第6話 雪の言葉(後編)
……真っ暗な中を、白い雪が埋め尽くそうとしていた。ふと、僕はコートの裾に付いた雪に目を留めた。黒い布地の上に白い雪片が浮かび上がり、その輪郭の細かい所まではっきりと見て取れた。
ふんわりとした雪は、良く見ると、とても小さな氷の粒子が集まり、絡み合って出来ている事が良く分かる。それは、一つ一つが驚く程正確な幾何学的な形を成している。正に氷の結晶。中心から正六角形の輪郭が幾つも外に向かった繰り返されて行き、一番外側の角から規則正しく繊細に枝分かれしながら伸びる突起が見える。
それは確かに美しいと言える物には違いないが、同時に、その余りの規則性、幾何学性に縛られた、それ以外に形の取り様がない、と云った、息詰まる拘束の中に咲いた美しさだった。
僕は、こんなにも無機的な、生命の徴候の全く見られない世界が、今しも自分達の世界に圧倒的な物量で入り込み、取って代わろうとしている事に恐れを感じずにいられなかった。こうしている間にも雪は、その秘められた鋭い切っ先で、僕の露わになった皮膚に次々と切り付けて、それと分からない程微かに、しかし確実に僕の身体を破壊し尽くそうとするのだ。
この偏執的な感覚は、止まる所か、僕の中で更に急速に大きくなって行くのだった。
雪はその目的を半ば以上完成させようとしていた。人々が安穏として暖かな部屋で過ごしている間にも、外では雪の本質である無機的世界があらゆる空間を占め、互いに結び付く事で、より大きな幾何学空間を作り上げようとするのだった。
既に僕の目の前では、その結果である巨大な雪の結晶が次々と形成されようとしていた。一つ一つでは取るに足らないと見做された結晶が、互いに緊密に結合する事で、より大きな結晶が形作られる。それは、あらかじめ計算尽くされてでもいた様に、どの角度から見ても同じ形態が現われるのだった。そうして出来上がった結晶は、更に大きな結晶体を、またそれ等が集まりもっと大きな結晶を、と、際限なく続いて行き、遂には、この街全体を一つの結晶としての世界に再構築しようとするのだった。
だが見よ! その最終と思われた大結晶の世界でさえもまだ、多くの数え切れない要素の、ほんの一つでしかなったのであった。限界は既に失われていた。それ等の要素は、又しても互いに結合を繰り返し、今や空をも突き抜け、その手を宇宙にまで伸ばそうとしていたからであった。
こうして、我々の地上の世界も含んだ宇宙は、その性質を大きく変え、動きも発達も見られない、閉じ硬直した法則の元に支配されてしまうのだった……。
しかし、これはもしかしたら全く逆の話なのかも知れない。この世界が元を正せば空から
その上、話はそれだけに止まらなかった。もう一つ僕を不安に突き落とす物が新たに立ち現れるのであったから。
崩壊。
もしかしたら単なる杞憂に過ぎないのかも知れない。たった今僕が作り上げた抽象としての世界に、現実の時間を当て嵌めること自体、見当外れの事なのかも知れない。しかし、人の身からすれば殆ど不動の象徴である星々の世界にあっても、広い意味での生と死が絶えず繰り返されている。それなら、この完璧な対称性を成している結晶の世界に於いても、いや、それが完璧であればある程、より一層その崩壊が強く予想されるのだった。
それが起こるには、ほんの小さな切欠、この世界その物の因子である雪の粒子一つで十分だった。その粒子にごく僅かな、殆どそれと分からない程の小さなずれが生じた時、結晶世界を為している他の粒子との間に小さな衝突が起きた。その一撃は決して小さな物ではない。互いの結び付きが緊密な、一部の隙の無い物であるが為に、それの構成している因子のたった一つが崩れただけで、それが全ての崩壊へと繋がって行く様な、完璧であるが故に不安定である世界にあっては、無限に等しい秩序の中のたった一つの例外、それだけで世界の崩壊には充分なのである。
僕が不安を感じるのは、正にその事なのである。果たして、その後に現われる世界とは? 何事も無く、元通りに我々の世界が戻って来るのだろうか? しかし、それは既に、結晶の世界に呑み込まれた際に塗り替えられ、消滅してしまったのでは? だとすると現われるのは? 崩壊して行く結晶の合間から新たに顔を覗かせるのは、何も無い真っ黒な空間、宇宙の生成する以前の無の世界なのでは? そして、僕達は、そこに空いた虚ろな空隙の中に、為す術も無く真っ逆さまに落ち込んで行くのではあるまいか?
そんな予感に捉われた僕は、だからこそ今、この場を、例えそれが微かな息遣いであっても、動く事が出来ないでいるのだ。もし、僕が少しでもこの場を乱そうものなら、その時には忽ち崩壊の連鎖に繋がり、その後現われる虚空に呑み込まれてしまうのだから……。
しかし、こんな状態を何時までも続けられる訳が無い。もうとっくに僕の手足は痺れ始め、立っているのもやっとの有様なのだから。こんな事を考えている間にも、限界が見え……。
不意に、膝が折れ、僕の身体は前のめりに倒れてしまう。想って通りの大崩壊だ! その後は? そーら、出た!
こんな考えに憑かれていたのだから、余程僕はどうかしていたに違いない。去年の冬の事だ。僕はこんな崩壊一歩手前の気分に、何とか折り合いを付ける為に、旅に出ざるを得なかった。
自身の偏執より生まれ出た崩壊の世界。何時までもこんな世界に留まっていられる筈の無い事は、他ならぬ自分自身が良く分かっていた。それは、忽ちの内に僕を捉え、内なる崩壊に導こうと、ほんの目と鼻の先にまでその手を伸ばして来ていたからだ。
早い内に手を打たなければならない。しかし、何ら具体的な方策は浮かんで来なかった。いや、浮かびはしたが、その度に内なる声が僕の気力を挫こうと絶えず囁き続けるのだった。
「無駄だ、止めておけ、」と。
こうなれば、無理にでも自分を別の環境に放り込まなければ収まらない所にまで追い詰められてしまった。結果それが旅と云う形になった訳なのである。しかし、当然と云うべきか? この試みも悉く失敗する事になった。自分と云う器を何処に運んだ所で、肝心の中身である崩壊の危機は何処までも着いて回ったのであったから。
せめて。何時もとは違う環境に身を置いて、何か手掛かりの切っ掛けでも摑めれば、と僅かに期待を掛けたのだが……。
それが変わり始めたのは、一体何時の頃だったか。変化に気付いたのは、あの秋の日の事、降り掛かる落葉の中を歩いている時の事だった。
あの時も、僕は自分から遠ざかって行く世界との繋がりを何とか取り戻そうとしていたのだったが、結局どうにもならない所にまで追い込まれて行く、何時もの自分を感じていた。
それが最後の瞬間になって、突如「ひっくり返る」と云う言葉が浮かんだ。
思えば、それを起点に、僕の止まっていた歯車は再び回り始めたのだった。
あの時は、微かにそれと感じられる位だったが、今、この雪の情景に佇んでいると、それははっきりした確信となり、自分の中に満ち溢れて行くのを感じる事が出来る。
この雪の結晶、確かに、一つ一つは何の意味も見出せない無機物に過ぎないのかも知れない。しかし、注意深く見てみれば、それらに一つとして同じ物が無い、と云う事に気付く筈だ。これは、記号、若しくは文字として捉える事が出来るのではないだろうか? 一つ一つにこれと云った意味が見いだせなかったとしても、それ等が組み合わさって、空から次から次へと尽きる事無く降り掛かって来る。その時、それは、その有様を眺める者に何らかのメッセージとして届くのではないか?
もし、今の自分がそうである様に、この雪の降る中を歩いている最中に、ふと足を止め、降り掛かる雪の中に何か自分に語り掛ける声を聞いた様な気がしたとするならば、それは単に意味も無く降り続けるだけの様に思われた雪の連続、その中に込められた、自分に向けられた雪の言葉を、知らず感じ取っていたからかも知れない。
そして見よ。その言葉に誘われる様にして見上げた空の中に、埋め尽くさんばかりに一杯に満ちた雪の、一部の隙とて惜しむかの様に大写しになった、雪の繰り広げる壮大な物語群を。
雲に隠れて見えないが、今この瞬間にもゆっくりと周り続ける星辰の動きに合わせて、クルクルと絶える事無く移り変わる組み合わせ。それはこの雪の降る所全てを巻き込んだ、世界を舞台にした、尽きる事の無い物語の万華鏡が。
今はその意味する所まで分からなくとも構わない。ただ、この雪一つを以てしても、そこから限り無い意味が見出せる、と云う事が分かれば、それで良かった。
最早取り戻す事叶わないと思われた、世界との繋がり。ここに至る為のそもそもの切っ掛け、それは一体何処からやって来たのだろう? どう考えても、それが自分の中から齎された物とは思えない。もしそうなら、とっくにどうにかなっていた筈だから。
いや、その答えは疾うに分かっていた筈ではないか。僕はポケットから、何度も読み返して草臥れた手紙を取り出して広げてみた。この中に書かれている何処にでも、僕が長い間失っていた物、世界との繋がり、ほんの小さなものにでもそこに秘められた物語を読み取って、その中にそっと身を寄せる事の出来る、そんな感受性に溢れているのであった。
僕が手紙を読んで行く内に、その中で語られる春や夏の情景の中で紡ぎ出された物語、それに接して行く内に、知らず知らずの内に僕の中に小さな灯が点される事になった、と、そういう風に考えられないだろうか?
僕は、自分の見たこの雪の物語を、この手紙を書いた人に話してみようと思う。そうする事が、この贈り物に対するささやかな例になると信じて。きっと彼女、吃驚するぞ。
僕は、驚いて目を真ん丸に見開いた彼女の表情を想像して、思わず吹き出してしまうのだった。こうして、僕は新たな楽しみに胸を膨らませながら、待ち合わせの場所に急ぐのだった。
居なかった……。僕は暫く迷っていた。こんな明るい店内に、たった一人で入る気にはどうしてもなれなかったから。もう少しその辺を歩いてみるか、とそう思って猶もその場で踏み迷っていると、不意に誰かが僕の肩を叩いた。
振り向くまでも無かった。それは、嘗て何度も僕の肩を叩いた事のある手だと分かったのだから。
だから、僕は以前もそうしていたように、そっとその手を取った。そしてゆっくりと振り向きながら、僕はその手の先にある彼女の姿を、まるで初めて見るかの様に、軽い驚きを覚えながら見詰めるのだった。
その姿は、その後ろに雪を、そしてそこに繋がる沢山の物語を一身に背負っている様に、僕には見えたのだから。
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