愛はすべてのとおり君でした

只鳴どれみ

愛はすべてのとおり君でした

 ペンギンをいじめるのをやめた。ペンギンを飼っていて、そいつをいじめていた。いたんだけれど。今。やめた。やめようと思ったから。良かった、思えて。そう思った今、ペンギンが、俺を見つめて、いるんだけれど。


 中学二年の二学期あたりから、卒業までずっと片思いをしていた女子がいた。女の子。女子。好きだった女子。ペンギン、のようだった。ペンギンのような、そんな女だった。女子だった。まだ女子だったけれど、発育が順調だったのか何なのか、俺には詳しく分からない。分からないけれど、おっぱいが順調のようだった。おっぱいが順調に女だった。巨乳というわけではない。ないのに、妙に印象に残るおっぱいの女子だった。や、少し違う。印象に残るおっぱい、というより、おっぱいを印象付けることに長けたる妙な女子。違うな。もっかい行かせてくれ。順調なるおっぱい、それを妙に印象付けるような姿勢に無意識なのか何なのか、そうなっていた、そんな特徴を持った女子は俺の好きだった女子、その中学生、中学生バージョン、女子、だ。これだ。これで行きます。もう分からない。何も分からないけれど、行きます。そう、それで特に、特にだ、歩くときなんかはかなり、かなり印象付けにきていた。おっぱいの。その姿勢が。何か胸を張って、ちょもちょもちょも、という感じで歩くのだ。すっすっすっ、と歩くわけではなく、のすのすのす、と歩くわけでもない。ちょもちょもちょも、又は、ちょすちょすちょす、だ。胸を張って。俺はさ、俺はよく観察していたから分かるんだ。胸を張って、てすてすてす、でも良しか。良しとするんだけれども。分かるんだよね。そうなのだ、分かるだろ。それが、その姿がすなわちペンギンのようだったんだ。合致、と、かなり順調に繋がった。順調に繋がるのは良い。しかしながら俺は、あの子と繋がれなかったんだ。そこには順調もクソもなかった。

 あのとき、完全に両思いの物語だったんだけれど。だってそうだった。二人だけは分かっていた。二人だけが分かっていた。お互いに、お互いさまに恋だった。にっこりだったら恋だった。だって君、グレープフルーツが好きと言って他の女子からグレープフルーツを貰っていて、給食のときの話なんだけれど、貰っていて、え、そしたら俺もあげたいと思って、好きだったから、俺もあげたいと思って「俺のもあげる」と俺は言って、君はありがとうって笑って完全に貰ってくれて花だった。笑ってて君は花だった。でも、あきらかにお腹いっぱの君だった。完全に。君、無理して食べているのに俺、途中から気付いていたんだよね。観察力だから。観察俺だから。けれど、あ、ヤバイとなりつつ、無理させてしまった、と思いつつ、しかしこれが証拠じゃんね、とも思ったわけ。証拠じゃん。分かるよね。あのとき俺たち恋だった。本当恋だった。君は俺の日々の虹だった。……成程。だから消えてしまった、見失ったというわけか。今分かった。


「ゴエエエルルルルアアアア!」っせえよ。


 ペンギンるっせ。どうしたというのか。っせ。

 真夏の六畳間。その真っ昼間もどっ昼間、絶対的なる絶っ昼間。頬杖をつくスタイルで寝転んでいる俺の顔面に、急にペンギン、鳴きながら腹でアタックしてきた。さっきまで俺を見つめて、いたんだけれど。お互い、静かに、見つめ合って、いたのだけれど。ペンギン、てすてすと、小走りでアタック。俺の顔面、もざッとする。息苦しさをくれんな。復讐か。復讐というやつか。先程までのいじめに対するそういうアレということか。


「そうだよ」


 ……?


「そうだよ、と言っているのです」


 ちょちょちょ、わちょちょ。


 ちょちょちょ! 退け! もざッとをやめろ、やめやがれペンギン。何! 誰! 俺はペンギンを引き剥がし、顔面を歪ませ、体勢を起こす。部屋には当たり前にペンギンしかいない。ベランダの窓の方を見る。トラックが通り、過ぎ去って無音。のちに秒針の音のみが立つ。


「復讐だと、言っているのです」


 ペンギンが言う。ペンギンが言うな、と俺は思う。


「ペンギンも言うのです」


 言うなよ。言うなよだし、心の声を聞くなよ。


「心の声、聞けるのです」


 ペンギーン?


「ハーイ」


「わーあ」


 と言ったところで、お姉さん座りスタイルの俺の太腿を、半ズボンから生えているその内腿を、ペンギン、ベッチ! と引っ叩いてきた。


「ってえ! な! お前、何」


「だから復讐。いじめられたので」


「違う。喋れるなよ」


「違くない。いじめるなよ」


「ハン? アハーハ、いじめか、プーウ。やはり嫌だったでしたかアレ」


「嫌だったでした」


「そうですか。でも痛いことは無しだろ復讐っといっても。俺はあなたに痛いこと、していないのだから」


 俺、確かに言ったが。ペンギンをいじめていたとは確かに言ったが。俺は暴力だなんていう、単純で直線的な催しはね、俺、好きくないのだよ。なので「あなたにも痛いことはしていないのですけれど」


「でもアレ、めちゃくちゃ屈辱的だったので、やはり復讐、それを継続したい、思い!」ベッチ!


 ってえ! 同じところ連続でやるな! 少しだけでもズラす心遣いを提唱する俺の心のかたち、それを言葉に表すと、ってえ! になる。違うな。分からない。何も分からないけれど痒痒痒。痛みを越えて痒みが来た。俺、上半身を前方に畳み、真っ赤になっている内腿、ペンギン手形のポイントを、お姉さん座りのまま掻きむしる。と、脳天を鳥のくちばしで挟まれる感覚がした。鳥の嘴で挟まれた経験ないのに不思議と「あ、嘴」と分かった俺は、この世は不思議で溢れてるのを知っているんだよね。


「ゴエエエルルルルアアアア!」っせえよ。


 ペンギンるっせ。くっせ。は? 何だくっせ。そんで、は? 顔面、すごく濡れている。


「復讐。その完了です」


「ナン? アナーハ、そうかよ、ポーイ。目には目を、か」


「はい。歯には歯を、です」


 歯には歯をって、はあ……ニーハオニーハオ、って言っているみたい。と一瞬だけ思ったが、そんなことはどうでもいい。つまり、やり返されたのだった。

 俺は、やっていたのだ。それをペンギンに。俺がいじめと言っていた催し。それは、ペンギンの頭頂部、或いは前頭葉らへんにキッスさながらに口を付けて「喋れ」「喋れよ」「お話をしよう」「聞こえますか」等々、小一時間ほど唱える、というものだった。これが何故いじめになるのかと言えば、明らかにこの催しの最中、ペンギンが無になっていたからだ。無になっているのに気付いていながら俺はやめなかった。無。矢鱈にカワイーカワイーと持て囃されるペンギンが今、無になっている、というその様こそが、かわいいを無で貫いたその様こそが『真のかわいさ』なるものではないのか、と、そういう気持ちだと思ったのだけれども、違うな。違いました。適当に言い過ぎた。

 俺、単純に。喋ってほしいな、という純な、そういう気持ちから中々やめられなかったのだ。でも、やめたから。最終的には自己の強い心で、ビタ、そうやって、やめたから。


「おもちゃにしてただけでしょ。そして飽きただけ」ペンギンが俺を見上げて言う。嘴の先端が意外とこわい。


「いやいや、違うだろ。心読めるなら分かるよな。本当に、俺、喋れたらなあって、本音だもん、素直だもん。でも君が、あまりにも無すぎて何か、あれで、やめたんだ、あれだから」


「無、って言うか、何これ、ってなるでしょ? 固まるでしょ」


「やり返されて分かった。超絶にうざいと。分かりました。何これって固まりました」


「あと何か、頭に唾つくし。汚いからまじで」ペンギン、そう言って項垂れながら頭頂部、或いは前頭葉らへんをペスペスサスサス。


「唾? つけてないだろし」


「頭に口つけて、ごにょごにょごにょごにょ言ってたらつくんだよ! 何かネバネバしたやつがつくんだよ! 小一時間もごにょごにょごにょごにょ! 飽きろよ! 飽きれよ!」


「お前、その仕返しにゲボ吐いたのか人の頭に。脳天から顎までくさくさびっちょんなんだけど。床に垂れるほどに」と言ってるそばから、また一滴、床にゲボ垂れる。


「一瞬で終わらせてあげただけありがたく思えし。もう良いから洗ってきなよ。臭い」


「キミのゲボのせいだよね臭いの。じゃあおい、入るぞ。風呂、シャワ。キミも頭頂部から前頭葉らへんにかけて気持ちが悪いんだろう」


「……」


「どした」


「や。お風呂は、と言うかお湯は……ペンギンとしては、ちょっと……大丈夫かなって」


「あ? 水で洗えばいい。俺も水にしよ。夏は〜、暑い」


「……じゃあ先に入ってきて。桶に水を溜めといて貰えれば後で自分で洗うから。桶が無いならごめんけどシャワー出しっぱにして貰えれば」


「何だお前。さては恥ずかしいのか。ペンギンごときが何を恥じらっている。そんな全裸で」


「うるさいよ。いいから早……ちょッ! 待っ……! 何で脱いでんのここで! 馬鹿じゃん!」


「は? 脱衣所なんてねえんだから、ここで脱ぐだろ」


「もおおおおお……」ペンギンが、鳥というよりは飛行機の羽に似た両の腕をバツの字にして目を覆っている。かわいくてずるい。かわいいな。すごいなこれ。何だこれ。このかわいいの何、すごい。


「う、うるさいよもおおお!」


「ああ? あーもう、心の声を聞くな。オフにできないのかそれ」


「わかんないよ! てか早く入ってよ! いつまで裸で突っ立ってんのよ!」


「うーるせえな。何だお前、メスですか」


「はーやく!」


「チッ」


 何が何だか分からねえ。昨夜、大残業から帰宅してみたらアパートの入口前で数人のギャルの塊が、アッキャ、アッキャ、うるさくしており、疲労の蓄積で黒光っちまってるこっちとしては、面倒くささを通り越して、ダルさの球と化した俺だった。すなわちストライクの俺だった。つまり歩調を緩めることなくギャルの塊に突っ込んで「じゃあああ!」と、邪魔ですよ、の意味合いの発声で、ギャル達を離散させることに成功して、した先に、そこにいたのがペンギンだった。ペンギンは無言で俺を見上げていた。胸を張って、俺を見つめていて、俺もペンギンを見つめていた。ペンギン、こっちへやってきた。ちょもちょも、ちょすちょす、てすてすてす。俺は桃っぽい気持ちになり、自然の流れでペンギンを抱きかかえて玄関に向かった。背後からギャルたちの雑草みたいにつまらない言葉がこちらへ飛んできているのに気付いてはいたが、なんのそのとは、南の園と書くのかもしれない、という気持ちで俺は部屋に入った。


 あんま見ない感じのペンギンだと、俺、思って調べたら『ヒゲペンギン』という種類であるという。顔面の輪郭を囲うように、黒い線が通っているのが特徴で、黒く塗りつぶされた頭とセットだと、何だか顎ひも付きのカツラを被っているようである。舞踏会で使う仮面のようにも見える。そんなペンギンを連れて、桃っぽい気持ちで南の園の住人だった俺はしかし、蓄積された疲労にひねり潰されたのか、眠ってしまったようだった。ヒゲペンギンを検索し、エアコンを付けたところから記憶がない。


 そして起きたら今だった。今というかさっき、なのだけれども。目を開けるとペンギン立っていて、目の前がすぐにかわいかった。胸を張っている。それ見ていると俺は、愛しさと切なさに心強さが欲しくなり、気がつけば「喋ってほしい」という内容の言葉をペンギンの脳天に直接コンタクトさせていた。それが何か、何だか中々やめられず、結果的にいじめている図になってはしまったが、俺なりの切実、その表れだったのだと思う。でもしかし、喋ったな。喋っていたな本当に。何だあれ。これは俺か? 俺が凄いのか? 実は俺、口から魔法が出る種族で、たまたまやり方がうまくあれしたあれか? あれ? あれ俺、さっきシャンプーした? 何だ? シャンプーは、した、か。本当? まあいいか、もう一度しようかシャンプー。ゲボだもん、入念に洗うに越したことはない。


「まだあ?」風呂の扉の磨りガラスの向こうにモザイク状に映るペンギン。すごいな、かわいい。レアだ、モザイクペンギン誕生だ。


「……はやくしてよね」


「ああ、まあ。あ、台所のシンク使って洗えばどうかお前。水道水で」


「届かないよ、シンクまで」モザイクペンギンが後ろを向いて言った。そのまま後ろ向いていろ。ガチャコン、ワッシ。


「え? わッ、ちょちょちょちょちょぐえええええ……!」


「飛べない鳥だもんな、可哀想にな」風呂場の扉を開け、後ろを向いたままのペンギンを左手で持ち上げてすぐ目の前のシンクに運ぶ。右手で水道の蛇口を捻る。確かにペンギンの頭に乾燥したねちょねちょが付いている。まだ磨いてなかったしな、歯。「よく洗ってくれ」


「……びっくりしたあ……どうも」


 ペンギンが自分で頭を洗っているのを三秒ほど見届けて、かわいさにぽわっとしながら風呂場に身を戻す俺なのだが、ああん、シャンプー。した? してない? 歯磨きはまだ。それは覚えている。だー。まあいい、こういうときは声に出すと、いいんだよね。「シャンプーしまーす!」


「え、あ、はーい」


 さあ大丈夫だ。これで安心だ。安心は大事。安心は宝。世界に安心屋さんが無いのが本当に不思議。シャワシャワッフル、シャワシャワ、シャワシャワンダー、フルフル。「シャンプーおわりましたー!」


「あ、はーい。よかったでーす。私も洗い終わりました。ねえ、タオルは?」


「あ、用意してねえ。そこに脱いであるティーシャツか半ズボンかパンツのどれかで拭いていただければ、なーんてな。パンツは冗談」


「全部嫌に決まってんでしょ」


「チッ」俺は風呂場で、手足というか、体の全部をじたばた振り振りさせて、自分に付着している水滴を落とす。見たことがあるんだよね、犬の動画で犬がやっていた。おい、ペンギン聞こえるか。後ろを向いていろよ、うるせえんだからお前は。タオルを持ってきてやるから後ろを向いていろよ。開けるからな、今、風呂の扉をあけるからな。


「聞こえてるから早くして」


 ガチャコン、扉を開けてタオル箪笥。引出し開けてタオルちゃん。うんざりだ。俺のこういう所もううんざりなんだよね。すぐ歌うな。パンツ履いてタオル持って自分とペンギンを拭く。早くしろ早く。分かってる分かってる早く早く早く。はいはいはいはいペンギーン?


「はーい。えらいじゃん、急にテキパキ」ペンギンはそう言うと、両腕を広げ、拭け、という体勢を取った。自分で拭けよとも思ったが俺は完全にテキパキモードなのでペンギンをタオルで包み、秒で本来のふっくら状態に仕上げる。


「たまに自分にうんざりするんだ。そして急にテキパキする俺はもう歯磨きを開始しているしもう磨き終わる」


「じゃあ、それ終わったら行くよ」


「ああ、テキパキ行こう。どこへ」


「ついて来てくれれば」


 まあ、今日は休みだ。かまわない。



 城だ。通称、城。俺たちが子供時代から皆そう呼んでいたドデカい民家。民家というか基地、いや、やはり城って感じの佇まい。懐かしい。そんなに遠くないとはいえ、この辺は久々に来た。

 何か、鳩尾みぞおちあたりがちゅんとする。「あの頃は順調もクソもなかった」


「え?」


「行き止まりだった。そこには虹があって……眺めていた。辿り着けなかった。わからなかった。俺は崖の淵に立っていて、虹は別の崖にかかっていた」


「手を伸ばしてはみたのかしら」


「分からない。ただ、虹は触れると消えてしまいそうな気もしたし、触れられたとして、それが正しいことなのかも分からなかった。とにかく、どうすることも思いつかなかったんだ」


「だから眺めた」


「そう、だから眺めた」


「どんな気持ちで?」


「どんな? 何かバット持って井戸に入りたくなってきた気持ち、何これ」


「知らない。それは知らないけど、大丈夫? 何かフラッシュバックしてたみたいだけど」とペンギンが俺の腕の中で言った。自分で歩けと思う。


「急いでるんだからしょうがないじゃん。ペンギンて歩きにくいの! で、大丈夫なのね?」


「ああ、別のペンギンのことを思い出していた。あの城みたいな家に住んでいた」


「ふうん。じゃ行こう」


「ああ。どこに」


「城に」


「あ?」


「時間が無い」とペンギンは言うと、手で城を指した。俺の腕の中で。自分で歩いッッッてえ! 嘴で乳首挟むな!


「急ぐの!」


 滲む青の空。飛翔するペリカンが一羽。


 

 さあ、厚さのせいだけではない汗を垂れ流しつつ、眼前に城の俺たちだ。デカい。まず入口が分からない。右乳首が痛い。


「こっち」とペンギン。もう、言われるがままの俺だった。


 ペンギンの指示した先には、しっかりと玄関ぽい扉が現れ、その上に『入口』というプレートが貼られていた。何が何だか分からねえの連続で、逆に分かるってことがどういうことなのかがもうあれだ。そして暑すぎる。クーラーついてるかな、城の中。てかこれ、入っていいの? 入れるの?


「入れる。来るよ」とペンギンが、頭上を指して言うので上を向く。と、巨大な掃除機のホースのような物体が迫り来て、俺、吸引された。


「吸引式エレベーター。びっくりした?」


「ぐうおおお玄関扉の意味ねえええ」


「扉からも入れるけど、吸引で入った方が早いからね。ほら着くよ、姿勢を丸くして」


 吸引の勢いのまま、城内に放り込まれる。と、壁や床全体がバルーンになっている部屋が待ち受けていて、しばらくぼよんぼよん弾かれるも無傷で入城。もう殆ど分かることを放棄した俺だったが「何故詳しいのかペンギンがここを」と聞いた。


「私ん家だから」ペンギンはそう言うと、俺の腕からぴょんと降りた。


「あ?」


「君が見てた、虹……」ペンギンが背中で手を組みながら歩く。


「ああ。あ?」


「私です」ペンギン立ち止まる。


「……」


「私、テキだよ。……テキなんだよ。何か、ペンギンだけど、テキなの。君は、ウラタくんでしょ?」


 ……


「……?」


 ……


「え、え? 死んだ? 全然喋らなくなったんですけど。死んだ?」


 ……


「死……」


 なんそらへなそらおまそらへらそへ。


「へ? うえー! 何それ! 心の中? 何それー!」


 はぬん、ふんるふうんむぬるふん……ぐう!


「えええ? あははは、わかんないー! えー! 中学のときもさあ、きっとそんな感じだったんだね。女子に喋りかけられない呪いでもかけられてんじゃないの、ってくらい自分から喋りかけてこなかったもんね」


 ふぬっぐ。


「あはは。……ねえ。給食でグレープフルーツくれたとき覚えてるんでしょ?」


 ぐみ。


「あのとき……あのとき初めて君から喋りかけてくれたんだよ」


 ぬ?


「覚えてないの? 私たち、隣の席でさ。本当ひと言だけ、君から『……いる?』って。グレープフルーツを私の方に向けてきて。私、カメッチからもうグレープフルーツもらってたから、まじでお腹いっぱいで正直無理だったんだけど」


 ぐふんぬ。


「でも私……嬉しかったから、全部食べたんだよ。初めて喋りかけてくれた記念を祝して、無理をしました、のです」


「……ごめんなさい。と、思います……」


「うわっ、うえー! あやまったー!」ペンギンが腹を抱えて笑った。


 そういえば昔から矢鱈に笑う女だった、女子だった。よく笑いすぎてゲボ出そうになっていた女子だった。


「あの頃は一回もゲボしてないよ。ギリギリのときはあったけど」


「うん」


「ふう。ごめん。手短に説明します」ペンギンがバルーンルームから出て、だだっ広いリビングのようなスペースに俺を通す。白い革のソファに座る。白いテーブルから二人分の麦茶だかアイスティーだかが自動にせり上がってきた。俺はそれを一気に飲み干す。


「私、死ぬの」


 喉を通ったものが、麦茶だかアイスティーだか分からなかった。ただ何かが通過した。


「二十三歳になる頃だったから、二年くらい前か。病気が見つかってね、もう治らないんだって。それで、ほらうち、父がアレな感じで……一応発明家だけど、家を城みたいにつくるようなアレな人でしょ? ……十年前に母を亡くしてて、次は娘の私がそんなことになっちゃって、それでいよいよ父のアレがさらにアレしちゃって、それで私が死んじゃう前に……精神をペンギンに移したの。精神をね、信号化させたの。映画の『CHAPPiE』観たことある? あの映画と同じような理屈で。人造なの。この体は殆どロボ。何故ペンギンかといえば、父曰く「お前はペンギンぽいから」だって。アレすぎんだろっつのよね。てか、私どんだけペンギンぽいのよ。で……逃げ出したの。父はアレだし、てか多分、さっき飛んでたペリカン、父だと思う。もうアレすぎるのよ。それで、私はペンギンで……わーッ! てなって。それで、そしたらね、そしたら君がいたの。君が私の前に現れたの。これは奇跡だと思うよ。本当に奇跡。で、あ、あと、私が君の心の声を読めるのは、昨日の夜、君の頭に読み取り用チップを埋め込ませてもらったからです。思考が電気信号で私に転送されるの。ゲボ、消毒液だったんだ。ごめんね、嘴でひと突きして頭に穴開けて脳にチップをずいっと埋め込ませてあるから暫くはお風呂というかお湯で洗わない方がいいかも。血い出るかもだからね。一応、君ん家に転がってたオロナイン軟膏塗ってあるけど、強く洗わないでね。今日もシャンプーしたとき大丈夫かなと心配したけど大丈夫でよかったです。そんな感じでね、今私ペンギンなの。それでね、あのね、あと、もとの肉体は私の部屋に安置保管されてて、寝てるんだけど。時間が無いの、多分。このペンギンの体の中なら故障しない限り生き続けられるんだけど。でも、私はちゃんと、私の体で君と話したいと思うの。思ったの。だから、お願いがあって」


「分かった」本当は何も分からない。何か聞き捨てならないことばかり言っていた気はするが。でも俺は、この世は不思議で溢れてるのを知っているから。なので、引き受ける。


「私の……ペンギンの頭の中にメモリチップがあるからそれを取り出して、もとの私の体に戻してほしいの。そうすれば会えるから」とペンギンがソファを下りて言う。「嘴を引っ張って」


 言われて嘴を引っ張ると、ヒゲペンギンの顔の模様に沿ってペンギンの顔面が、ズレた。箪笥のように引き出される。


「これ、このまま開けていいのか」模様に沿った隙間から強い光が漏れている。神秘。


「うん、開けて。光は普通のLEDです……父による演出だと思う」


 ペンギンの顔面箪笥を完全に引き出す。言われていた通りチップが挿れられた機器がセットされていて、それをLEDが照らしていた。


「チップ、抜くぞ」


 ペンギンが頷き、バルーンルームと対角線上にある扉を手で指した。


「あの部屋に?」と俺が言うとペンギンはまた小さく頷き、俺の右足に抱きつく。

 俺は。俺は、そっとチップを抜く。

 ペンギンが床に倒れる。「テキ」


 テキの眠る部屋の扉が、下から上へゆっくり開いて行く。部屋から、白い煙が大袈裟に立ち昇る。


 部屋に入ると、女性がカプセル型のベッドに横たわっていた。テキ。頭が数本のケーブルの付いたヘッドギアで覆われているが、テキで間違いなかった。ベッドの傍にチップの差し込み口を見つける。挿す。

 テキの頬が少し赤らむ。


「テキ。テキ」そう呼ぶと、テキの瞼の下で眼球が動くのが分かった。「名前も初めて呼んだかもしれないな」


「……ウラタ、くん……」テキ!


「テキ!」テキ!


「……間に、合った」とテキが目を覚まし、言った。言ったが、目の焦点が合っていない。肺が辛うじて動いている音。手を握ると弱々しく小刻みに震えている。どうしたらいい。


「バカ、なの……虹……掴めし……バカ。こっち来て、抱きしめたら……どうなの」


 バカバカ言うな。何だこれ。どうしたら。何も感じていないのか? 何も見えていないのか? どうもこうも……もう抱きしめている。


「……そう」とテキが微笑んだ。「うれしす」


「かわいい。なかなかのそのかわいさ。元気の足りなさをとても惜しく思わざるを得ない、ここにそんなかわいさがあります」


 テキが目を細め、何か……何か、何だこれ。かわいい。かわいいけど、何これ。動け。動かなくなった。無。何で。はは。何だ。無でもかわいい。聞こえているんだろう。おい。かわいいな。なあ、起きろ。さあ元気を出して。起きろよ。起きて、胸を張って。おうい。なあ。ちょもちょもてすてす。歩けよ。聞こえているのか。聞こえているんだろ。かわいいまま聞こえているんだろ。なあ。心の声といっても、本人目の前にかわいいの連呼は照れるんだよ。俺だって照れる。笑えるよな、笑えよ。ゲロだって吐いていい。また風呂で洗おう。なあ。聞こえていないのか。もう聞こえないのか。お前は、君は。君は、俺の。君は俺の、日々そのもの。今、追いついた。追いついたのにお前。お前。ありがとうございました。

 気づくとテキの額に口をつけていた。歯は磨いたから許してほしい。テキ。テキ。テキ。


「喋れ。喋れよ。お話をしよう。聞こえますか」


 俺は小一時間ほど唱え続けた。

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愛はすべてのとおり君でした 只鳴どれみ @doremi_t

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