第2話 玻璃階段

 逃げる様に旅に出てからどのくらい経っただろうか。最早、月日の間隔は失われて久しかった。僕は、この広い白砂の海辺で今やたった一人だ。この南の小島には、それでもほんの数日前には数人の観光客が滞在していたのだが、それも昨日船が来た時に、全員乗り込んで居なくなってしまった。次に船が来るのは三日後になる。

 それまでは、この海辺の眺めを気ままに独り占めできると云う訳だ。


「まあ、こんなものですよ。」


 宿の主人は、苦笑しながら言った物である。しかし、僕にしてみれば、これは実に有り難い事だった。今は、あまり誰かと話す気になれなかったのだから。


「正に、別世界だ。」


 サマーベッドに寝転がり、眼前に広がる海をぼんやり眺めながら、思わず呟いていた。傍らには、白塗りの木のテーブル。使い込まれて、所々ペンキが剥がれて、木目が剥き出しになっている。その上に、氷をふんだんに入れたドリンクを置いて。差し込んだストローが、時折風を受けて、グラスの中で反転している様を、何となく眺めていた。


「別世界……。」

 

 僕は、知らず口を衝いて出た言葉を、今度はじっくり味わう様に、口の中で転がしてみる。一体僕はどっちの意味で言ったのだろう。単に自分の今まで生活して来た街の風景とは違う眺め、という程の意味なのか、それとも、もっと違う何か、この現実世界という現象とは全く性質を異にした別次元の世界、という意味なのか。

 しかし、僕は長く考え続ける事が出来なかった。それよりも、今自分を取り巻いているこの世界に身を任せてしまいたい欲求の方が強くて、何か考えようとしても直ぐ思考の糸が切れてしまい、どうしてもそれ以上進む事が出来なかったのだ。


 遠くの空に、大小取り交ぜて大理石の様に滑らかな表面の白い雲が幾つも浮かんでいるのが見える。それ等は、この場所で時間の流れを伝えてくれる唯一の物だった。雲は、恐らく上空で吹き荒れているに違いない空気の流れに乗って、頻繁に形を変えながら流れて行くのだった。

 僕は何時しか、それ等雲の流れから実に様々な形を読み取っていた。自分でも意識しない程それに夢中になっていたので、我に返った時には、全ての雲が元の形とはすっかり変わっていた。僕は、自分のこんな次第にすっかり可笑しくなってしまい、しばらく一人でクスクス笑っていた。こんな他愛ない事に夢中になってしまった自分も可笑しかったが、自分が雲に見ていた様々な形の一つ一つが、あまりにも童話じみていたからでもある。いや、同じ事か。


 これは、ますます以て別世界だ。と、同時に、自分が後に残して来たそれまでの生活や人々が、あまりにも遠い物になっている事に気付いた。何度か思い起こそうと努めてみたが、どうにも上手く行かない。漸く思い出した記憶の断片にしても、僕はそれらを自分でも意外な位の冷淡さで眺めていた。終いには、それ等が本当に自分の経験に依る物なのか、それとも何か聞きかじりの物に過ぎないのか、区別出来なくなって来るのだった。


 しかし、これこそが自分の望んだ事ではなかったか? 自分の意志とは無関係に、自分とは似ても似つかぬ〝自分″と云う人物像が作り出されてしまう所から関係をすっぱり断ち切ってしまう、と云う事が? ところが、いざそれを実行に移してみると、何とした事だろう、それまで本当の自分と信じていた物が、作られた自分以上に根拠の無い、蜃気楼の様に見えて来る、と云うのは一体どうした事なのだろう。

 理由は直ぐに分かった。この砂と海と空ばかりの島、それを白熱した太陽が遍く照らし出す場所では、心の中までも一切の誤魔化し無く鮮明に映し出してしまうのだから。

 要は、自分は作られた人物像を追い払う事ばかりにかまけて、本当の自分云々は、まあ急ごしらえと言うべきか、単なる〝代理″で満足してしまっていた。自分の求めている物は、何の事は無い、まだ生まれてさえいなかったのだ。


 自分の求めている物、そう、あくまで〝求めている物″であって、それは所謂〝本当の自分″なんかじゃあない。何故って、〝本当の自分″なんて物は、「今の自分は本当の自分じゃない。」何て言い草が示している様に、何ら具体的な所が無い、言ってみれば、〝作られた自分″同様、或いはそれ以下の物に過ぎないのだから。それなら、求める物って一体……。

 そこまで考えて、止めた。と云うのも、この場所は何かをはっきりと映し出す事には向いていても、何かを作り出す事には、まるきり向いていなかったのだから。

 今はそれよりも、未だ自分の中にしつこく残り続け、絶えず矛盾を引き起こして、僕を鬱悶とした袋小路に追い遣ろうとする、〝作られた自分″と、〝本当の自分″なんて幻想に染まった、自分の青臭い感傷を跡形も無く消し去ってしまいたい。こんな、穴倉の中で自分を舐め回している様な、こんな惨めな気持ちはもう嫌だ! それがまず最初に為されなければならない事だった。



 ふと浜辺に目をやると、これはどうした事か、透明な階段が波打ち際から伸び、天の果てまで続いているのが見える。

 ははあ、この場所では自分の幻想までもが、こんなにもはっきり映し出される物なのか、と変な所で感心しながら(と云うのは、僕はさっきから気紛れに、ここから透明な、例えばガラスか何かで出来た階段をずっと伸ばしてみたら、さぞや面白い絵になるだろうな、などと考えていたのだから)、立ち上がってそこまで歩いて行った。


 けれど、階段は消えない。戸惑いながらも、最初の段に足を掛けると、足の裏から冷たい感触が伝わって来る。では、これは幻覚ではないのか? 

 暑い日差しと熱い砂に火照った身体に、その感覚は心地良く、知らず知らずの内に、僕はこの階段をどんどん登り始めていた。

 何か考えていた、と云う訳ではない。ただ足裏から伝わる冷たさが、自分の頭の中にまで及ぼす強烈な刺激、それは、頭の中をこの階段の様な、透明で冷たく無機質な幾何学模様で埋められて行く様な、そんな強烈な刺激を無意識に求めようとする半ば自動的な運動だったのだ。

 

 心の何処かで、これが危険な行為だと云う思いはあった。この階段が薄く透明なガラスの様な脆さを連想させる様に、今自分のしている事も、ひとたび脚を踏み外せば、忽ち真っ逆さまに転落してしまう曲芸めいた行為なのだから。

 しかし、その危険を承知しながらも、その時の僕は、むしろその事を楽しんでいた。今思い返しても不思議な事であるが、どうやら僕は、こんな虚空を足元に置いた綱渡り的な行為に、自分が何でも出来る英雄になった子供みたいな気分になっていたのだろう。或いは、自分が世界の秘密を眼前にしている、冒険家の気分になっていたのかも知れない。まあ、結局この二つは同じ様な物だが。


 しかし、こんな事を何時までも続けられる筈も無く、登り続けてどれ位経っただろうか、気付けば、時間の感覚も失われ、不意に酷い眩暈を覚え、終いには自分がどうやって立っているのかも分からなくなる程の眩暈に襲われるのだった。

 それは、まるで宙に頭を下にして立っている様な……。

 

 運良くバランスを取り戻す事が出来、再び足元が確かになるのを感じると、僕はまた階段を登り続けようとするのだったが、ふと、足が止まる。

 登る? どうして? 一度我に返ってしまうと、こんな事をして舞い上がっている自分がなんとも馬鹿げた物に思えて来て、かと言って、これから戻ろうにも、今まで辿って来た道のりの長さを思い、その気力も失われ……、正に万事休す! と思われた矢先にふと、正に今の自分の精神状態とそっくり同じである事に気付いて思わず笑いが込み上げて来るのであった。


 しかし、それにしても、先程から感じるこの違和感は何だろう? さっきとは何かが明らかに違ったこの感覚。

 と、足元を見ると、その違和感の正体とは、何と! 僕は何時の間にやら階段を下りているではないか。遥か下方には砂浜が広がり、その一点に自分が使っていたサマーベッドとテーブルが、小さいながらも見て取れるのだった。やれ嬉しや! とばかりに、僕は足元の階段が今にも割れそうに軋むのも構わず、飛ぶ様な勢いで階段を走り降りて行くのだった。


 再び足裏に日に焼けた砂の厚さを感じた時の、何とも言い難い安堵感と喜びを、僕は何と表現したらいいか分からない。ただ、ああ、やっと帰って来られた、もうこんな事に関わるのは止そう、そして、これからは目の前にある物を素直に受け入れて行こう、今となってはその有難みが身に染みて分かったのだから、と、そう感じた事は確かであり、先程までの勢い込んでいた時とはまるで真逆の事を考えている自分に気付き、我ながら現金な物だ、と苦笑するのだった。


 しかし、それで終わった訳ではなかった。それだけだったら、何もここに書き留めておく程の事ではない。どうやら、一旦ある考えに憑かれて、それが動き出してしまうと、その後は自分の感情如何に拘らず、最後までその現象は止む事が無いらしい。

 と云うのも、見上げてみると、今自分が降りて来た階段の先に、思いも掛けなかった物が見付かったからである。

 それは、青い空に大写しになった、一つの島であった。それは、ちょうど自分の立っている島を巨大な鏡に映したかの様に逆さを向き、それが一本の細い階段を通して、正確な対称を成しているのだった。

 更に、その周りを覆う空、それは島を取り巻く海と見ればそう見れなくもなかった。

 

 では、自分はあの島から階段を伝って、このさかしまの世界であるこの島に来てしまった、とでも云うのだろうか? 確かに自分の望んだ事とは言え、こうして実際に、自分の元いた処とは全く縁も所縁も無い世界に辿り着く事になろうとは。何だか煙に巻かれた様な、そんな気分になって来るのだった。

 

 僕は、この元の世界と何も変わる所の無いながら、その何一つとして知る所の無い異郷で、永久に流浪の民として生き続けなければならないと云う事か? それとも、全ては強い陽射しにやられた僕の頭が作り出した幻想に過ぎないのか? 例えそうであったにしても、この幻覚は現実の体験と同等の、いや、それ以上に僕の中に強烈な傷跡を刻み込む事になるのだ。世界がそれまでの親しみ馴染んだ繋がりを全て失い、自分とは何の関係も無い物となってしまう、と云う事を、それは意味するのだから。


 しかし、結局そのどちらであるのか、と云う事など僕に分かろう筈が無かったのだ。と云うのも、そんな風に迷っている間にも、空に映し出された島と階段は、見る見る内に薄れて行って、遂には、永久に時間の止まった様に見える空の中に消え失せて行ってしまったのだから。

 

 

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