誰の悲鳴だろう。おれは首を捻る。いち、に、さん。三秒後、右 脳がじわりと痛んだ。いま美術部準備室にいるのはおれ、たったひとりだ。


 視界は陽光を 乱反射し、膝をつく。深呼吸を通り過ぎて短い息と嗚咽が出た。 まばたきを一回すると額から汗が滴り、生理的な涙と混ざって目を覆う。ぼやけた視界の 奥、赤いうねりが友人と同じ声でおれを呼んでいた。



 _ _ ねえ。どこか不満げに、もう一度 おれに呼びかけてきた。汗を拭う。_ _ _ _ はいってこないの?



 それは晴田はるた杏璃あんりの声だった。世界が重力を失っても、おれは晴田の声だけは聞き間違えない自身があ った。口元の唾液を拭い、部屋の中へ一歩踏み入れた。 美術準備室には多種多様な画材と、これまでの様々な制作品が地層のように積み上がって いる。美術品というよりはいっそ科学館のバックヤードのように感じる場所だった。


 赤い うねりと青い直線がくすくすと笑う。正体は一枚のうつくしい油絵だった。やっと来た。 その絵は八月の強烈な朝の陽光から逃げるように、部屋の片隅にあった。さっき受けた印 象ほど大きな作品ではなかった。

 ありふれたF 号のキャンバス。縦四十センチメートル、 横二四センチメートルの少し小さな窓くらいの大きさだった。

 うねりは荒れた海の海面をそのまま持ってきたかと錯覚するほどに力強く、散らばる赤は 明日台風が到達する暮の毒々しい空をくりぬいたように陰鬱だ。抽象画としても風景画と しても申し分のない、うつくしい、傑作。

 そしてこのうつくしくもおそろしい光景を全て ぶち壊すように、二本の青い直線が乗っている。その青は作品の均整を明らかに崩してい た。キャンバスの右上から右下を、左下から左上を、それぞれ直線で結んでいる。いわゆるバツのマークだった。一番不快なのは、この青色の直線だけは油絵の具がキャンバスの 上に盛り上がるほど載っているせいで、不自然な影を生んでいるところだった。

 二次元世界として完全で、境界を忘れていたところに、現実がカッターナイフで腹を刺す。 語りようもない怒りとむなしさを感じながら、作品の真正面に立つ。近づいた分だけ、ツ ン、描き上げたばかりの油彩絵の具特有の匂いがおれの鼻を突き破った。 長く息を吐き出してからもう一度油絵を見る。辞書通りの神秘的なあかくうつくしい光景と、その上を走る乱暴な筆致の青の直線。断絶と調和。いつかの美術館の展覧会テーマが おれの口をすべり落ちる。

 これはおれの断罪だった。

 子供の算数の解答用紙に付けられる不正解の記号。間違いだ、と指摘することが重要であ り 、それ以上の意味を持たない。これはこの青い不正解マークを得て、ようやく完成した。 ああ、今すぐここから逃げたい。けれども足は動かない。絵は言葉を持たない。けれども 絵は声を持つ。この絵は晴田杏璃そのものだった。怒りと断罪。おれの耳の中で悲鳴がこ だまする。もう、勘弁してほしい。切実にそう思う。こんな天才の隣にたち続けるために 必要な証はなんだ。おれにはもうわからない。 ふたりきりの美術準備室の床に西日が突き刺さる。



「夏休みは部活にいかないと思う」と告 げると、晴田は「また予備校?」と問うた。おれは頷く。晴田は少し眉を釣り上げ、両手 をぎゅっと握りしめた。その所作はちょうど祈りのようだった。

「最近寝てる?先週の火曜日、遅刻してきて、結局三限終わりに保健室にいって帰ってこ なかったよね」

「… … 美大受験は夏が追い込みのチャンスなんだ」

「せっかくだし息抜きがてらおいでよ?コンクールにだすものもさ、気負わず、ちょっと 遊ぶくらいの… … 」

「できない」と首を振れば、晴田は声を張り、教師のように言うことを聞かせようとした。

「あのね、いまキミは正気じゃない。前々から言おうと思ってたけど、他人の目を気にし すぎだよ」

「おれは正気だよ。これが普通。逆に聞くけどさ、全く他人の目を気にしてないやつなん ているのか?金を出してる人のことを考えたりはしないのか?」

「でも」

「コンクールも受験も最後に決断するのは他人だろ。傑作だってそうだ」

「でも、あたしは、今の青垣が楽しそうに見えない」

 晴田は縋り付くようにおれの肩に頭を寄せる。ほとんど抱きついているようなかたちにな った。どういうつもりなのかわからない。でも、晴田はずっと足元を見つめたままなにも いわない。無理に突き飛ばすこともできず、おれはただ晴田のつむじを見ていた。

「おれは傑作が欲しい。誰がみても納得するような、証明が欲しい」

 両親も、姉も、腐れ縁の同級生も、教師も、部員全員がわかってくれなくても、晴田なら 理解してくれる。ため息をついて、呆れながらも、叱りながらも、自分には才能があると 証明する行為を認めてくれる。だって、好きなことを続けることは、必ずしも楽しいこと だけじゃないだろ。なあ、晴田。きみだってそうだろ。

「青垣、キミはつまらなくなった」

 顔を上げた晴田の顔はこれまでの3 年間の中で一度もみたことがない表情だった。

「口を開けばコンクール、予備校、証明だの傑作だの!キミそのものがつまらないから、 作品もつまらない。ねえ、本当にあたしのいってることがわからないの?」

 晴田はうつくしい声を嗚咽混じりに張り上げて、子供のように駄々をこねる。晴田の衝動 に直接、頭が揺さぶられる。おれには、晴田が理性を失ってしまったのか、それともこれ はただの子供の駄々なのかが、わからない。どうして、と理解を拒むように晴田が頭をゆ るゆると降る。真っ直ぐな黒髪がおれの頬に当たった。 晴田の情動に溺れながら、かろうじて息継ぎをするようにおれは答える。

「コンクールは高 校最後だ。受験だって無視できない。結果が欲しいことの何が悪いんだ」

 おれはいつも通 りだった。けれども晴田はおれの声を遮断するよう耳を塞ぎ、「最近の青垣はそればっか り!」と叫ぶ。 「絵は、命をかけてまで、死んでまでやること… … ?コンクールや受験は命をかけるほ ど大事?受験のために絵が変わってるなんて本末転倒だって、それよりもっと、大切な ことがあるって、なんでわかってくれないの!」 死と傑作が等価交換なら人生は薔薇色だ。言葉を飲む。わかってもらえない気がして怖か ったから。 「おれは、頑張ってるから結果が欲しい。… … これは健全な感情だろ?本気だからこそ 手段を選んでいられない時期だ」 わかってくれると思っていた。晴田は、おれを理解してくれると思っていた。 「わからない」晴田は雑に切り捨てた。

「あたしはいまの青垣の絵が嫌い。大ッ 嫌い」

 あれはつい二週間前のことだったか。それよりももっとまえのことだったのか、もう時間間隔もあいまいだった。

 声と心臓の音とが混ざり合って、頭に響く。これは誰の絵だ。目が痛い。わかりきった問 いをおれは繰り返す。これはどこのどいつの絵だ。おれをこんなぐちゃぐちゃにする絵を 描く人間なんて、この世界にたったひとりだとわかっているのに。誰だと叫びたくなる。 おれはわかっている。ああ、この絵をなかったことにしたい。そうでもないとおれが殺さ れる。 違う。この絵こそ、おれが描かなければならなかった傑作だ。それができないおれなどい らない。うつくしい。憎い。おれはこれが、好きで、嫌いだった。


「青垣?」

 後ろから名前を呼ばれた。絵と同じ女の声。振り返る。軽やかな夏服。紺色の スカート、白いポロシャツの女子生徒が立っている。

「来るの早いね、さっすが副部長!」

「ああ。でも部長殿には負けるよ。… … さっきまで描いてたのか?」

 アレ、と指で部屋の角に鎮座する絵を指し示す。晴田ははにかみながら頷いた。

「どうかな」 と感想を求めてきたので「一生分の説教聞いた気分」と答えた。

「大正解!テーマは怒りでした!… … っていうかさあ、ちゃんとご飯食べてる?また痩せ たんじゃないの」

「食べてるよ」

 本当かー?軽口をたたきながら晴田の手がおれの肩に回る。ちらりと見えた晴田の右の爪 に洗い残しの青い絵の具が残っていた。それすらもひとつの作品のようで、美しいとおも った。

「ね、青垣。それって次のコンクールに出すやつでしょ、見てもいい?」

 晴田はおれの右肩にかかった濃紺のキャンバスバックを見ながら目を輝かせる。おれは黙 って首を振った。

「ケチ。どうせ提出したら見るんだよ?」

「じゃあその日まで取っておけよ。それに、まだ完成していない」

「そしたらこんなところで突っ立ってるの?予備校あるんでしょ」

 肩から下げたキャンバスバックの肩紐を強く握る。晴田の能天気さに怒りが湧いた。まが りなりにもおれと晴田はいま現在喧嘩中だ。殺そうとしたり怒り狂ってみせたり、おもね るように隣に寄り添ったり、晴田の情緒にはついていけない。

「… … 驚いたな。そんな風に絵を見せてもらえると思ってるわけ?こんなの青垣じゃない だの、受験に引きずられすぎだのなんだのって散々否定しておいて」

「それは… … ごめん。だから」

 晴田の視線が向こう側にある彼女の赤い絵に向かう。怒り。あの怒りはやはりおれに向け られたものだった。晴田の目にはもう怒りはない。絵を描いて感情を発散。はじめてのこ とではないから、おれもため息をつかざるをえない。晴田にとっては、おれを殺したいく らいに怒っていたのも。おれとの和解を望むのも、共存する。

「理不尽に怒られるのは好きじゃないし、殺されるのも真っ平ごめんだね。でも」

 良い言葉が見つかりそうもなかった。

「こんなの見せられて、何も思わないほど耄碌したつもりはないかな」

「つまり仲直りしてくれるってこと?」

「…… うん。あの絵さ、おれには伝わったからいいけど、テーマ無視して個人宛ての作品 を出すのは考え直したら?せっかくの高校生最後のコンクールだろ」

「いいの、これで。伝わらないならあたしが未熟なだけ。絵は言葉の介在しない言語なん だし可能性は常に探求しなくちゃ」

「… … 晴田ならそういうだろうと思った」

 おれの降伏宣言を受けて、あはは!晴田が大声で笑った。なにがそんなに面白いのかは理 解できない。おい、と美術部顧問の坂口があくびとともにこちらへ向かってくる。

「晴田、おまえ廊下まで声響いてっぞ。推薦用の書類持ってきたからちょっと大人しくし てなさい_ _ _ _ って、青垣。居たのか」

「ちょうど出るところです」

「あれ、結局提出していかないの?」

「… … 貰った手紙にはちゃんと返事を書くタイプなんだ、おれは。先生、いいですよ ね?」

「… … ああ、わかった。次の来週の水曜日が締め切りだからな」 一礼しておれは準備室のドアに向かう。テーブルと立てかけられたさまざまな作品の間を 通り過ぎる。

「先生、ポートフォリオって何?」「あー、自信作みたいなもんだ」晴田と顧問の声。「ねえ青垣!」晴田に呼び止められる。あと一歩でここから出ていけるのに、動けなく なる。振り返らない。絶対に振り返ってなるものか。

「大学行ってもさ、あたしたちは親友だよね?」

 この後に及んで、晴田杏璃はそんなことを言う。答える代わりに右手を挙げた。 八月の終わり、高校最後の夏。蝉の音が耳にのこってはなれない。本当は蝉は木の幹にい るんじゃなくて、おれの耳の中にいるんじゃないだろうか。汚い蝉の鳴き声とどろどろと した心音が同じ周期で耳にとどろく。


 なあ晴田。おれときみはもう絶交した方がいいんじゃないかっておもうことがある。おれ たちは死んでいないだけで、生きていない。なあきみはどうだ?


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