第2話 近くて遠い



「おはよーございます」


 不機嫌なまま職場に顔を出すと、朝一だというのに、そこは戦場と化していた。係長の渡辺さんは受話器に向かって怒鳴っている。係長補佐の谷口さんは、隣に座る有坂さんと難しい顔をして話し込んでいた。


 後輩の富田ですら、なにやら必死に書類を作っている。


「遅いぞ! 十文字。昨日の予算書、大至急出してくれ」


 受話器を抑えた渡辺さんが叫んだ。


(これは、只事じゃない)


 おれは「わかりました」と返事をすると、すぐにパソコンを立ち上げた。


 **



 騒動が落ち着いたのは昼を過ぎていた。一息ついた渡辺さんは、背伸びをすると「腹減ったなー」と言った。


「朝飯、たくさん食べてきたのに、お腹空くもんですね」と体格のいい富田も、人の良さそうな笑みを見せる。


「どれ。昼飯にするぞ」


 渡辺さんは、奥さんの愛妻弁当を取り出した。谷口さんも、彼女の弁当らしい。富田はお母さん弁当か。


 おれは売店に行かないと昼飯がない。食欲もわかないが、致し方ない。重い腰を上げると、斜め前の席の有坂さんも立ち上がった。


「有坂さん、売店ですか」


「そうだ」と彼は神経質そうな細い眉を片方上げた。


「おれもです。一緒に行きましょう」


「嫌だ、と言いたいところだが。目的地が一緒だ。別々に行く方が難しいだろう」


(まったく可愛げがない人だ。だから恋人もできないんだろー)


 心の中で舌を出して見せるが、笑顔は崩さないように心がける。


 事務所の扉を開けてから、中央棟へと歩いて行くと、反対側の西棟から大柄な男が廊下の真ん中を歩いてきた。


(まるでヤクザの親分みたいだな)


 彼を見た瞬間、廊下にいる職員たちはさっと道を開ける。


「14時から商工会議所の祝賀会です。挨拶後は直ぐに庁舎に戻り、14時30分より庁内会議になります。16時からは、市議の福祉分科会メンバーとの意見交換です。それから……」


 彼の後ろを転がるように着いてくるのは、あの人。一つ屋根の下にいるというのに、ほとんど顔を合わせることのない、おれの最愛の人。


 ふと足を止めて彼を見つめていると、その視線がおれに止まった。濡れたように煌めくその瞳が細められる。


 一瞬。時間が止まってしまったみたいに、そこには、おれと彼しかいないみたいな錯覚に陥った。


 手を伸ばせばすぐ届くのに。

 そっと、その肌に触れたい。

 そして、抱きしめたい。


 けれど。「てん」と地獄の底から響いてくるような声が彼を呼んだ。止まっていた時間があっという間に動き出す。


「なにぼさっとしている。スケジュールはいい。さっさと車を回せ。おれは忙しい」


 親分(仮)は、彼を見下ろした。


「正面玄関に回しております」


「ならいい。少しは使えるようになったらしい。行くぞ」


 男は踵を返すと、一階に通じる階段を駆け降りて行った。名残惜しそうにおれを見ていたその瞳は、諦めたように伏せられる。それから、軽く手を振ると、彼の姿は消えた。


 伸ばしかけた手が恥ずかしい。おれは慌ててそれを引っ込める。すると、隣にいた有坂さんが言った。


「伝えたいことがあるなら、書けばいい」


「え?」


 有坂さんは、ぼそっと呟くように言った。


「今日は恋文の日だそうだ」


 ぷいっとそっぽを向くと、有坂さんも売店を目指して階段を降りた。おれは慌てて追いかける。


「有坂さんも書くんですか? 恋文」


「馬鹿か。そんなもの書くか」


「なら、おれに勧めないでくださいよ」


「うるさい。物欲しそうな顔しているからな」


 おれは有坂さんより長身だ。彼に追いつくのは容易い。あっという間に隣に並ぶと、いつもは無表情な彼の頬が赤くなっている気がした。


「書くといいですよ。おれも書きますから。有坂さんも」


 彼は「お前と一緒にするな」と言った。




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