第3話 恋文
天沼
同じ職場、同じ家に住んでいるというのに、ほとんど顔を合わせることはない。
彼は秘書課にいて、副市長である澤井の担当だ。副市長は忙しい。いや、澤井という化け物みたいな男が、タフすぎるのだ。
彼は朝7時にはやってきて、22時過ぎまで職務をこなしているという。その男のサポートは並大抵の人間ではこなせない。秘書課で澤井副市長付を解任された人間は数知れず。唯一、続いているのがひな、というわけだ。
ひなは、澤井副市長がやってくる前には副市長室に行く。毎朝6時前には家を出ていく。市役所は目の前だというのに。
それから、帰宅は深夜だ。副市長が帰った後、翌日の準備や残務整理をしてから帰宅する。家には寝に帰ってくるようなものだった。流石に副市長が配慮してくれたみたいで、日曜日は休みが多いけれど、今度はおれが仕事だ。
おれの部署は、文化課。週末は文化系のイベントが立て込んでいて、休日出勤することが多い。だから、二人でゆっくりできる時なんて、ほとんどない。
今日も8時過ぎに家に帰るが、ひなの姿はない。おれは「いつものこと」と自分に言い聞かせ、そのままキッチンへと向かう。朝食のお返しで、夕食はおれが作るのだ。腕まくりをしてからエプロンをかぶる。今日の夕飯は魚にしよう。本当は食べる前に焼くほうが美味しいけれど、致し方ない。
味噌汁は豆腐とわかめにネギを入れる。それから、ほうれん草をゆで上げて、お浸しにした。最後に鯖の塩焼きを作って完成。
(こんなに作っても、一人での食事は味気ない)
キッチンを片づけてから、エプロン姿のまま、ソファにどっかりと腰を下ろす。
「あーあ……」
真っ白な天井を見上げて、大きくため息を吐く。
(一緒に暮らしている意味があるのかな……)
おれは、彼にとって、なんなんだろうか。
おれは、彼になにをしてあげられているというのだろうか。
おれは朝食も夕食も一人。味気ない食事を摂る。けれど……。
(ひなも一人で食べているもんな)
彼だって、きっと。一人きりの寂しい食事をしているのだ。
目を瞑れば、思い出されるのは昼間のひなの顔。うっすらと浮かぶ笑みが脳裏をちらついた。それから、もう一つ。朝食だ。少しでも寝ていただろうに。彼はおれのために朝食を準備してくれているのだ。
(ひなはいっつもおれのために、色々なことをしてくれるんだ。自分のことなんて、顧みることなく……。おれだけが寂しいんじゃない。きっとひなだって……)
——そうだ。いつも、ひなは。全身でおれのことを大切にしてくれているのだ。
そう思い立つと、居てもたってもいられなくなった。
『今日は恋文の日だそうだ』
有坂さんの言葉が耳に響いている。リビングの角に置いてある小さいパソコン用デスクのところから、A4の用紙を引っ張り出す。レターセットなんて、洒落たものが我が家にあるわけもない。近くにあったボールペンを手に取り、おれは必死にひなへの手紙を書いた。
手紙を書くなんて、何年ぶり?
なんだか気恥ずかしい。けれど——。おれの思い。
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