第5話 雪の言葉(前編)

 待ち合わせの時間には、まだ間が有ると云うのに、居ても立っても居られなくなった私は、早々に家を飛び出して、雪の降る街中を歩いていました。

 思ったよりも強い降りで、通りのあちこちには既に、白い斑点が出来始めているのでした。こんな風にひっきりなしに降り続ける雪の中に居ると、何時もとは違って、昔の事ばかりが思い出された来るのです……。


「もう、遅いのだから寝なさい。」

 そう言ってお母さんは、私を寝室へ追いやるのでした。けれども、まだ幼かった私は、初めて見る雪にすっかり興奮してしまって、部屋に戻ってからも、灯の消えた部屋の窓から、一向に止む気配のない雪を見続けるのでした。

 その情景は、私の吐く息で薄らと曇った窓ガラスと合わせて、今でも私の記憶に特別な位置を占めているのです。


 こうして歩いていても、その時の印象が甦って来るのを感じないではいられません。降り続ける雪の中に、幼い私が感じた、そこに何か特別な意味が込められているのでは? という気持ち。その内容までは分からないまでも、確かにそこには何かがあった、と云う感じは、今でも私の中で生き続けているのでした。

 次の日の朝に、幼い私が起き上がって、カーテンを一杯に開いた途端、目に飛び込んで来た、あの一面に白いふんわり帽子を冠った街の情景の記憶も、勿論外す事は出来ません。それを見た時の鮮やかな驚きもさる事ながら、何より、この情景に接した時に感じた、奇妙に納得した感情。

 前の晩に見たあの絶え間なく降る続ける雪の情景は、実はこれを作り出すための物だったのだ、と。一つの不思議は、必ずもう一つの不思議に繋がっている、と云う事を、私はこの時初めて知ったのです。

 この発見に有頂天になった私は、その日一日中、すっかり浮かれて外を跳び回っていました。自分だけがこの秘密を知っているつもりになって。今考えれば、何て事の無い、当たり前の様な事に思えますが。

 

 それはそれとして、その時の私にはその他に、まだ分からない事が残っているのでした。それは、そもそもこんな情景を作り出す理由が一体どこにあったのか、と云う事でした。この事だって、さっきの事と合わせて、わざわざ深く考える必要も無い類の事なのかもしれませんが、幼い私にとっては、どうしても知りたくて堪らない事なのでした。それほどまでに印象に残った、と云う事なのでしょう。それを知らないでは、とてもこの不思議極まる情景を、とても受け入れる事が出来なかったのですから。


 雪は尚も降り続けていました。このまま止む事が無ければ、やがて私があの日の朝に見た、街の小路や家々の尖った角をすっかり包み込んで、円やかな丘の群れにしてくれるでしょう。

 私は心の中で、少しだけ時間を早めて、雪が家々の壁を生き物みたいに登って行く様を描いてみるのでした。雪が家の壁をスルスルと伝い、橙色の光の洩れる窓に達しようとする、その様を。


 私には、そんな窓の内に灯る一つ一つの光が、単なる灯りとはどうしても思えないのでした。これは、以前読んだおとぎ話の一場面が影響したのかも知れません。それは、すっかり雪に覆われた森の中の、小さな木のうろの中で、子リス達が柔らかな枯れ草を枕に、身を寄せ合って静かに眠る場面でした。


 普段見る刺々しさを感じる姿とは違って、雪のクッションで和らげられた街の表情は、このおとぎ話の世界を思わせるのでした。ですから、それぞれの窓の内にいる人達は、さっきの子リス達の様な小さな生き物のみたいに、寒さに震えながら、それでも互いの温かさを感じ合いながら、身を寄せ合っている、と、私にはそう思われて来るのでした。


 こうして、私の中ですっかり新たに生を吹き込まれたこの街で、家々の灯は、その中にいる小さな命のともしびとなって、微かに、でも決して見逃す事の無い確かさで燃え続けているのでした。

 私は、何故雪が降って、世界をこんな風に白一色に染め上げてしまうのか、今になって漸く分かった様な気がしました。

 それは、この事を、今を生きている皆に知らせる為……。きっと、そうに違いない。

 知らず知らずの内に、泪が溢れて来るのを私は止める事が出来ませんでした。どうしてって、たった今登って来たばかりの坂道を振り返ってみると、そこには数え切れない程の窓の明かりが、一杯にちりばめられて……。そして前に向き直ってみても、やっぱりそこには……。


 以前にもこんな気持ちになった事が有りました。雪こそ降っていませんでしたが、それは夜の事でした。私は暗い小道を歩いていました。所々に思い出した様に添えられた街灯が有るばかりで、そこには人の気配など全く感じられない寂しさで、私は何かを耐える様にその道を歩いていました。それが、遠くの方で街の灯が点々と灯っているのが見えて来ると、少しずつ胸が締め付けられる様な気持ちになって、それが明るくなればなるほど強くなって行き、とうとう街の明るい通りに辿り着いた時には、私は、どうしようもなく泣き出してしまったのでした……。


 あの時、どうしてあんなにも胸が苦しかったのか、ずっと分からないままでしたが、今思うと、あの時も私は街の灯の中に、小さな、互いを求めて止まない命の灯を見ていたに違いありません。


 お伽の様な世界、そう言いましたが、そんな気分にぴったりのミニチュアが、通り掛かったお店の窓に飾られているのを、私は見付けるのでした。それは、手の平に収まるくらいの大きさのガラス玉で、その中には水と白い粉が入っています。また、玉の内側に、小さなモミの木や生垣で囲われた小屋がくっ付いています。この玉をちょっと振って御覧なさい、白い粉が水の中に散らばって、さながらそこに一面の雪景色が織りなされる様を見る事が出来るでしょう。

 雪の粒が小刻みに震えながら、ゆっくりと降りて行き、小屋や生垣やモミの木に静かに降り積もって行く様子を見詰めている内に、見ている自分が、何時しかその中を歩いている様な気分になって来るのです。そして、私は目の前の生け垣を潜り抜け、一つだけある小さな窓から、微かにランプや暖炉の光が洩れている小屋の中に、招かれている情景を夢見るのでした。

 でも、このガラス玉を持っているのは確かにこの私で、そうなると、この中で雪の中を歩いて小屋に入って行った人は、一体誰? そんな不思議な気持ちにさせてくれる玩具なのでした。


 少し話は飛びますが、ある日の事、私が友達の家に遊びに行った時、小さな水槽を見せられた事が有りました。友達はちょうど水槽の水の入れ替えをしていた所で、慣れた手付きで水草や置石の手入れをしながら、こんな時に何時も考えている事について話してくれるのでした。

 

 その人に言わせると、こうして水槽の手入れをしている時程、不思議な気分になる事は無い、との事でした。こんな風に薄いガラス板に隔てられた自然から切り離された世界が、それでも一つの生態を為す世界として成り立っている、と云う事、それが自分にはまるで奇跡の様に思われてならない、と。こうして小まめに手入れをしなければ、水槽の中の魚は生きていけない。最初はほんの軽い気持ちで始めた事だけど、今ではこの魚達が元気にこの小さな世界の中を生きて泳ぎ回っている事が嬉しくて、暇さえあれば水槽を覗き込んで、一喜一憂して居る有様なのだ。と、こんな事を言って、その友人は照れ臭そうに笑うのでした。


 こんな話を取り上げたのも、これがさっきのガラス玉の玩具と合わせて、私に一つの創造の鍵を与えてくれたからなのです。もしこの友人の話が成り立つのであれば、今私の歩いている雪の世界にも同じ事が言えるのでは、と云う考え。

 私の周り、縦にも横にもずうっと奥まで続く、この想像も付かない程に大きな世界を歩いている内に、何時しかこの雪の世界が一個の巨大なガラス玉になっているのかも知れない。そんな風に思えて来るのです。

 その時、空は私達の知ってる、外側に向けて大きく開かれた空ではなくなって、それまで地球と云う一個の玉の表面を歩いていた私達は、「裏返し」になって内向きになってしまった地面と一緒に巻き込まれてしまい、今や内側に向けて開かれた世界の中を、揺すられて舞い上がった雪を眺めながら歩いている事でしょう。

 

 そして、私達の気付かない内に透明になった地面を通して、この世界を覗き込んでいる〝誰かさん″は、私達一人一人が灯す小さな命の光に見惚れながら、その上に綺麗な白い粉雪を降り注ごうとして、休みなくその手を振り続けている事でしょう。

 このとてつもなく大きな手の持ち主は、この時、どんなことを思っているのでしょう? きっと、あの水槽の魚達の事を絶えず気に掛けていた私の友人の様に、ガラス玉の中の小さな世界に生きる私達の様子を、時には心配そうに、時には嬉しそうに眺めている事でしょう。


 こう考えると、この降り掛かる雪だって、何の意味も無い物だとは決して言えません。普段は自分の存在をあまり知らせようとしないガラス玉の持ち主が、雪と云う小さな物を通して語り掛けようとする言葉……、そんな風に考えられないでしょうか?『その言葉は、雪のひとひらに込められて、私が初めて雪を見たあの日の夜にも、今歩いているこの時にも、変わらない言葉で降り掛かろうとしているのではないでしょうか。「どうか、わたしたちの言葉を聞いて下さい」と……。


 それにしても、「裏返し」だなんて。私は、ポケットの中の手紙を探りながら思うのでした。この中にある言葉、「ひっくり返る」と同じです。あの人は旅の行く先々で立ち寄った所から、これらの手紙を送って来たのでした。その内容は、時には真夏の浜辺であったり、また別の時には秋の街で見た落葉の光景であったりもしました。それ等が、手紙の中であの人らしい考えを交えながら事細かに綴られているのでした。

 手紙を何度も読み返す内に、その中の言葉が知らず染み付いて、私にこんな自分でも思いもしなかった、おとぎ話めいた世界に導いていく役目を果たしていたなんて。

 自分でも気付かなかったこの事に、私はくすぐったい様な嬉しさを覚えているのでした。


 ……雪は、一向に勢いを弱めようとしないのでした。でも、一つ一つの言葉がとても小さいので、どうかすると私達は其の声を聞き逃してしまう。こんなにも後から後からさんさんと絶える事無く降って来る雪。私は、せめてその微かな音を聞き逃さない様にと、耳を傾けるのでした。


 ……さん、さん、さん、さん、さん、さん、さん……


 何時しかその声は、私の耳の中で、街のあちらこちらで鳴るベルの音に入れ替わって行くのでした……。皆は気付いてないのかも知れませんが、戯れに鳴り続けるベルの音で、私達は雪の言葉にちゃんと答えている……。すっかり嬉しくなってしまった私は、この事をあの人に話してみよう、と思って、残りの道を足取りも軽く踏み越えて行くのでした。

 そして、一際華やかにベルの鳴るお店の前で、その中をガラス越しに眺めながら、何やら考え事をしている懐かしい姿を、私は見付けるのでした。

 

 さっきとは、また別の嬉しさが一杯に溢れて来るのを感じながら、私はその人に声を掛けようと歩み寄って行くのでした。

 

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