六組の廊下

朝吹

六組の廊下


 職員玄関前の花壇には三色すみれが咲いていた。その高校に赴任した初日、職員室がやけに暗くひんやりとしていたことを覚えている。

「肌寒いですね」ぼくは身震いした。

「そうですか」

 新しくおろした採点ペンで試し書きをしている隣席の女教師が首をひねった。職員室の窓から見える朝の校庭では教師がトンボをかけていた。


 部活の担当はサッカー部になった。

「先生、巧いじゃないですか」

 ドリブルシュートを決めて、先任教師に褒められた。高校でサッカー部に入部してくる新入生は全員が経験者だが、たまに運動神経のいいのが友だちに誘われて入部してくる。

「若い先生が来てくれて助かりました」

 先任の担当は校庭でトンボをかけていた先生だ。

「年をとると体力が落ちて息切れがします。新入生はぼくが見ますから、先生が上級生を鍛えてやってくれませんか」

 そんなことを云いながらも、先任の教師は足先でボールを蹴り上げ、弾丸シュートを決めていた。


 春の夕暮れは煙りの匂いがする。

 何故だろう、昔からぼくはそう想うのだ。煙ったい何かが空気に棚引いている。無色透明のニスを刷いたような実体のない何か。ちょうど今、ぼくが背後に感じている視線のように。

 職員室に隣接している印刷室で作業をしていたぼくは、プリントを抱えて印刷室を出た。

「あ、アッシャー」

「暗くなる前に帰りなさい」

 ぼくは生徒から苗字をもじってアッシャーと呼ばれている。何処の学校にも気さくでさっぱりした気性の女性徒がいるものだ。そんな子は教師に綽名をつけるのも早いし、友だちのように接してくる。

「先生、送っていってよ」

「先生はまだ仕事があるから駄目」

「仕事がなかったら送ってくれるんだ」

「それもないです。さようなら」

 女性徒を昇降口から追い出した。禁止されている透明ネイルを爪につけているのに気付いたが不問にしておいた。

 雑巾臭い放課後の校舎。昇降口近くの天井には雨漏りのしみがあった。


 翌朝、廊下の天井を見上げているぼくの隣りに登校した女性徒がやってきた。おはようアッシャー、あの雨漏りが人の影にみえるんでしょ。

 確かにそう見えるのだ。でも此処は一階だから雨水とは考えられない。

 顔にあたる部分の真下から女性徒は振り返った。

「京都の血天井って知ってる先生。切腹した武士が絶命するまで血だらけで苦しんだ痕が遺ってるの」

「その床をお寺の天井にして供養してるんだろ。知ってるよ」

 本当に当時の血なのかどうかの真偽は怪しいようだが、無念が滲み込むようにして、苦悶している顔にしか見えない褐色の血痕も確かにあるのだ。

「これ一つだけじゃないのよ、人影は」

 制服のスカートの裾を揺らして女性徒は二階への階段を駈け上がっていった。


 宵闇に細長い雲が幾つも流れている。

 アッシャー。

 女性徒がぼくの後ろにきた。まだ校舎にいたのか。いつもこんな遅い時刻までこの子は学校の中で何をやっているのだろう。

「ほかの人影は見つかった? アッシャー」

 あれから校舎の天井を調べてみると、他にも幾つかあった。男女の区別は不明だが、一階のいちばん奥の六組の前だ。ごちゃごちゃと折り重なっている。ふしぎなことに重なっているわりには、一つ一つの人影が分かるのだ。

「あれは拭いても取れないんですか」

「どの汚れですか?」

 一年六組の前の廊下に佇み天井を見上げているぼくの問いに、女教師はやはり首を傾げていた。


 小テストの採点を放課後の教室でやることにして、ぼくは受け持ちのクラスのある二階に行った。

 夕陽の差し込む机の上に小瓶があった。透明な赤のネイルだ。女性徒の顔を想い浮べながらネイルを抽斗にしまう。机に置いた小テストに向き直ると、紙束の上に滲みが出来ていた。天井を見上げた。上は三階の教室だ。額を触ってみたが汗もかいていない。水よりももっと濃い液体にみえた。

「先生、どうしたの」

 窓枠には何代前かの生徒が彫った井形の大きな傷があった。これを使って○×ゲームでもしていたのだろう。視線を感じて振り返ると女性徒が立っていた。ぼくは窓枠に手をかけて二階の窓から下を見下ろしているところだった。真下の教室は一年六組だ。

「わたしのネイルを知らない、アッシャー」

「校則で禁止。没収」

「せっかく、おしゃれしたのに」

 女性徒はひらひらとネイルの塗られた爪をぼくの前で泳がせた。この女性徒は何年生で何組だっけ。ここは二年六組だ。明日もまだネイルを塗ったままなら、担任から注意してもらうことにしよう。

 がたんと音がする。ふっと眼の前が暗くなる。

「ほかの人影は見つかった? アッシャー」

 ぼくと女性徒は廊下に出た。

「結構はっきり見える滲みもあったでしょ」

 侵入者に刺された生徒は助けを求めて廊下にまろび出て次々と倒れた。君はもう少し先まで逃げたんだね。ちょうど真下が昇降口のあたりだ。

「あなたはもう放校されたんだ。警察を呼ぶぞ」

 サッカー部の顧問が大声を上げてぼくを追いかけてくる。ぼくは彼を階段から突き落とす。階段を駈け上がり突き当りの教室に突き進む。窓枠に井形の傷がある。ぼくを見た女性徒が叫ぶ。付きまとわないでよ。みんな逃げなさいと叫んだのは女教師だ。女性徒の襟首を掴むまでに三、四人刺した。出刃包丁で女教師も刺した。他にも何人か刺したはずだ。

 何故逃げるんだなぜ電話に出ないんだ親まで出してきて警察にまで通報してお前のせいでぼくの人生は台無しだお前から誘惑してきたくせに話し合いがしたいだけなのになぜ。

 閉鎖され、草が茫々に生えている校舎の廃墟。

 一階の廊下の天井のしみは二階の遺体の血が滲み出したものだ。女教師が「新しいペン、新しいペン」と呟きながら廊下を通り過ぎる。生徒が廊下に座って喋っている。彼らがぼくを見る。

 はやく朝になって欲しい。しかし今は夜ではない。放課後なのだ。今から暗い夜になるのである。執行室の踏み板が開いて首が絞まる。そして学校は真っ暗になる。夜が終わる。朝陽が昇れば、また赴任するところから始まるのだ。

 廊下を這ってきた手がぼくの足首を掴む。その爪はネイルに染まっている。

 


[了]

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