Four Seasons ~季節の散文詩~

色街アゲハ

第1話 春と自転車

 長かった冬が終わったのは、時折思い出した様に吹き付けては、道に積もっていた埃を忽ち舞い上げて通り過ぎて行く風からも分かりました。

 私達は冬眠なんてしないけれど、あの長い長い冬の間、私達の胸の中で、じっと寒さに耐えながら、何かを眠らせ続けて来たのは確かな様です。私が誘い出される様にして、自転車を引っ張り出して、この川を見下ろす土手までやって来たのも、春の空気の中で目覚めた何かが、私をせっついた為なのかも知れません。


 こうして、柔らかい草に覆われた土手の斜面に座っていると、一層その事が強く感じられて来ます。そうしている間にも、また風が。

 汗で身体に纏い付いた服が浮き上がり、その心地良さの裡にも、何かが始まろうとしている、と思わせる何かがある様に思えてなりません。

 春の空気は、まず最初に、冬の寒さで縮こまっていた私達の身体を、吹き出す汗と一緒に溶かし(固くぎこちなかった身体が嘘みたいにほぐれて軽くなったあの感じです。)、次に風を送って、私達の心をしっかりと掴んでしまうのです。そう、この風が。私の服を翻し、髪を散り散りにしながら空に還って行くこの風が。


 そこには、爽やかな中にも何処か悩ましい、胸の内が苦しい様な、浮ついた様な、おかしな気持ちを起こさせ、私達の中に入り込んだと思ったら、次の瞬間にはもう手の届かない所ににまで行ってしまう。

 それは、〝目覚める″事に対しての哀しみなのでしょうか? 私の周りに広がっている、うららかな春の情景。例えば、すぐ傍らで揺れている柔らかな薄緑色の草々にも、微笑ましい中に、微かな痛々しさが感じられるのです。

 この気持ちは、今、この時期だからこそ感じられるものではないでしょうか? この世に生まれてまだ間もない、夢の中を漂っている様な感覚。そこには、この世界とあちらの世界との間にいるものの不安定さ、現われたと思ったら、もう消えている様な。生まれた喜びがまだ消えない内から、すぐにでも元来た所へ帰って行かなければいけないという、避けられない運命が、この未だまどろみの中にある今だからこそ、淡いながらもはっきり透けて見えるのでしょう。



 ずっと遠くの河川敷では、たくさんの子供達が野球に興じているのが見えます。その声はとても遠く、金属バットで球を打つ音も、思い切り振り抜いた動作から少し間を置いてから聞こえて来、それを見ている私を、気持ち良い眠りに誘う様な和やかさの中に包み込み、そんな情景に身を置いていると、私を取り巻く世界そのものが、春の微睡まどろみと一分の隙間も無くぴったりと重なり合い、かえってその為に、ちょっとした拍子に消えてしまいそうな、儚さに置かれている様に思えて来るのです。そう、ほんの小さな出来事が起きてしまっただけで……。


 子供達の、まるで小人達が跳ね回っているのを思わせる、ちょこまかした動きを、私は何となく目で追っていました。と、その裡の一人が打った球は、見事会心の大当たり! 


 それは折良く高い所で吹いていた風に上手く乗って、遠く遠く運ばれて、広場に隣り合った、そこら一面黄色の菜の花畑の中に飛び込んで行きました。

 その途端、今まで静かに眠っていた菜の花畑から、よくもまあ、こんなに、と思う程たくさんの小鳥達が一斉に飛び立って行ったのです。

 その余りの勢いに、菜の花畑その物が飛び上がったのでは、と思える程に。


 それが余りに鮮明だったので、目を閉じても、その情景が瞼の裏に焼き付いたまま消えようとせず、その情景をいくら追い払おうとしても、私の中で尽きる事の無いアンコールを叫び続けて止まないのでした。やがて、それは何度も繰り返されながら、少しずつ私の方へと向かって来、遂には菜の花畑の黄色い色が、大きな塊になって、私を包み込んでしまったのでした。


 しばらくして、目の前がゆっくりと開けると、私は果ての見えない菜の花畑の中に唯一人佇んでいるのでした。とても静かで、ただ風に揺られた菜の花が、大小の緩やかな波を立てているだけなのでした。

 と、突然足元から一羽の小鳥が、目にも止まらぬ勢いで飛び立って行きました。見ると、小鳥の身体から数えきれない空気の糸がピンと伸び、それはきっと下の菜の花一つ一つに繋がっていたのでしょう、後を追う様にして、私を取り巻いていた菜の花畑全体が、私だけを残し飛び立って行ってしまったのです。


 残されたのは、何もない真っ暗な空間と、そこに何の支えも無しに佇んでいる私だけ。腕をめいいっぱいに伸ばしても、それはただ徒に空を掴むばかりで、叫び声を上げようとしても、それは声にならずに、口だけが空しく動くだけなのでした。

 沈黙が私の前に大きく口を開けて、私を飲み込もうとしているのでした。それに対して、私は為す術も無く、ただ恐ろしさに身を縮こめるのみ。いよいよどうかなった! という思いに駆られたその時です。下から何か小さな、先の尖った物が虚空を背景に、鋭く一筋の軌跡を描きながら、昇って行くのが見えたのでした。

 あっ、さっきの小鳥、と思う間も無く、再び私の目の前に、広々とした鮮やかな黄色も目に眩しい菜の花畑がパッと開けるのでした。

 と同時に、下から弾かれる様な衝撃を感じ、私はその場から高く高く跳ね上げられていたのでした……。


 それが本当の事だったのか、それは分かりませんが、私はその衝撃に驚いて目を開き、周りを見ると、やっぱり私は元の通り土手の斜面に座っていて、風に吹かれた草々が触れ合って、涼しげな音を立てているのでした。

 遠くでは、陽の光を受けた川面が、細やかな光の綾を描いていました。子供達は相変わらず遊び戯れ、菜の花畑は静かに黄色い波に揺らいでいるのでした。

 けれども、私はそれらのどれ一つとして、それまで感じていた親しみを感じる事が出来なかったのです。例え、それが目の前にあったとしても、依然として私は、それ等とは縁も所縁も無い、「置いて行かれた」自分を感じないではいられなかったのです。



「君が何処か遠い所に行ってしまいそうな気がする。」

 と、あの人は云いました。今なら、この言葉も分かる様な気がします。彼はきっと、私がこの春の情景に感じているのと同じ事を、この私に感じていたのでしょう。

 また別の時に、あの人は自分を指して、こう言うのでした。

「何処に行こうと、何時だって僕はにいる。だから心配する事なんて何もないんです。」

 でも、これは私よりも、自分に向けて言い聞かせている様に聞こえるのでした。

 彼は気付いていたのでしょうか? 何処かに行ってしまうのは、私ではなく、自分だという事に。

 私こそにいて、何処かに行く事なんて無かったというのに。


 でも、今私がこの春の情景に「置いて行かれてしまった」と感じている様に、あの人も私が何かに引っ張られて、自分を残して行ってしまう様に見えたのでしょうか?

 そうだとすると、その時私は一体何処に行こうとしていたのでしょうか?


 いくら考えても、どれが本当か分からないのでした。


 何れにしても、彼を引き留めておく事は出来ませんでした。例え、無理に引き留めた所で、心が遠く離れて行ったままでは、何の意味があったでしょう。

 何時かは帰って来るのでしょうが、会いたい時に限ってそれが叶わない、となると、寂しい気がします。

 殊に、こんな身の置き所の無い様な気持ちの時には、彼が遠くに行ってしまった、その事が、ずっと重く見に圧し掛かって来る様に思えてならないのでした。



 重い気分を振り払う様に、私は大きく身を捩り、土手の上に止めていた自転車を見上げていました。低い所から見上げる自転車は、後ろに遮る物が何も無くて、ただ、ふんわりと柔らかい雲が、ゆっくりと流れて行くだけの薄青い空が、大きく開けているのでした。

 まるで、誰も乗ってない自転車が、空の真ん中に何の支えも無しに引っ掛かっている様に、それは見えるのでした。

 でも、それはさっきの私の様な、何も無い所に取り残された、という風ではなく、あの小鳥の様に見えない糸を四方に伸ばし、その一つ一つが全ての春の情景に結び付き、漕ぎ出されるのを待ち望んでいる様に見えるのでした。


 その糸は、私にも繋がっていたのでしょうか? 思うより先に、私は立ち上がって、土手を登って自転車の前まで来ていたのです。

 自転車にそっと触れてみる。糸の束は消えませんでした。スタンドを外し、自転車を動かしてみました。それでもそこから無数の糸が伸びている、という感じは消えませんでした。

 そこで、私は自転車に乗って、土手の上の道をゆっくりと走り出したのです。

 もし、こうやって、と私は考えるのでした。自転車と一つになった私が、ペダルを漕いで行ったとしたなら、走る勢いでピンと張った糸に引っ張られた春の情景一つ一つ、例えば川面にキラキラ輝く光の波や、例えば時の流れを忘れて夢中になって遊び戯れている子供達や、今もゆるやかな波に揺れている菜の花畑や、その中で眠っている小鳥達、そういった全てを引き連れて、一緒にこの先に広がる世界へと走っていける、と。


 そこまで望まなくても、もし、土手の下から私を見上げる人が居て、私が自転車を漕いでいる姿が子の何処までも広がる春の情景の中、空の真ん中を軽やかに走っている様に見えたのだとしたら。

 その時には、私は自分でも気付かない裡に、自分を取り巻いているこの春の情景との繋がりを取り戻している事になるのでしょう。


「なあんだ。」

 私は思わず呟いていました。

「こんな簡単な事だったんだ。」

 

 何だか可笑しくなって、小さな笑いを洩らしながら、私は近くて遠く感じる家への道のりを急いで、自転車のペダルを一杯に踏み込んでいました。




                  

  

 

 

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