第4話 接吻



 腕時計は23時を過ぎたところだった。珍しく午前様にならなかったのは、久しぶりに職場で春介に会ったからかも知れない。彼に会いたくて、会いたくて。急いで仕事を終わらせてきた。


 彼と出くわした時。まるで恋する乙女のように、心臓が高鳴った。


(不覚……)


 仕事中に、邪な気持ちを抱くなんて、おれのポリシーに反する行為。けれど、起きている春介の顔を見るのは、何日ぶりだったろうか?


 仕事を終えて帰宅すると、いつも彼は夢の中。まるで眠り姫みたいに静かに眠っているのだから。


 彼の作ってくれた夕飯をつまみ、それから風呂に入って、寝室に行く。彼を起こさないように、そっと、その隣に潜り込んで、彼の肩に鼻先をくっつけて寝る。それがおれの至福の時なのだ。


 けれど。今日はいつもと様相が違っていた。玄関を開けると、春介は起きていて、リビングのテーブルで、なにかを書いているようだった。


「ただいま……——」


 そう声はかけてみるけれど、ちっとも気がついていないみたい。


(なにしているのかな?)


 リビングはどことなしか、魚を焼いた残り香が漂っている。エプロン姿の春介の後ろ姿。それを見ているだけで、心が弾んだ。仕事で忙しいだろうに。こうして夕飯の準備をいつもしてくれるのだから。


(ねえ、今日は起きているんだから、一緒に食事できないのかな……)


 そっと背後に近づき、彼の手元を覗き込む。すると——。春介は紙にたくさん、「大好き」「愛してる」「ありがとう」と書いていた。


「えー……——」


 思わず声を上げると、春介は弾かれたように振り返った。


「え! ええ!? え!? なんで。なんでいるの?」


「なんでって。今日は早く帰れたんだけど。ねえ、それよりも、それ、なに? 呪いの手紙みたいなんだけど」


 春介は、整った顔をぱっと赤くしたかと思うと、紙を後ろに隠した。


「見ちゃ駄目でしょう!? まだ書いている途中だから!」


「だから。それ、呪いの……」


「違う! 断じて違う! これはだな。その、こ、こ、こ」


「こ?」


 首を傾げてみると、春介はますます顔を真っ赤にさせて「恋文」と言った。おれは思わず吹き出してしまった。


「笑うんなんて、ひど!」


「違う。ごめん。恋文って。昭和みたいだなって。でも、それ呪いの……」


「だから。おれの思いだよ。本当は、毎日、ちゃんと伝えたい。けど。ちゃんと伝えられなかったなって思って。同棲してからの分、書いていたんだ」


 呆れた。同棲してから、何日目か数えていたってこと? そして、その日数分、おれへの思いを書いていたってこと? ああ、やっぱり呪いの恋文ラブレターじゃない。なのに。どうしてだろう。涙がぽろりと零れた。あれれ、変だな。嬉しいのに。涙が出るよ。


「泣かないで。ひな」


 細くて長い春介の指が、おれの頬をなぞる。春介は、すらりと長身で、身のこなしも紳士的。顔立ちも整っているし、まるで店頭にいるマネキン人形みたい。そんな彼が、こんなにもおれのことを思ってくれているなんて、贅沢過ぎる。


「なんか久しぶり」と春介が言った。おれも「そうだね。お久しぶり。お元気ですか」と返す。すると、春介は「元気です」と、はにかんだ笑みを見せた。


「ねえ、それ。おれにくれるんでしょう? 頂戴」


「でも。まだ途中で……」


「いいよ。途中で。だって、これからは、ちゃんと口で言ってもらうもん」


「——そうだね。そうだよね。もっと早起きする」


「そう?」


「朝は一緒に食べることにする」


 おれは、そっと春介の腕を握った。春介の顔が近づく。


「ねえ、知っていた? 今日は恋文の日だけど。キスの日でもあるって」


「それは知らなかったな」


 そっと唇を寄せると、彼はくすぐったそうに目を瞑る。


「恋文のお返し」


「嬉しいよ」


 眠り姫はキスで目を覚ます。おれが王子様で、春介がお姫様……。うん。悪くはないかもね。


 今日は恋文の日。

 今日はキスの日。

 5月23日。



—了—



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恋文と接吻【ライトBL】 雪うさこ @yuki_usako

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