第2話 温泉、旅館、夜のこと
ゆっくりと時間をかけて、最後のお茶漬けまで私たちは松山鯛めし御膳を余すところなく味わう。胃も心も満たされてから、私たちは店を出ると再び伊予鉄道に乗った。
道後温泉駅に戻ってきても、旅館のチェックイン時間までにはまだ少しあったので、私たちは少し道後温泉の街を散策することにした。
道後ハイカラ通りと呼ばれるアーケード街には、グルメやお土産などを販売する店が多く軒を連ねていて、一軒一軒ごとに目移りしそうになる。多くの店に観光客が訪れていて、通りは大いに賑わっている。
でも、お土産はともかく鯛めし御膳をいただいたばかりの私たちは、まださほどお腹は空いていなかった。それに少し遅い昼食だったから、ここで何かを食べたら、せっかくの旅館の料理が胃に入らなくなってしまう可能性もある。
だから、私たちはあちこちに目移りしながらも、まっすぐ通りを進んだ。
目指す先は言うまでもない。温泉だ。
L字型の通りを右に曲がった瞬間、私たちは目が覚めるような鮮やかな光景を捉える。通りを行った先に、ちぎり絵を模したカラフルなアートが見えたのだ。
それは保存修理工事中の道後温泉本館を覆うテント膜に描かれたもので、近づくほどに私はその規模の大きさと、ビビッドな色遣いに目を奪われる。
お母さんが三度「一緒に写真撮ろうよ」と言っていたけれど、それも無理ないだろう。道後温泉本館の保存修理工事はもう七月には完了するとの話だ。そうなればこのテント膜は撤去されてしまう。いわば今しか見ることができない光景だ。
自撮り棒を使って写真を撮る私たち。タイミングの良さに、私は内心で感謝した。
テント膜に描かれたアートをじっくり眺めてから、私たちは道後温泉本館に入浴する。
そういきたかったのだが、土曜で書き入れ時の今日は、本館は男女ともに満員で、入浴できるには一時間以上かかるようだった。
どうせなら、ゆっくりと温泉を味わいたい。でも、そうなるとチェックイン時間に遅れてしまう可能性が出てくる。
どうするか二人で少し話して、私たちは来た道を引き返すことにした。道後温泉には他にも二つの浴場がある。泉質は変わらないから、どちらかで入浴できればいいだろう。
通りを曲がらず真っすぐ進むと二つ目、そして三つ目の浴場はすぐに現れた。道後温泉椿の湯と、道後温泉別館飛鳥乃湯泉だ。昔ながらの銭湯の雰囲気がある椿の湯もいいけれど、私たちはその隣の飛鳥乃湯泉を選ぶ。
何かのアニメに出てきそうな格調高い建物よりも、私の目を引いたのは中庭の光景だった。何百もの花の写真が、地面いっぱいに敷き詰められていたのだ。
原色や極彩色など強い色を惜しげもなく使ったこのアートは、写真家と映画監督の顔を持つ有名な女性アーティストが手がけたものだ。正面の壁にも鮮やかな花の写真が貼られていて、若干目がちかちかしてしまう。夜になったらここには提灯が灯されて、さらに幻想的な雰囲気になるらしい。
大胆なその光景は、少し前の私だったら「映える!」と思って、すぐにスマートフォンを構えていたことだろう。
でも、私が撮った写真は一応思い出のためという域を出ていなかった。このアートのように、鮮明で力強い気持ちには、私は未だになれない。
お母さんと一緒に写真を撮るときには、どうにか笑顔を作ったものの、心から笑えていると言えるかは、私にはあまり自信がなかった。
中に入って券売機で入浴券と貸しタオルの料金を支払い、私たちは飛鳥乃湯泉に足を踏み入れる。有名書家が書いた、大きな書の彫刻が飾られたエントランスを進んで、私たちは女湯の暖簾をくぐった。
お母さんと一緒にお風呂に入るなんて、いったい何年ぶりだろう。私たちに銭湯や温泉に行く趣味はあまりなかったので、きっと遠い昔のことだ。
何年、いや何十年かもしれないぶりに見たお母さんの身体は、記憶していたよりもお腹がたるんでいた。太っているというわけではないけれど、お腹についた贅肉に少しおかしみを感じる。
でも、肌は年齢を重ねた分きめの細かさみたいなものは失われていて、かわりにぽつぽつと小さな皺が寄っている。
私は切なくなって、ものすごく久しぶりに見る実の親の裸は、どう感じればいいのか一言でまとめることはできなかった。
大浴場にはやはり大勢の人がいた。地元住民も観光客も、こうして裸になってしまえばまるで見分けがつかない。文字通りの裸の付き合いだなと思いながら、私たちは湯船に入る前にまず身体を洗った。お母さんは私よりも入念に身体を洗っていて、親子と言えども性格の違いを私に思わせる。
私たちはお母さんが身体を洗い終わるのを待ってから、一緒に湯船に入った。少し熱いくらいのお湯にはかすかなぬめりがある。詳しいことは知らないけれど、アルカリ性の泉質だからか、滑らかな肌触りだ。
一〇〇パーセント源泉かけ流しのお湯に浸かると、私の中から緩やかに力が抜けていく。強張っていた心が、ゆっくりと解きほぐされるかのようだ。
お母さんも、大きく一つ息を吐いていて気持ちよさそうだ。もくもくと上がる湯気が、ゆらゆらと揺らめいている。
「ねぇ、愛花。この絵って何を描いてるか知ってる?」
お母さんの視線の先には、壁一面に書かれている絵があった。砥部焼と呼ばれる、愛媛の伝統工芸である陶器で作られた作品だ。二羽の鳥が立つ原っぱの向こうに広がる海、そしてさらにその向こうに広がる島々。
それが意味するところは、私もあらかじめ道後温泉のホームページに目を通しているから、うっすら知っている。
でも、私はお母さんとの話を弾ませるために、首を小さく横に振って、何も知らないふりをした。
「これはね、万葉集に収められた
お母さんの表情は少し得意げで、娘にうんちくを披露することに優越感を覚えているようだった。私は「そうなの?」と相槌を打って話を繋ぐ。お母さんが、私たち二人だけに届くような声で続ける。
「うん。『
「そうだね」と私は頷く。言葉は少なかったけれど、気持ちは同じだ。千何百年も昔から続いてきた温泉に浸かっているのはなんだか不思議な感じで、お母さんの話を聞いていると、有り体な言い方だが歴史のロマンを感じる。
表情に表れているかどうかは分からないけれど、私の身体はちゃんと温泉を満喫していた。
「この温泉は日本神話にも登場するみたいだし、聖徳太子が訪れたっていう伝承もあるんだってね。なんかこうして入ってるだけで、歴史の深さを感じるよ」
「うん、本当いいお湯だよね。あったまる」
私としてはしみじみと言ったつもりだった。
でも、お母さんが私の顔を覗き込んできて、少しぎょっとしてしまう。その目は、私をほんのわずかでも疑っているようだった。
「えっ、どうしたの?」
「いや、愛花なんかつまんなそうにしてるから、もしかして私の話、退屈なのかなって」
「いやいや、そんなことないよ。お母さんの話は面白いし、楽しいよ」
私がそう言ってもなお、お母さんは私から目を離してはいなかった。もしかしたら私が思ってもいないことを言っていると感じているのかもしれない。
そして、それは残念ながら、ある意味では当たっていた。別にお母さんの話が退屈なのではない。
確かにホームページに書かれていることだったけれど、それをうまく受け入れられないのは、間違いなく私のせいだ。私の心がこの場においてもなお、モヤモヤしたものを抱えているからだ。
きっとお母さんも、そのことには薄々感づいているのだろう。私を見つめる双眸に、何と言えばいいのか分からない。
でも、そのときタイミングよく、壁画の前の照明が少し暗くなった。画面には様々な模様や光景が、スクリーンに投影されているかのように映し出される。飛鳥乃湯泉名物のプロジェクションマッピングだ。
私が「ほら、お母さん見て」と壁に向かって言うと、お母さんも私から目を逸らして、そちらの方を向いた。湯船に浸かっている全員の視線が一つの場所に注がれている雰囲気に、私は「助かった」と思ってしまう。
でも、それはせっかく話をしてくれているお母さんにとても申し訳なく、また恥ずべきことだった。
内湯だけでなく、道後温泉本館にはない露天風呂にもじっくり浸かってから、私たちはお風呂から上がった。
このまま二階にある大広間の休憩室で休むこともできたが、そこに入るのにもまた料金は必要で、何より旅館のチェックインの時間が迫っている。
だから、私たちはロビーで牛乳を買って飲むという温泉地っぽいことをしてから、飛鳥乃湯泉を後にした。館内を出る頃には私の身体はすっかり暖まっていて、夕方の涼しい風が心地よかった。
通りを抜けて、旅館に戻ったときにはチェックイン時間ちょうどになっていた。改めてフロントでチェックインの手続きを済ませた私たちは、数時間ぶりにキャリーバッグと部屋の鍵を受け取って、客室がある四階へと向かう。
エレベーターから降りると、私たちの客室はすぐそばにあった。鍵を開けて中に入る。
すると、そこに広がっていたのは、畳が敷かれた一〇畳の広い和室だった。まさしく「旅館」というような客室は、ほのかに立ち昇ってくるイグサの匂いが心を落ち着ける。フローリングの部屋にすっかり慣れてしまった私には、懐かしさと新鮮さを同時に感じる場所だ。
荷物を置いたお母さんが、さっそく座布団の上に腰を下ろしている。私ももう一つある椅子に腰かけて大きく息を吐いた。温泉に入ってゆっくりしても、旅の疲れはまだ私の中からは抜けきっていなかった。
それから私たちは窓から見える広い日本庭園を綺麗だねと言って眺めたり、地方色溢れる夕方のテレビ番組をなんとなく見たり、今日訪れた場所の印象を改めて語り合ったりと、落ち着いた時間を過ごす。
すると、気づいたときには時刻は夜の七時を回っていた。一言声をかけて入ってきた仲居さんに、私たちはテーブルに向かい合って座る。お待ちかねの夕食の時間だ。
先付、お造り、焚合。料理は次々とタイミングよく運ばれてきて、私たちは舌鼓を打つ。
鯛のお刺身は新鮮で脂が乗っていたし、小魚の煮付けは優しく心に染みるような味わいだ。冷やししゃぶしゃぶは引き締まった肉の旨味が感じられたし、鮎の唐揚げは塩加減が程よい。昼食に続いての鯛めしもまた違った味わいがあって、箸が進む。
昼食を食べる時間が遅かったから少し大丈夫かなと思ったけれど、道後温泉を歩いたおかげか、しっかりお腹は空いていて、次から次へと運ばれてくる料理を苦労なく受けつける。お母さんも全ての料理に美味しいねと言っていて、満足げだ。私もめったに食べられない旅館の料理が食べられることは、単純に喜ばしい。
私たちは二人ともお酒が苦手で烏龍茶を飲んでいたけれど、そんなことも気にならなくなるほど、私たちは和やかな食事の時間を享受できていた。
夕食を食べた私たちは、せっかくだからとこの旅館にある温泉に向かっていた。この旅館には檜風呂と御影石の風呂の二種類の浴場があり、朝夕で男女を入れ替えるから、宿泊すれば両方入ることができる。
私たちがまず入ったのは、檜風呂の方だった。檜の香りみたいなものが浴場に充満していて、贅沢さを感じる。心なしか、ただ入るよりも身体の芯まで温まっていくかのようだ。
お母さんもとろけたような表情をしている。やはり温泉というのは、一日に何回でも入っていいのだ。
私たちが自分たちの部屋に戻ると、畳には布団が敷かれていた。真っ白な布団が、二つ並べられるようにして置かれている。少しこそばゆいような距離感だ。
夕食も食べて、再びお風呂にも入って。でも、時刻はまだ夜の一〇時になったくらいだったから、私はまださほど眠くはなかった。広縁(旅館特有のあのスペースだ)に行って、椅子に腰を下ろす。
窓の外には庭園がライトアップされていて、青々とした木々や葉が暖かな光に照らされている様子は、幻想的という言葉を私に思い起こさせた。
「愛花、まだ寝ないの?」
居間からお母さんが訊いてくる。ここに来るまでに何度もあくびをしていたから、きっともう眠いのだろう。
「うん、まだ大丈夫」と応えると、お母さんは広縁にやってきて、テーブルを挟むようにして私の前に座った。「ねぇ、ちょっと話せる?」と言われれば、私は頷かざるを得ない。
「今日楽しかったよね。空港から始まって、松山城も飛鳥乃湯泉も。普段の暮らしじゃなかなかできない経験ができて、はるばるやってきた甲斐があったって思ったよ」
お母さんはしみじみと語っていた。心の底からの本音みたいに。
私も「そうだね」と応える。私だって表情に表れていたかどうかは置いといて、ちゃんと楽しさは感じていた。
「ご飯も美味しかったよね。昼の鯛めしは身がホクホクしてたし、さっきの夕食も、味も量も文句なしの内容だった。旅の醍醐味を味わえてるって感じがしたよ」
「そうだね。私もお母さんにそう思ってもらえて嬉しいよ」
「……ねぇ、愛花」お母さんが少し改まったような態度を見せる。私は小さく息を呑む。もはや顔が笑えていないことは、はっきりと自覚できていた。
「大丈夫なの?」
私の心を覗きこむかのように、お母さんは訊いてくる。その言葉に心当たりはあったが、お母さんに心配するような表情をさせてしまっているのは、私としてもまったく本意ではなかった。
「大丈夫? ってどういうこと?」
「いや、愛花。今日ちょっと元気ないように見えたから。もしかして私に付き合うのが気が進まないの? 母の日だから、私に良いことしなきゃってちょっと無理してない?」
「いやいや、そんなことはまったくないよ。道後温泉は私も前々から行きたかったとこだし。お母さんに付き合ってるのが嫌とか、そんなことはまったくありえないよ。まあもしかしたら今日飛行機で朝早かったから、その影響かもね。ほら、私って昔から朝あまり得意じゃなかったじゃん」
一息にまくし立てるように言う私は、言い訳を並べているかのようだった。本当にお母さんと一緒にいることは嫌でも何でもないのに、そのことがうまく伝わっていない実感がある。
現に、お母さんはかすかに眉をひそめていた。
「ねぇ、愛花。やっぱりまだあのこと、気にしてるの?」
「……あのことって?」
「それは言わなくても分かるでしょ。愛花自身のことなんだから」
「そうだね」私は少し俯きかける。お母さんが口にした「あのこと」が、私には明確な言葉にされなくてもはっきりと分かっていた。
「電話でも言ったけど、愛花は何も悪くないんだからね。全ては相手の人の勝手な行動が原因なんでしょ。愛花が自分を責めて、気に病むことなんてないんだよ」
お母さんはいつだって私の味方だ。言っていることも正しく聴こえる。
私は先月、付き合い始めてから三年、結婚してからは一年になる相手と離婚した。彼の浮気が理由だ。
もちろん非があるのは彼の方だが、それでも私は自分にも何か原因があったように思えてならない。彼が浮気に走ったのは、私との生活に満足していなかったから。そんな風に思えてしまう。
「……ねぇ、お母さん」
「何?」
「お母さんはどうだったの?」
「どうだったのって?」
「お父さんがいなくなったとき、どう思った?」
そう私が訊くと、お母さんは少し表情を曇らせていた。こんな風に訊いたことは、今まででもほとんどなかった。訊かないほうがよかったかもしれないと思いながら、それでも私は訊かずにはいられなかった。
私のお父さんは、私が二歳のときにいなくなっている。いわゆる蒸発だ。まだ幼かったから、私にはお父さんとの記憶はほとんどない。
お母さんはそれから一人で私を育て上げ、大学まで行かせてくれた。その苦労は、察するに余りある。
「そうだね……。まずはなんでなんだろうって思ったよ。自分に起こったことが現実とは思えなくて。すぐに受け入れることは、できるはずもなかった」
お母さんがぽつぽつと語り始める。遠い目は私じゃなくて、窓の外の光景に向けられているようだった。
「お父さんがいなくなってからしばらくは自分を責めたよ。自分に何か至らないところがあったんじゃないかって。お父さんが私に何か不満を抱いていたんじゃないかって。私だって全部を全部。いなくなった人のせいにはできなかったからね」
「そうだったんだ。じゃあ、今の私と似たようなもんだね」
「うん。そう考えると簡単に、自分を責めないでなんて言っちゃいけなかったね。ごめんね。配慮のないこと言っちゃって」
「ううん、全然いいよ」その言葉に、今度は噓偽りはなかった。お母さんが私のためを思って言ってくれているのは分かっていたからだ。
でも、それができたら苦労しないとも、私は心の片隅で思ってしまう。全部を彼のせいにできるほど、私はまだ彼を嫌いになりきれていなかった。
「でも、私がそこで踏ん張れたのは、自分を責めることをやめられたのは、やっぱり愛花のおかげなんだよ」
「私?」
「そう。愛花がいることで覚悟を決められたというか。この子を育てられるのは、守れるのは私しかいないって思ったんだ。自分じゃない大切な存在が計り知れない力をくれるってこと、人生には往々にしてあるから」
きっとお母さんは本心で言っているのだろう。その感覚は私も彼と結婚したときに感じていたから、身に覚えがある。
だけれど、その感覚が自分からはもう失われてしまったことに、私はまた改めて落ちこむ。今の私には大切な存在は、それこそ今一緒にいるお母さんくらいしかいない。
「……うん。でも、今の私にはそんな大切な人は全然いないよ……。自分一人の力で生きていくしかないって、今は思えちゃってるから……」
「大丈夫。愛花にも、きっとまた大切な人ができるよ。いつになるかまではお母さんには分からないけれど、でも必ずまた大切にしたいって人が、愛花の前には現れるから」
「……本当?」
「本当本当。だって、愛花は私の大切なたった一人の娘なんだから。だから、もっと自分に自信を持ってもいいと思うよ。自分なんかって思わなくてもいい。私が保証するよ」
お母さんの言葉には、冷静に考えれば根拠は一つもなかった。お母さんが保証するからなんだという話だ。現実は甘くない。
そう頭では分かっていても、私の心は何かに縋りつきたい気分だったから、素直に首を縦に振っていた。私が親元を離れるまで一番近くでずっと見てきたお母さんの言うことだ。もしかしたら信じていいのかもしれないと思う。
誰かが私を否定しても、せめて私だけは私を否定しなくてもいいような気がした。
「うん、ありがと。そう言ってもらえるとちょっと元気出てきた」その言葉は多分に虚勢も含んでいたけれど、実際に口にしてみると、確かにほんの少しだけれど元気が湧いてくる感覚がする。
お母さんがにこりと笑う。私を大いに勇気づける笑みだ。
「そうだね。旅行先でまで沈んだ顔をしてたら、せっかくの旅行がもったいないもんね。明日も道後温泉巡りや、坂の上の雲ミュージアムとか、行きたいとこいっぱいあるもんね。明日も愛花と一緒に旅行ができること、私とても楽しみにしてるから」
先ほどまでとは打って変わって声を弾ませたお母さんに、私も頷いた。明日も今日入れなかった道後温泉本館をはじめ、行きたいところが目白押しだ。いつまでも沈んでいるわけにはいかないだろう。
頑張って元気を出さなくても、お母さんといれば、私はいくらか自然体でいられる。それだけは間違いなかった。
「お母さん、ありがとね。私と一緒に旅行に来てくれて」
「うん。こっちこそありがと。愛花と旅行ができて、ここまで頑張ってきてよかったって思うよ」
私たちは微笑み合った。今までだったらぎこちなさが自分でも分かっていたが、このときだけは私は心から笑うことができていて、それはお母さんがそばにいてくれるからに他ならなかった。
その日、私は何の夢も見なかった。今までは彼と過ごした日々や別れた日のことを夢に見ることも少なくなかったけれど、その日の私は脳がスイッチを切ったかのように熟睡し続けた。
だから、窓から差し込んでくる朝の日差しを浴びて目を覚ましたとき、私は清々しい気分だった。たとえ朝の六時というかなり早い時間帯であっても、寝不足な感じは全然しない。
ここまでぐっすりと眠ることができたのは、本当に久しぶりのことだった。
「あっ、愛花起きた」
そう声がしたのは、広縁の方からだった。見てみると、お母さんが既に起きて椅子に座っていた。差しこんでくる朝日に照らされてにっこりと笑う姿は、まるで後光が差しているかのようでさえある。
「うん、お母さん。おはよう」
「おはよう。ねぇ、愛花。朝風呂行こうよ。きっと今ならまだ空いてるよ」
私が目を覚ましてから、一分もしないうちに口にするお母さん。いきなりすぎないかと、私は小さく笑って起き上がる。「うん、行こう」と口にすることに、迷いはいらなかった。
お母さんがより顔を緩める。その表情に私は今日が昨日よりもいい日になること、そして楽しいままでこの旅行が終わることを、信じて疑わなかった。
(完)
Our Mother's Day これ@12/1文学フリマ東京39い―46 @Ritalin203
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