第4話 落葉

 久し振りにこの通りを歩いていると、嘗て初めてここを歩いた時の感興がまざまざと甦って来るのを感じる。それを何と言ったら良いか? 単にそれだけの物として見ている風景とは違う、そこに記憶に残るだけの何かが込められていた、と云う非常に曖昧な言い方しか出来ないのがもどかしい。

 これは自分だけではなく、他の人々にも経験ある事と思うが、いざ、改めてその何かを探ろうとしても、そう思った時には、既に、それはとっくに何処かに去ってしまった後であり、再び掴もうにも、もうどうにも手段の付かない事を知るだけなのだ。


 嘗て、日常的にこの通りを利用していた時、それは決まって秋口での事であったが、何とかその隠れた〝消息″と云うべきか? に迫れない物かと、目を凝らし、通る度に気を張って歩いた物だったが、どうにも、その度に届きそうな所で、それはこちらの伸ばす手をするりと抜け、結局、分かった 様な分からない様な気持ちのまま、通り過ぎるのが常だったのだ。

 それは、例えば子供が目にした驚異を、それ等が持つ秘密を知るために、一つ一つの過程を最後まで確かめずにはいられない、意固地な性質に似た物だったのだろう。

 自分でも、どうしてここまで気になるのか、その理由が分からず、半ば意地になって探りを入れようとする自分自身に我が事ながら呆れながらも、それでもどうしてもその事を止められないまま、その時期の殆ど日課の様な物になってしまっていたのだった。


 ここまで考えても、僕の歩いている通りは一向に尽きる様子が無い。ここまで一直線に長い距離の続く通りも珍しいだろう。だからこそ、と言うべきかぼんやりと考え事をするにはうってつけ、と云う訳だ。片側は高い壁が無表情に続いている。もう片側には、街路樹が一定の間隔で途切れる事無く立ち並ぶ。それらは、冬に備えて茶色く枯れた葉を、一斉に通りに撒き散らしている。


 それは、後ろを振り返っても、前方を透かし見ても、同じ光景を見せていた。

 

 ……年に一度の大行事だ……。

 

 思わず呟かずにいられない。どうして今まで気付かずにいたのだろう? 僕は、いや、何も僕に限った事ではない、僕達はどうかすると世界を自分達の範囲内でしか見ようとしない、出来ない。あたかも、それが唯一の世界でも有るかの様に。そして、僕達とは全然異なる世界が存在し、その中で当たり前に息衝いている存在をうっかり見落としてしまう。だから、その存在を初めて認めた時には、本当に吃驚してしまう。自分の気付かなかった所で、こんなにも不思議な事が行われようとしている事に。 


 この前にも後ろにも果てしなく続く落葉の情景。それは何と大きな影響力を以て僕に迫って来た事だろう。今や僕の存在はその前で小さく縮んでしまい、替わって、この落葉という圧倒的な世界を引き起こしている木々の世界がこの場を占めようとしてるのだった。

 何時もなら、仄めかす程度で、すぐに消えてしまうこの感覚は、この時に限って何時までも消える事が無かった。それは、絶えず降り続ける葉の動きが、僕の意識をその都度引き留めていたからなのだと思う。やがて、その意識は一つ所に収束されて行くのだった。


 それは近過ぎもせず遠過ぎもしない所で見られる落葉の情景。地面に落ちるまでの僅かな間、宙に舞う葉の一枚一枚が、緩やかに結び付き、そこに独自の空間を作り出していた。微かに揺らぎ、そこだけがぼんやりと浮き上がっている様が、それが、僕には、この世の外側に通じている様に思えてならなかった。

 それにしても、何と儚い世界なんだろう。葉が宙に舞っている間でしか、それは存在し得ないのだから。僕がこうしてその存在を認める事が出来るのも、絶えず後から後から降り続ける葉がそれを繋ぎ止めているからであって、やがて最後の一枚まで落ち尽してしまったら、それはまた何処かに消え失せてしまうのだろう。


 その外の世界へと通じている入口は、目で見る事は出来たとしても、決してそこには到達出来ない所にあった。常に一定の距離を保ってそれは現われ、ついさっきまでその空間を認めた場所に達してしまうと、もうそこにはその存在は跡形もなく、そこよりも前方の、先程見た時と同じくらいの距離を保った場所で、再びそれは現われる。何処まで行っても、僕はそこまで辿り着ける事が出来ないのであった。

 幾ら何でも、こんな事を何度も繰り返していれば、嫌でも気付かずにいられない。別の世界への入り口とは他でもない、大量に降り注ぐ葉、その物なのであった。それがある程度の距離を以て眺めた時、恰も一つの大きな纏まりとして見られた、という事なのだった。流石に通り抜けるには小さすぎると云う物だろう。


 しかし、だからと言って、それで終わり、と云うのも何だか惜しい様な気がして、僕は一旦立ち止まって、自分を包み込む落葉の情景の中に身を浸すのだった。

 じっと佇んでいると、すぐ側を掠める葉の一つ一つから感じる向こう側の気配。何気なく大きく息を吸い込んでみる。そうする事で、少しでも向こう側の世界との繋がりを自分の中に取り込む事が出来る、とでも云う様に。例え、それがこの世に在っては完全に求め得ない物であったとしても。知らず追い詰められ、何処にも行き場を見出せないと感じている自分の様な者にあっては、この別の何処かに通じている、と云う感覚が何よりも有り難く、代えがたい物に思えたのだから。

 

 そうしていると、ふと、一つの疑問が頭をもたげて来る。枝に付いていた時には特に変わる所の無かった葉が、どうして離れた途端、こんな効果を生み出しているのか。不思議に思いつつ樹上に目を向けてみた。


 ……最初は何が起きているのか分からなかった。何か漠然とした印象が先に立って、何処に焦点を合わせた物か見当が付かなかったからだった。しかし、やがて僕の目は、葉が今、正に落ちようとする瞬間に向けられて行った。


 ……まるで葉が二つに分かれた様だった。一方は落葉となって下へ、もう一方は青白い光になって上に昇って行く……。その光が余りに透き通って混じり気の無い物に見えて。それは何やら小さい子供が、楽しそうに手足を一杯に伸ばして、踊っている様なイメージを僕に与えるのであった。

 その軽やかに飛び回っている様子は、見ているこっちまで楽しい、身も心も解放された気分になって来る。

 暫くして目が慣れて来ると、それらが次々と落ちて来る枯れ葉から飛び立って、灰色に曇った空を背景に、ゆっくりと渦を描きながら寄り集まって行く様が見て取れるまでになって行った。


 軽い眩暈めまいを覚えながら、僕は考えていた。これは葉の記憶なのだ、と。春先から夏に掛けて、そして今に至るまでの。葉の一枚一枚に染み付いた、瑞々しさに溢れた季節の記憶。  

 それがこの季節になると一斉に飛び立って、還るべき世界へと旅立っていくのだ、と。それまで仮の依り代にしていた木の葉を脱ぎ捨てて。

 記憶の欠片を僅かに残す葉は、地面に落ちるまでのほんの僅かの間、向こう側への入り口を開く。そうして彼等は、葉が地面に触れようとする正にその瞬間、その中に飛び込んで行き、永久にこの世界から姿を消してしまう。


 気付くと、周りに記憶の集合体が、空に巨大な渦を描きながら、忙しなく飛び回っている様が見えた。その渦は、次第に大きさを増して行き、それを見ながら身動きも取れずにいる僕に向かって迫って来る様に思われた。渦の中心は、そこだけポッカリと空いた空間を徐々に広げて行き、そこには、周囲が更に動きを速めて行く中で、さながら鏡を思わせる波一つ立たない静謐な薄い膜が張られていた。

 それは、手の届かない高い所にある筈なのに、何故だか同時にちょっと手を伸ばしさえすれば簡単に届きそうにも思えて来るのだった。考えるよりも先に手を差し伸べると、指の先にヒヤッと冷たい感触。触れた所から波紋が生まれ、やがてそれは膜全体にまで広がって行った。

 揺らぐ水面の様な波紋。その波の合間から、微かにほの見える向こう側の情景。それは、うら寂れて色の抜け落ちた秋の景色とは裏腹に、色鮮やかで生気に溢れた、それだけにこうして見ている事しか出来ない、決して届き得ない遥か遠い地の様に映るのだった。

 本来なら到達する事すら想像し得ないその世界に向けて、葉の記憶が生み出した入口を通して、その存在を僕は垣間見ている。腕を更に伸ばせば、手はずっと奥まで入り込む。これなら、と今度はめい一杯に腕を伸ばすと、それに応えるかの様に、膜はゆっくりとこちらに降りて来て、僕の両腕、肩、頭、身体、足と、順に吞み込んで行った。遂に膜が地面にまで達し、僕の全身を包み込んだその瞬間、僕はそこに現われた物を見た。いや、見た様に思った。と云うのは、それはほんの一瞬の出来事で、気付いた時には、僕は再び元の場所、長く長くひたすらに続く通りの中に佇んでいたのだから。


 僕が見た、或いは見たと感じた物をここで具体的に言い表すのは容易な事ではない。それは、思い返してみると、僕が普段目にしている物と何ら変わりない、ごくありふれた物であった様に思えるし、かと言って、全く同じであったかと云うと断然違う。あの時感じた体の内から塗り替えられて行く様な感覚、恍惚感とでも言えば良いか、それは他では求め得ない物であった事は間違いないのであったから。

 それは、ある種夢からの目覚めに近い物であったのかも知れない。少しずつ明るさを感じ始める中、説明出来ない多幸感に包まれて、ゆっくりと訪れる目覚めの時。夢の中で何を見ていたのか、それを思い出そうにも、それは既に遠い所にまで退いて、それを取り戻す術は疾うに失われてしまった後なのだ。


 では、結局どういう事なのか。どうしたら再びそこに至る事が出来るというのか。結局、自分自身が勝手に眩暈の中で見た与太に過ぎなくて、何の根拠もそこに見い出せない。やれ木の葉の記憶だ、やれ別世界だとのたまった所で、それらは全て自身のでっち上げた根も葉もない、それこそ水面に書いた絵に等しい物ではないか、と。こんな考えが自分自身を苛む。僕がこの身で体験した(と思っている?)事を再び目の当たりにするには、それこそこの世がひっくり返りでもしない限り不可能ではないか、と。


 〝ひっくり返る″思わず口を衝いて出たこの言葉。しかし、この言葉こそが先程の自分に対する回答に繋がる様に思えて来るのだった。確かに僕が見た、と思ったものは、僕が勝手に作り出した幻想であるのかも知れない。しかし、見方を変えれば、つまり〝ひっくり返して″考えれば、落葉の情景から僕が自分の想像で生み出したこの幻想が、もしかしたらこの情景に密かに含まれた別の一面を垣間見るきっかけになったのではあるまいか、と、そう云う風に捉える事も出来るのではないだろうか。この冬の訪れを告げる物寂しく虚ろな情景の中に、次の温かな季節への再会を約束する、木の葉達の精一杯の祭典と捉える事も出来る様に。


 もしかしたら、と自問する。今までの自分は事に依ると、ただ漠然と見て来た情景の中に大事な何かを、何時も見落として来たのではないか、と云う考えが過るのを感じるのだった。

 〝そうだ、そうだ″と、今でも尽きる事無く降り続ける落葉の情景が、それを肯定しているか様に、僕には思われて来るのだった。それは何時終わる事無く舞い続けて……。


 或いは、これも僕の作り出した妄想なのかも知れないが。

 


 

 



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