第7話 春のフーガ(エピローグ)
(何も盗み聞きしていた訳ではありません。ただ、私はこんなうららかな春の陽射しの下、誰も居ないのを良い事に、少しばかりのうたた寝を決め込んでいただけなのです。そこにやって来たのがあの二人でした。急に立ち上がる事も出来ず、そのまま私はじっとしている他なかったのです。)
「どう? ここが君に見せたかった場所なんだけど。」
「森の中にこんな開けた場所があったなんて……。」
「それだけじゃないよ、そら、ちょっとそこを登ってご覧よ。」
「……。」
「ね? 街が全部見えるんだね。良くここに来るんだよ、僕 は。」
「分かる様な気がするわ。こんぐらがった考え事をしながら、森の中をゆっくりと歩いて回って、それが突然こんな風に周りが開けるんだもの。とても頭がすっきりするんじゃない? 何か良い考えが出て来ても不思議でない様な。」
「気がするばかりじゃあないよ。実際、そうなった事だってあるんだから。」
「でも、相変わらずね。久し振りに帰って来たと思ったら、またちょくちょくいなくなったりして……。何処に行ってたと思ったら、ここだったの。」
「そう責めないでよ。ほら、あの木の下にでも座って、一休みして行こうよ。」
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「でも、何かこうしていると変な感じね。」
「何が?」
「多分、良く分かって貰えないかも知れないけど、何処か胸の奥がフワフワする様な、落ち着けない様な……。自分でも良く分からないんだけど……。」
「ああ、その事? 僕もさっきからそんな気がしているんだ。身体中がワカワクして、言う事を聞かなくなる様な? 不思議なものだね。」
「どうしてこんな感じになるのかしら?」
「あのね、ちょっと僕ね、考えたんだけどね。」
「また始まった、今度は何?」
「まあ、つまらない事なんだけどね。」
「うん、何?」
「あのね、僕、ここにきて、何度かこうして座りながら考えたんだけどね。」
「ああ、もう! 良いから早いとこ言っちゃいなさいよ! 気になって来るじゃない。」
「僕が考えていたのは……。いや、その前に、ねえ、フーガって言って分かる?」
「えっ?」
「それは、音楽の形の一つで……。」
「流石に知ってるわよ。その位。」
「でも、それがどんなものか分かる?」
「さあ、とてもぐちゃぐちゃした音楽って事位かな?」
「それは、まず最初に一つの短い旋律が現われて……。」
「ああ、思い出した。それで、次に同じ旋律が幾つも絡んで行くんだっけ?」
「同じものばかりじゃあないよ。第一音の高さが違うし……、高いのやら、低いのやら、ね。それで、曲が進んで行くにつれて、小さく細切れになったり、逆に大きく引き伸ばされたり、逆さにされたり、逆向きに進んだりしたり、と、色んな形になるんだ。で、そんなのが互いに、こっちがこう来れば、あっちがこう返す、と云った具合に、ちょっと聞くとそれぞれがてんでばらばらにやっている様に聞こえるんだけど、それでも何度か聞いている内に、不思議と一つの曲として纏まっている事が分かって来るんだ。」
「不思議な音楽ね。そんな無茶をして、どうしてバラバラになっちゃわないのかしら?」
「正直言うと、分からないんだ。ただ、聞いている内に、曲の中に全体を纏めてる、何だろうな、〝気分″の様な物が曲を支えてる様に聞こえて来る時があって……。」
「それは、私達には聞こえているんだけど、はっきりそれと分からない物……。」
「そう、で、僕がここに来ていた時にも、こうぼんやりと辺りを眺めながら、こんな曲を一つ二つ頭の中で繰り返していたんだけど。」
「大層なご趣味だ事。」
「どう致しまして。それで、フッと気付いたんだけど、僕が不意にこんな曲を思い浮かべたのは、きっと、僕が周りの風景を見ていた時に感じていた物と、曲の持っている気分とが、実は同じ物だったんじゃないかって。」
「……うん。」
「きっと、この曲を作った人も、今僕達が見ている風景と似た様な物を見たんだと思う。だけど、そこにある気分と云うのは、はっきりこう、と表わせる物じゃあなくて。それで色んな音の欠片を組み合わせる事で、何とか全体としてそれを仄めかしたんじゃないかって、そう思ったんだ。」
「でも、もしかしたら、その人はもっと細かい所まで見えていたのかも知れないわ。全体の気分、と云うのも勿論だけど、それを形作ってる細かい一つ一つの欠片という物、それだってはっきりと見えていたのかも。いいえ、ひょっとしたら、その人はそんな小さな欠片を幾つか拾い集めて行く内にそれ等が思い掛けず組み合わさって、一つの大きな纏まりになって行く事に気付いて、自分でも吃驚したのかも知れないでしょう? 一つ一つの欠片は、お互い別々の物かも知れない。けど、一つになった時、それ等に実は同じ気分が隠れていたって事も……。ねえ、そう思わない?」
「そう……。かも知れない。けど、そんな欠片と云うのは、例えばどんな物なんだろう?」
「例えば、ほら、この足元にいっぱい溢れてるクローバーとか、あの大きな樹とか、それに、あそこの白い雲だとか、そんな物よ。何でも良いの、私達が気付いた物なら。」
気付かない物だって、もしかしたらそうなのかも知れないね。僕等の気付かない所で、それ等はちゃんと〝春″って曲の中に入っているんだよ。まあ全部は無理だけど、今君が言った物がどんな風に鳴っているかちょっと言ってみようか? 例えば、クローバーは小さいけど高くて可愛らしい声。それにちょっと多き根の草が中くらいの音で絡んで行く。それ等を大きな樹がどっしり低い声で支えている。空の方では、白い雲がのんびりと、けど軽やかな感じで歌って、時々鳥達が甲高い声でちょっかいを出したり。そして、それ等全部を合わせて、地面と空とがお互いを呼び合っている、と云う風にね。」
「蜜蜂の羽音だって忘れてはいけないわ。」
「向こうにみえる川のせせらぎだってね。」
「分かった。つまり、そんな物が一杯集まって出来た春の景色が一つの大きな曲になっているって、そう言いたいんでしょ? その中にいる私達が、それを知らず知らずの内に聞いて、それでこんなワクワクした気分になるって、そう云う事なんでしょう?」
「そうなんだけど……。」
「まだ何かあるの?」
「どうにも分からないんだ。確かに全部君の言う通りなんだけど、そのワクワクした気分が、今日に限ってずっと強く感じられるんだ。前に感じた時とは比べ物にならない程。それが何処から来ているのか、どうしても分からなくて……。」
「あら、分からない?」
「えっ?」
「つまりね、今私達はこの〝春″って曲に、自分達の方から参加してるって事。前にあなたがここに来た時は、ただ聞き手として居ただけ。でも、今は違う。私達も今は、この曲の一部になってるの。だからこそ、今私達は何時もよりずっとはっきりこの曲を聞く事が出来る、と云う訳。」
「でも、その僕達がかき鳴らしてるって云う音楽って、どんな物なんだろう?」
「分からない?」
「うん。」
「本当に?」
「本当だよ、降参。教えてよ。」
「ウフフフフフ……。」
「ちょっと!」
「つまりね、こう云う事」
(そこで女の人は、そっと相手の手を取って、自分の胸元に押し当てるのでした。そして自分の手も相手の胸に。二人の奏でる鼓動は、きっと、この大きな春の情景の中に溶け込んで、思う様に謳っていた事でしょう。二人のそっと寄り添う姿から、それが察せられるのでした。
やがて、二人は帰って行きました。でも、私はこの場に残り続けて、考え込んでいました。二人の言っていた〝音楽″乃至〝曲″と云う物が、私には感じられなかったからです。
もしかしたら……、私は独り言ちながら思うのでした。あの音楽は二人の間にだけに聞こえる類の物だったのかも知れない。女の人が最後に言っていた言葉からも、それが正しいと思い知らされるのでした。
私は、小さく溜息を吐き、帰ろうと立ち上がりました。その時です、私の耳にその音楽が流れ込んで来たのは。
それは、あの二人が聞いていた物とはまた違う、少し哀し気な所が有りながら、穏やかで心に染み入る様な調べなのでした。
私は、思うのでした。確かに今の私には、二人の聴いていた音楽を聴く事は出来ない。けれど、その代わり、私にはこの夕暮れの音楽が有る。何れ、この私にも、あの二人が聞いた音楽を聴く時が来るのかも知れない。でも、それまでは、今私だけにしか聞く事の出来ないこの音楽に耳を傾けよう。そして、それを何時かにでも思い出せるよう、しっかり心に留めておこう。今、この瞬間、それはこの私だけに与えられた特別な一時なのだから。
こんな事を考えながら、漸く私も、この森の中にひっそりと開けた草原を後にするのでした。)
Four Seasons ~季節の散文詩~ 終
Four Seasons ~季節の散文詩~ 色街アゲハ @iromatiageha
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