第3話 夏の日に覚めてみた夢

  きっと、何でも無かったのでしょう。それは、私の夏の陽射しの中に見た、一瞬の白昼夢。そう言ってしまえばなんて事の無い、つまらない事。そして、何時しか記憶の彼方へ走り去ってしまい、その後は誰もその事を気に掛ける人は居なくなってしまう。多分、そう云う事になるのでしょう。

 けれど、忘れてしまうには余りにも不思議で儚い、そして哀しい物を伝えて来るのです。あれが私の目に触れた、と云う事は、どうか誰にでも良い、この事を話して欲しい、伝えて欲しい、と私に訴えていた様に思えてならないのです。


 

 もう夏の終わりに差し掛かっていたと云うのに(少なくともカレンダー上では)、照り付ける強い陽射しは一向に衰える様子が無く、堪りかねた私は通りがかった公園の、大きな樹の下のベンチに座り込んだのでした。

 今でも不思議でならないのですが、どうして木陰だとあんなにも涼しく感じるのでしょう。その上、その中にいると、それまで聞こえていた街の喧騒がパッタリ止んで、まるでそこだけ見えないシャッターが下りてしまったかの様な静寂に包まれるのですから。この時もそうでした。でも、疲れていたのでしょう。私は、ただそんな涼しさと静けさの中に身を浸して、しばらく何も考える事が出来なかったのです。


 静けさ、と一言で言っても、それにしても、あの例え様もない安らかな気持ちを伴ったものは、私は他に知りません。

 それはきっと、葉と葉の触れ合う時に立てる、あの爽やかで細やかな音、それが他の音を和らげて、また、風の動きを感じさせる事で、あの涼しさと静かさとが入り混じった空気を作り上げているからではないでしょうか。

 時折、そんな事を思い出させる様に、一際涼しい風が通り抜けて、私の上で何度も軽やかな音を立てて、葉末が触れ合う……。


 見上げれば、それら葉やら枝やらが入り組んで、隙間から差し込む陽の光が、ひっきりなしに揺れる葉の群れに合わせて、キラキラと音を立てる様。その光は、今でもこうして目を閉じるだけで、私の前に甦る様。それは何て静かな眺めだった事でしょう。そして、限り無く心を慰めてくれる光景だった事でしょう。

 私には、これらの光が、絶えず、ほとんど聞き取れない位の小さな声で囁き掛けて来る様に思えて来るのでした。


「それでいい、それでいい」と。


 それで、私は小さく溜息を吐いて、俯いてしまうのでした。見続けているには、それは余りにも清らかな眺めで……。けれども、今度は俯いた先の地面で踊り続ける木末の影が、音も無く揺れているその様に、一層私の心はそれに捉われてしまうのでした。

 

 音も無く? いいえ、耳には聞こえなくとも、その声は、私の心にはっきりと響いて来るのでした。黒い影の合間から、小さな可愛らしい手がたくさん伸びて、その手の持つ小さな銀の鈴がつり下がり、みんなてんで勝手にその鈴を転ばしている。

 でも、その音は決して耳障りなどではなく、鈴の音を柔らかい綿でくるんだみたいに、抑えた、何処か遠くでなってるみたいな柔らかな音となって届いて来るのでした。


 こんな風に思えたのも、その影が、まるで子供達のお遊戯の様な、お日様の光が一杯に満ち溢れた世界で遊びまわる子供達の姿の様な、無邪気で楽し気な気分に満ち溢れていた為なのかも知れません。


「遊びをせんとや生まれけん、戯れせんとや生まれけん。」


 この唄の様に、この時の影たちの舞う姿は、正にこれとぴったり重なる物だったのです。


 けれども、同時に、この言葉を口にするたびに感じる、何処か胸が締め付けられる様な哀しみも、確かにそこにあったのです。彼等の踊る仕草が無邪気で軽やかであればある程、哀しみも一層くっきりと浮き上がって来る様に思えるのでした。でも、どうして? 


「思い出。」


 突然、この言葉が私の頭に閃いたのでした。どうしてこの言葉が浮かんで来たのでしょう? でも、一旦浮かんだこの言葉は、いくら追い払おうとしても、私の中に残って、何度でも耳元で囁き掛けて来るのでした。「思い出、遠い昔にあった事の思い出」と。


 確かにそうなのかもしれません。何時からかこの場所に立っていた木。それは、ずっとずっと長い間、ここで思い思いの時を過ごす人達の姿を見続けて来、何時しかその影の中に、嘗て起こった出来事の記憶を、夏の渇いた地面のスクリーンに映し出しているのだとしたら? それはどんな記憶なのでしょうか? 遊びに夢中な子供達の姿? その子供達を優しく見守るお母さん? それとも、じっと座って物思いに耽っているお爺さん?


 やがて、それらはゆっくりと一つの形を取って行くのでした。


 何時しか、私は影の中に入り込んで、そこに一つの情景を見ているのでした。辺りはすっかり静寂に包まれて、草木の影が浮き立って見える程に黒々と濃くなる強い陽射しの中で、まるでその影の中から抜け出して来た様に羽を翻すカラスアゲハ。

 それを無心で追い掛ける幼い女の子の姿が一つ。上から下まで白一色の服が動くたびにひらめいている様子は、真っ白なモンシロチョウが跳び回っている様に見えるのでした(女の子の瞳はキラキラとせわしなく煌めいていましたが、同時に、小さな波一つ立たない水面の様に静かでもありました)。真っ黒なカラスアゲハと真っ白なモンシロチョウとの終わりのない追いかけっこ。


 それを見詰めているのは、まだ若さを残しているけど、全身が静かな空気の中に座っている様な落ち着きを感じさせるお母さん? 自分の子を追うその眼差しは、ゆっくりだけど、しっかりとその姿を捉えて、ひと時でも見逃す事は無いのでした。その瞳は限りの無い優しさを湛えていたけど、何処か抑え様の無い不安も又、そこには表れていたのでした。あのまま、自分の子がカラスアゲハと一緒に、自分の手の届かない、遠い所に行ってしまうのではないか、と。直ぐ後には、いつも通りその子の小さな手を握り締める事が出来るのは分かり切っている筈なのに。時折その腕が子供の後を追う様に、空しく差し出されるのでした。


 そして、ベンチに腰掛け、帽子を深々と被り、度の強い眼鏡をかけていた為に、その奥の表情を読み取れないお爺さんの姿が。その人は、背を丸め、ステッキの握りに顎を乗せ、その視線は何処か一点にじっと注がれて。いいえ、もしかしたら、何も見ていなかったのかも知れません。何故って、小さく開いたその口から、低い小さな声で、何処かもの悲しさを感じさせる歌が、もう忘れられて誰も歌わなくなってしまった歌が、途切れ途切れに漏れ出ていたのですから。きっとまだその歌が歌われていた頃の事を思い出しながら。


 けれども、それらの光景は長く続く事無く、私の前から急速に遠ざかって行くのでした。見る間に、彼らの姿は小さくなって行き、遂には見えなくなるまでに。

 後には、ただただ地面の上で静かに、音一つ立てる事無く、それでも忙しなく揺れ続ける影が。

 

 目を上げると、そこでは全ての動きが止まって、それはまるでその場で時が凍り付いたかの様。

 木の枝葉は、不自然な恰好に伸び上がったままその場で止まり、そこから少しも動こうとしないのでした。それは最早、木と呼ぶには余りにも違う何かで、緑や黒や黄色の紙を小さく引き裂いて、辺り構わずばら撒いた、正体の掴めない模様でしかありませんでした。

 宙には、先程のカラスアゲハが、空の壁紙に張り付いて、一枚の写真となって、その場に留まり続けるのでした。じっと見つめていると、これも終いには蝶に見えなくなって来、出鱈目に折った折り紙位にしか見えなくなって来るのでした。

 地面に落ちている小石から伸びた影でさえ、ちっともそうは見えなくて、鋭い刃を差し込めば地面から剝がす事の出来る、薄くて脆い黒い板なのでした。手に取って握ってみれば、粉々になって毀れ落ちてしまうかと思える程に。


 空気はそよとも動かず、ピンと張りつめて、さながら一つ一つの粒が固く結びついた一つの堅い塊となり、それが絶え様の無い息苦しさを感じさせるのでした。

 

 そんな中でたった一つ、地面に写った木の影だけが、静かに、でも、急かす様に揺れて。

 さあさ、急いで、でも何処へ?

 

 見る間に影はぐんぐん嵩を増し、公園全体を包み込むまでに広がって行くのでした。公園全体が揺れに揺れて見える程の忙しなさ、それでもそこには音一つなく、やがて影は三つに分かたれて、それぞれが小さく濃さを増して行き、遂には地面から伸び立ち上がって、一つの形を取り始めたのです。


 彼等は、公園の真ん中に佇んでいました。私がさっき森の影の中に見た記憶の人達、蝶を追う女の子、女の子のお母さん、物思いに耽るお爺さん、と。

 三人ともぼんやりとした様に立つばかりで、それぞれがそれぞれに別々の方に目を向けて、皆が皆自分の中の何かをじっと見つめている様に見えるのでした。そして、同時に何かを待ち望んでいる様な。


 どのくらいの時が過ぎたでしょうか(そこに本当に、時、何て物があったのかは分かりませんが)? 彼等の待ち望んでいた物が訪れるのでした。各々の影がゆっくりと波打ち始め、けれども、それは私達が普段見る様な揺れ方ではなく、地面から浮き上がって、風に揺れてる布切れの様に、今にも地面から離れて行ってしまいそうな頼りなさで。

 それまで影に背を向けていた彼等。やにわに影に向き直ると見ると、ゆっくりとしゃがみ込み、自分の影を拾い上げ、立ち上がって大事な物をいたわる仕草で丁寧に畳み込み、愛おしげな表情でそっとそれを抱きしめ、しばらくの時を味わうかの様に、その場を動かず、じっと立ち続けているのでした。


 どれ位そうしていたのでしょうか、やがて彼等は、そのままの姿でゆっくりと薄れ、消えて行くのでした。


 (さようなら、貴方たちは漸く今になって、本当に遥か彼方の世界に向けて旅立っていくのですね。)



 そして、全てが終わった後、凍っていた世界は溶け出して、私は元の通りベンチの上で、木の葉がさわさわと囁き掛ける音に耳を傾けているのでした。あのカラスアゲハは疾うに何処かに飛び去っていました。木の影は相変わらず遊び戯れる様に揺れていましたが、その動きは何処か物憂げで、すこうし色が薄くなっていました。何時しか夕暮れの時が近付いていたのです。


 と、その時、私の傍を冷たい風が通り抜けて行きました。その冷たさを肌に感じながら、わたしは、もう夏が終わり、秋がすぐ近くまで来ている事に気付こうとしているのでした。

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