音楽。

「HONEST」さんの答えは意外すぎて、用意していた質問が全部ふっとんだ。

 アタマ悪いなりに考えてる。「HONEST」さんと「COGITO」さんが、普通のサラリーマンでも学生でも、私より毎日を一生懸命に生きている人なら、アドバイスくらいくれるかもしれないと思った。

「リアルのことはきかない方がいいですよ>うらら」

「なんでよ」

「自分が根掘り葉掘りきかれたら不愉快でしょう」

「COGITO」さんが「ささやき」で私をつつく。やっぱうるさい人だなあ。「HONEST」さんがどう考えてるかなんてわからないじゃん。

「迷惑なこときいちゃった?」

「いえ」

 私は「ささやき」を「HONEST」さんに送る。答えに小さな間があった。「COGITO」さんが正しいんだろうか。追い打ちのように「ささやき」が続く。

「あまり信じない方がいいですよ>うらら」

「嘘をついてても確かめる方法はありません」

 始めから「HONEST」さんのこと信じてないの?

 それって、私のことも信じてないってことだよね?

「じゃあ、私はコギトさんのことを信じないことにするから」

「COGITO」さんはまだ「ささやき」を送ってきたけど、私はそれを視界から追い出す。

「音楽やってるの? 好きなことが仕事になったってこと? いいなあ」

「どうやったら好きなことを仕事にできるの?」

「私にもよくわからないんです>うららさん」

 考えながら答えているのか、いつもとちがって「HONEST」さんの言葉は速くなったり遅くなったりだ。

「あきらめないでがんばったから好きなことやれてるんじゃないの?」

「諦めが悪いのはそうかもしれませんが」

「意地になってしがみついてただけかも>うららさん」

 顔は見えないけど、きっと「HONEST」さんは苦笑いしてる気がする。

 私はこれ以上言葉をねだれなかった。


 自分の性格の悪さが嫌になった。

「HONEST」が真実を語っているかどうかなんて問題じゃない。「うらら」は素直に耳を傾け、僕は頭から嘘だと決めつけた。信じられないなら信じられないでもいい。どうして僕は「うらら」にそれを強要しようとしたんだろう。

 あの後、「うらら」が最初にチャットルームから抜けた。「ささやき」で話していたから、僕の嫌な発言は「HONEST」には聞かれていないはずだけど、一方的に気まずかった。

「おやすみなさい>COGITOさん」

 僕の葛藤なんてどこ吹く風で、「HONEST」も去っていった。いつものように。

 しばらく「錻力の太鼓」を聴いていた。本当に音楽関係者なのかはともかく、「HONEST」の提案は悪くなかった。三日後、いつもより家を早く出て、タワーレコードに寄った。モノクロのジャケットの中で、ぎこちない手つきの中性的な眼鏡の青年が茶碗と箸を構えている。上の方に「JAPAN TIN DRUM」と飾り気のない文字で記されていた。

 夜中にミニコンポにCDを入れる。錆びた声が僕の胸に響く。わずかな光で歌詞カードを読む。

「ゴウスツ」という曲の一節が目に留まった。

「But the rain it never stops

And I've no particular place to go」

(雨はいつまでもやまず

 僕には特に行くあてもない)

 ひとりぼっちでずっとその一曲を聴き続けた。自己憐憫なんて弱いやつの逃げ場所でしかないと思ってたのに。

 目頭が熱い。

 なんて。

 なんてひどい曲なんだろう。

 僕の頭の中を様々な幻影が駆けめぐる。圓くんの笑顔。繰りかえされる動画にしかいない「ソウ」。「HONEST」の「こんばんは>ALL」というあいさつ。「うらら」が残したスマイルマーク。

「ゴウスツ」の物悲しい旋律の中に、思い出のかけらが浮かんでは消える。そこに僕は存在していない。

 僕には特に行くあてもない。


 三枚目のアルバムは「フローラ」。花と春の女神の名前を頂いたこのアルバムの発売記念ライブは開かれることはなかった。だから、僕が語ってきた「ソウ」の記憶は、その前の年のイベントでおしまいだ。

「うらら」さんも「COGITO」さんも、うすうす予感しているだろう。「ソウ」の思い出を辿る旅は、いずれは終わる。

共演ツーマンの相手が思いっきりインダストリアルな感じで。トリムールティのファンは『アキ』っぽいって喜んでました」

「インダストリアルって?」

「鉄板叩いたり、チェーンソー振り回したりして」

「ノイズを多用する音楽です」

 ノイバウテンとか聴いてもらえれば早いんだけど、騒音と紙一重って感じる人もいるから薦めにくい。

曲目セトリは?>HONEST」

「『フローラ』から先行して二三曲。あとは『スワン・ソング』と『エレクトロ・ロマンチカ』からまんべんなく。アンコールで『ミラージュ』をやりました」

 それが「ソウ」がライブで演奏した最後の曲になった。

 僕が宣告しなくても、二人ともわかっていた。チャットルームの空気がわだかまっている。

「SOWが機材を片づけていて」

「しばらくフロアに残っていたので」

「買った先行シングルにサインをもらいました」

 沈黙がこわくて矢継ぎ早にタイプする。「うらら」さんも「COGITO」さんも黙っている。ここから先の物語はない。

「ソウ」の音楽を聴き続けるかぎり、彼は消えないのかもしれない。同時に僕らの悲しみも癒えずに残る。いつかは喪失の痛手も優しいかさぶたになって、笑いあえる時が来る。信じているけれど。

 なんとか他愛ない話をしたような気がする。「おやすみなさい>ALL」に行き着くまで、何をどうしゃべったか覚えていない。

 音の中でいつでも会える。だけど、もう「ソウ」はステージにあがることはない。

 別れの告げ方はそれぞれだ。僕が決めることじゃない。

 でも、僕はひとりでも彼の喪失と向き合いたいんだ。


 ハタノさんに連絡するのは最終手段だ。

 今よりとがっててどうしようもなかった頃、終演後いらいらしながらシールドケーブルを乱暴にひっこぬいていた僕に、彼は声をかけてくれた。

「プロフェット・ファイブ」

 澄んだまなざしは僕を通りこして、ダークブラウンのボディに注がれていた。

「YMOのファン?」

「YMOも聴きますけど」

 普通プロフェット・ファイブを愛用しているっていったら、坂本龍一を連想するだろう。いつまでも不機嫌な僕にも、ハタノさんは飄々と笑ってた。

「なんとなくだけど。ソウに似てる。ベタな四つ打ちでも聴かせられるところとか」

 褒められたんだろうか。「どうも」と適当に答えた僕に銀色の名刺を渡して、ハタノさんはまた笑った。

「音楽のできる人を探してて」

 そんなの、このハコの中にうじゃうじゃしてるじゃないか。みんな「自称」かもしれないけど。僕も含めて。

「よかったら連絡ください」

 その後、どうして彼を訪ねようと思ったのかは覚えていない。確かなのは、五年ほど前の僕の面の皮はとても厚かったということくらいだ。以来、ハタノさんは僕にちょくちょく仕事を回してくれている。

 初対面のときの失敗を引きずっているのか、ハタノさんとはつかず離れずのお付き合いだ。

「頼みごとなんて珍しいですね」

「電話ですみません。直接お話ししたかったんですが」

「構いませんよ。それで私はどうすればいいんですか」

「調べてほしいことがあって」

 僕は手短に頼みごとを告げた。

「見込みは薄いかもしれませんが、探してはみます」

「お願いします」

「頼みごとっていうから、お金の無心かと思いました」

「あ、その手があった」

「お金、要ったんですか?」

「実はミュージック・イーゼルを買いそこねて」

「相変わらず機材マニアですね」

 耳に残るバスバリトンが、朗らかに笑っていた。


 いつもこうだ。私は自分で自分を決められない。

「どうせだらだらしてるんだから」

「勉強しすぎても悪いことはないから」

 お父さんとお母さんは納得できない理由を並べた。ただイヤだからっていうのはダメなんだろうか。どうやってもうまく説明ができない。言い負けて、塾の夏期講座に通うことになった。

 スマホのカメラで世界をのぞく。きゅうくつなフレームの内側に人も建物もいっぺんに詰めこまれる。

 ゆっくりシャッターを切る。画像は簡単に消せる。でも、私のタイミングはのんびりしている。たくさん時間をとって、大切に一枚一枚を撮る。構図のなかにはきれいなものもそうでないものも、ごちゃまぜになっている。何を自分の世界に残すかは大事なのは知ってる。それと同じくらい、何を捨てるかも大事なんだ。

 そうやって一生懸命より分けても、夏の盛りをすぎた街は、とてもくたびれていてうつろだ。風に雨のにおいがする。台風が近づいてるのかも。早く塾にたどりつきたい。クーラーなしだと干物になる。

 昨日の夜、ユーチューブで「錻力の太鼓」を聴いた。

「エレクトロ・ロマンチカ」っぽいかもしれないけど、なんだかまっくらやみを永遠に歩かされている気がして、落ちこんだ。

「スワン・ソング」が好きだって言ったら、「HONEST」さんは何をすすめてくれるんだろう。

 最後の「ソウ」のライブの話が終わったあと、私たちは全員ヘコんでいた。いつも「HONEST」さんに話してもらってるから、私も盛り上げようとしたけど、空回りしてしまった。「COGITO」さんはあいづちは上手でもどこか構えている。ないしょ話をして思ったんだけど、繊細なところもある。

 アンコールを待つオーディエンスみたいに、私たちは大したおしゃべりもできずに、疲れるまでそこにいた。

「そろそろお開きにしましょうか>ALL」

 結局気をつかってくれるのは「HONEST」さんだ。

「おやすみなさい>ALL」

 次の金曜の夜、私はまた「HONEST」さんと「COGITO」さんと、「ソウ」の話ができるのかな。

 そう思うと、一週間塾の勉強も手につかなかった。


 まだ計画プランはあやふやだ。ただ僕なりに筋は通したい。

「話って?」

 リヒトの家からも僕の家からも近い喫茶店を適当に選んだら、かなりひなびた純喫茶だった。あらゆる調度が日に焼けていてくたびれている。クラブの方がよかったかな。僕の小声じゃろくに話にならないだろうが。

 僕はリヒトに「計画」を説明した。リヒトがセーラムに火を点そうとすると、店に負けず劣らずくたびれた主らしき初老の男が、「禁煙」とぶっきらぼうに告げる。こんなのでやっていけてるのかな、この店。リヒトは会釈して煙草をしまった。

「いつ活動再開できるかもわからない。遠慮しなくてもいい」

「そうはいかないよ。『タブラ・ラサ』が再始動しても、このプランだけはやりとげたいし。勝手すると、トモあたりがうるさそうだし」

「意外に悪賢いな。俺は保険ってとこか」

「そういうわけじゃ」

「トモなら『そんな金があるならこっちに回せ』くらいは言うだろうな」

 リヒトは愉快そうに微笑んだ。

「リヒトは言わないんだ」

「マコトが自分で稼いだ金に口出しはできないよ」

「今なら文句でも何でも聞く」

 最初から湯気もないブラックコーヒーを啜って、リヒトは変な顔をした。

「文句はないな。ただ」

「ただ?」

「小金持ちだなと思っただけで」

 また笑ったリヒトの言葉に、気が軽くなる。なんというか――脱帽だ。僕みたいな未熟者には、この気遣いは逆立ちしてもできない。

「気が向いたら招待して」

「うん」

「俺を呼べないくらい盛況だといいな」

「多分そんなうまくいかないと思う」

「やるんだったら成功することだけ考えて、楽しめ」

 いつもリヒトは僕の背中を押してくれる。

 僕は彼の励ましを胸に刻んだ。


 夏休みが終わる。何度目かの思い出のない夏休み。

 疑問を持ったことはなかった。学ぶのは嫌いじゃない。いつからだろう、純粋な好奇心より、仮想敵にうち勝つ優越感のために勉強するようになったのは。

 この間の金曜日の幕切れに不安を感じた。「HONEST」も「うらら」も、もうチャットルームに来ないかもしれない。あそこは僕なりに大事な場所になっていた。

 今更圓くんによりかかるつもりはない。僕はじりじりしながら金曜日を待った。皮肉にも、勉強が現実逃避に役立った。頭がからっぽになっているせいか、暗記がひどくはかどる。

 金曜の夜、しびれを切らして二十三時過ぎからチャットルームにいた。

「こんばんはぁ」

「こんばんは>うらら」

 先に「うらら」が現れる。二十四時にはまだ間がある。

「こんばんは>ALL」

 新しい日の時報を連れて「HONEST」もやってきた。良かった。いつもの顔ぶれだ。

 僕はばつの悪い沈黙を覚悟したんだけど。

「ご報告があります>ALL」

 なんだろう、改まって。

「え、なになにー」

「うらら」がはやした。報告という堅苦しい単語が、僕をびくつかせる。ここを閉めるとかじゃないだろうな。

 話を振っておいて、「HONEST」はだんまりだ。強心臓の「うらら」も気が気じゃないらしい。

「チョーイミシンなんだけど」

 よくわからない返しをする。ああ、「超意味深」か。

 つつかれても「HONEST」は煮え切らない。僕も固まっている。騒いでいるのは「うらら」だけだ。

 だいぶ待った。

「SOWのお墓の場所がわかりました>ALL」

 予想の範囲外からの攻撃に、僕も「うらら」も反応できない。

「SOWの誕生日に」

「会いに行こうと思います」

「どうしますか?>ALL」

 画面はずっと凍っていた。


「どういうこと?」

「文字通りです」

「SOWが今いるところがわかったんです」

「どうやって?」

「知り合いにツテがあったので」

「調べてもらいました」

 息ができない。スマホを握った手が震えてる。

「気をつけて」

「本当かどうかわかりません>うらら」

 また「COGITO」さんが「ささやき」で耳打ちする。今度は私も警戒してる。おいしい話には裏がある。

 だけど、短い間だけど、「HONEST」さんを見てきた。もしだます気なら、もっと早くにしないかなあ。わざわざトリムールティの話も、「ソウ」のライブの話もしなくていいと思う。でも。でもでも。

「もし一緒に来たいなら」

「十月十日の正午に」

「T霊園駅でお待ちしています」

「『セントラル・ドグマ』のLPを持っていきます」

「見つけたら声をかけてください>ALL」

 てきぱきと待ち合わせの手順を並べて、「HONEST」さんはいつものように出てゆく。

「そろそろ落ちます」

「おやすみなさい>ALL」

 退室メッセージが表示されると、マシンガンみたいに「COGITO」さんの「ささやき」が飛んできた。

「どうします?>うらら」

「わかんないよ。っていうか、『セントラル・ドグマ』ってLPあったんだ」

「リリース直後に限定で若干出たみたいです。プレ値ついてますけど」

「コギトさんはどうするの?」

「迷ってます」

「でも今時LPなんて持って駅で立ってたら目立つだろうし、顔だけ見て帰ることもできますね」

 そうか。「COGITO」さん、アタマいい。向こうは私の顔を知らないんだ。ヤバそうだったらそのまま回れ右すればいい。

 まだ時間はある。もう少し悩んでみようと思う。


 リアルで会うなんて考えてもいなかった。チャットルームでならごまかせても、実際の僕は、成長期だっていうのに、なかなか背が伸びないチビだ。「HONEST」と「うらら」がどんなやつかは興味があるけど、僕が中二の減らず口のガキだとは知られたくない。

 二学期が始まった。「HONEST」の提案を忘れたくて、日常に没頭する。圓くんとの接し方がわからなかったから、成り行きに任せるしかない。

「おはよう」

 当たり前に圓くんは言った。

「おはよう」

 うわべだけは平穏でつまらない毎日がよみがえる。チャイムで区切られた時間、周りの人間を嘲笑しながら、崩れ落ちそうな自分を保つ。鼻持ちならない「柚月悟」に逆戻りだ。まだ「COGITO」でいるほうがましだ。

 独りになりたくて、昼食をすませて図書室へ直行した。

 正気に戻るのが怖い。学校も、塾も、圓くんも、突きつめて考えてしまったら、僕は身動きがとれなくなる。

 余計な難題を持ち出した「HONEST」を恨めしく思った。約束の日までには、まだたくさん金曜日がある。

「うらら」には顔だけ見ることもできるなんて言ったけど、僕には余裕がない。とにかく、できるだけ「HONEST」と話して、人となりを見極めよう。

 金曜日、「HONEST」はチャットルームに現れたけど、様子がおかしい。いつもは率先して話を振ったり、僕たちの話題に乗ってくれたり、愛想がいいはずなのに、何というか反応が鈍い。

「元気がありませんね>HONEST」

「すみません>ALL」

「ちょっとばたばたしていて」

「寝不足気味で」

「だいじょうぶ? 早く寝たほうがいいよ」

「お言葉に甘えさせてもらいます>ALL」

「おやすみなさい」

「HONEST」はそそくさと去る。僕は「うらら」と秘密の相談を始めた。

「SOWのお墓参り、行きますか?>うらら」

「まだ決めてない。コギトさんは好きにすればいいよ」

 結局僕たちは「HONEST」に何も訊けなかった。


 二学期が始まる。夏期講座も身が入らなかったから、授業はやっぱりちんぷんかんぷんだ。休み前に凍結した友だち関係が、音を立てて動きだす。

 いちばんに教室に入る。五分くらい待てば、あの子が、薬師寺さくらが登校してくる。深呼吸する。

 十分たった。教室の引き戸がすべるたび、私はがっかりしていた。待っても待ってもあの子は来ない。

「おはよ、うららぁ」

 とうとうカノンがやってきた。

「……おはよう」

 次の日も、そのまた次の日も、薬師寺さくらの席には誰も座らなかった。

 もしかしたら、二度とあの子は学校に現れないかもしれない。私にできたことなんてないのかもしれない。でも、きっと今からでも、できることはあるはずだ。私は放課後、職員室に乗りこんだ。

 担任の川上は三十手前のぼそぼそしゃべるおっさんだ。英語を教えてる。声が通らないし、できない私から見ても、発音がまるっきりカタカナでひどい。授業もヘボいけど、担任としても頼りない。ってか頼れない。

 それでも、手がかりはこいつしかない。

「先生。薬師寺の家、どこ?」

「いきなりどうした? 中瀬、進路指導まだ提出してないな。今書きなさい」

「話聞けよ」

「聞いてるよ。中瀬も先生の話を聞きなさい。薬師寺の住所が知りたいなら名簿で調べなさい」

「のってないの!」

「じゃあ、教えられないな」

 川上が分厚い眼鏡ごしに、私の顔をのぞきこむ。

「なんで薬師寺の住所を知りたいんだ?」

 私も川上の目をまっすぐに見る。

「チクったりしないよねえ」

 脳裏にカノンのねじ曲がった笑顔が浮かぶ。もう一度川上の目を見る。ダメだ。きっと助けてくれない。

「もういいよ!」

 吐き捨てて、職員室を後にする。

 また無力なまま誰かを見捨てる。こんな結末はイヤだ。

 まだ私にはできることがあるはずだ。


 気持ちはあっても、薬師寺さくらにつながる糸はなかなかたどれない。私はバカだ。もっとあの子の話をきけばよかった。いつも私が話をきいてもらってた。

 カノンはあの子がいなくなってもケロッとしてる。始めからいなかったみたいに、取り巻きとつるんでる。

 ムカついてるのに、文句も言えないでいる。イヤホンを耳に突っこんで、「ソウ」の音でバリケードを作って、私はその後ろに隠れていた。すごく情けなかった。

 カノンと距離を取る。それでも世界は変わらない。もどかしい気持ちを抱えて、学校に通う。

 選択科目の音楽の時間だった。私は気が進まないけど、カノンたちと音楽室へ向かう準備をしていた。音楽鑑賞の授業だから、最後に感想文さえ出せればいい。自然と緊張感がなくなる。

 薬師寺は選択、美術だった。私は何気なく美術室へ向かう同級生たちを見やった。選択は隣のクラスと合同だ。二つのクラスがだんだんとけあってく。

 そのなかに、カノンをにらんでいる視線を見つけた。

 おかっぱで少しぽちゃっとした彼女は、私に気づくと目をそらす。名札には「加納薫」って書いてあった。

 音楽の時間が終わると、私は急いで隣の教室へ向かう。

 加納さんは窓際で一人でお弁当をつついていた。私はずいっと彼女の前に立つ。

「時間、ある?」

「……何か用ですか」

「さっき、サエグサさんにらんでたよね?」

「にらんでません。変なこと言わないでください」

 お箸を休めて答えてるけど、明らかにキョドってる。私は声を低くして加納さんにささやいた。

「もしかして、アンタも何かされてた?」

「私は別に」

「私は」ってことは他の誰かには心当たりがある。

「ウチのクラスの薬師寺のこと、何か知ってる?」

「さくらにはしばらく会ってません」

「知り合い?」

「部活が同じだけです」

「薬師寺と話がしたいんだ。ウチ、知ってる?」

 この糸の先があの子につながっていますように。

 今度こそ、絶対にこの糸を離さない。


 十月十日は「ソウ」の誕生日だ。今年は幸い休みと重なっている。彼の生まれた日に、彼が眠っている場所を訪ねる。ああ見えて「HONEST」は皮肉屋なんだろうか。

 三年に上がる前に志望高校を決めないといけない。実力と可能性を秤にかけて、できるだけつぶしのきく学校を選ぶだけだ。十中八九、圓くんとは別の高校になる。

「柚月くん」

 圓くんが僕を見ていた。黒目がちな澄んだまなざし。僕たちはいつまでも何もなかったふりをしている。こんないびつな関係がこれからも続くんだろうか。

 何度目かの金曜日二十四時。チャットルームでふたりを待っている。

「こんばんは>ALL」

「こんばんは>HONEST」

「先週はすみませんでした>COGITOさん」

「昨日はちゃんと寝ました」

「そうですか」

 気のない反応しか返せない。固まっていたら「HONEST」がしゃべってくれるだろう。

「質問です>COGITOさん」

「SOWとかトリムールティを聴く前は」

「何を聴いてましたか?」

 答えに詰まる。取りつくろうにもその手の知識がない。

「どうしてそんなことを訊くんですか?」

 困ったら逆質問だ。

「ちょっとした市場調査です>COGITOさん」

「あなたは何を聴いてますか?>HONEST」

 かまをかけてみた。あらゆる曲には背景が存在する。流行った年、若者向きか年寄り向きか、一過性のものかロングセラーか。回答で少しは「HONEST」の人物がしぼりこめる。

「私ですか?」

「きょうだいの影響で」

「最初はベタですがYMOとかクラフトワーク」

「あとはテクノ系とかエレクトロニカ全般」

「今はわりと古いのを聴いてます」

「80年代からゼロ年代のポップミュージックとか」

 怒濤のように知らない単語が連発される。グーグル検索が間に合わない。やっと最初のふたつだけ検索できた。

「イエロー・マジック・オーケストラは、日本の音楽グループ。78年に結成。通称YMO」

「クラフトワークは、ドイツの電子音楽グループ。クラウトロックの代表格であり、テクノポップを開拓した先駆者として知られる」

 ウィキペディアを斜め読みしたとこじゃ、どっちも80年代くらいに時代を席巻したらしい。80年代に僕くらいだったとしたら、結構な年だ。待てよ、「わりと古いの」で「80年代からゼロ年代」とも言ってた。全然わからなくなってきた。

「ところで」

「『錻力の太鼓』はどうでした?>COGITOさん」

 僕が情報を整理できていないのに、「HONEST」の次の質問が来た。態勢を立て直して返す。

「良かったんですが、落ちこみました」

「特に『ゴウスツ』」

「ああ」

「あれはヘコみますよ」

「And I've no particular place to go」

 僕には特に行くあてもない。

「HONEST」もそこに引っかかったんだろうか。

 追悼掲示板のときも、チャットルームも、どことなく相手を遠い人だと感じていた。このメッセージを読むまでは。「ソウ」のファン同士、さしのべた手と手が重なっただけと割り切ろうとしていた。でも、志向するものが同じなら、わかりあえる希望もあるのかもしれない。

「デペッシュ・モード『バット・ナット・トゥナイト』」

「私が落ちこんだら聴く曲です>COGITOさん」

「うららさん来ませんね」

 照れ隠しのように「うらら」の名前を出した「HONEST」は、僕に無視された質問を繰り返しもせず、夜が深くなる前にチャットルームから去る。

 でも今夜じゃない。

 そんな名前の歌を、いつものようにユーチューブで探し出す。天鵞絨ビロードのような声がスピーカーから流れる。

「Oh God, it's raining

But I'm not complaining...」

 なぜかふたりと知りあえたことを大切に思っていた。


 加納さんから薬師寺のウチを教えてもらえた。話したいことがあるのかもわからない。また学校に来てって言うのは簡単だけど、カノンたちの問題が解決してない。

 もう「ソウ」だったらどうしたとかはいい。私が勝手に薬師寺にまた会いたいだけなんだ。

 薬師寺の家は、私の家とあまり変わらない大きさの一戸建てだ。チャイムを鳴らすと薬師寺によく似た目のはっきりしたおばさんが出てきた。私の制服を見て、瞬いてる。

「すみません。さくらさんいますか?」

 最悪門前払いも覚悟してたけど、おばさんは「ちょっと待ってね」と言って、廊下の奥に消えていった。

 沈んだ足音がする。見覚えのある影がかたちになる。

「久しぶり」

 薬師寺さくらは弱々しく笑ってる。

「来てくれたんだ」

 責められたほうが楽だった。なんで私を助けてくれなかったのって。

「どうしたの? 陰気くさい顔しちゃって」

「うん」

「心配してくれたんだ」

「うん」

 言いたいことはたくさんあるはずなのに。

 私は無力だ。薬師寺が休んでる理由なんてわかりきってるのに。どうしようもできない。ううん、どうにかしようとしていない。

「ごめん」

「なんで謝るの」

「何もできてない。何もできない」

「悪いのはサエグサだから」

「学校に来れる?」

「うーん」

 笑顔がかげった。

「ちょっと無理かな。疲れちゃった」

 うなだれた私の肩に、薬師寺の手が置かれる。

「せっかく来てくれたんだし、あがってってよ」

 薬師寺は部屋に通してくれたけど、私たちは黙ってしまった。つらいけど、懐かしい気もした。

 まるで朝の教室にいるみたいに、ずっとそうしていた。


 以前から引っかかっていることがある。自分の欲求についてだ。

 客観的事実として、僕はいわゆる思春期に入っている。進学校だけど、同級生たちは人並みに異性に関心がある。兄弟にこっそり成人誌を買ってきてもらっているやつもいる。グラビアやエロ漫画は頻繁に机の下で回覧される。

 僕が抱く感想は「どうでもいい」以外の何物でもない。潔癖を通りこした無関心。圓くんも女子たちも、そこらの石と変わらない。いや、なんだったら気心が知れている分、まだ圓くんの方がかわいげがある。かといって同性にときめきもしない。

 度を超した自我の強さのせいだと思っていた。

「ソウ」の調査をきっかけに、僕はネットのあちこちに手を伸ばしていた。うろつきまわって出た結論は月並みなものだ。インターネットの集合知なんてフレーズが独り歩きしているけど、とどのつまり人間のやることには限界がある。玉石混淆。だから参考程度にすべきだ。参考程度に。

「他者に対して性的欲求を抱くことが少ない、またはまったく抱くことがないセクシャリティ」

 無性愛アセクシュアルという概念に行き着いたのはつい最近だ。

 早急に結論に飛びついてもいけないが、いちばん自分に当てはまると感じた。

 性自認が明らかになっても、問題を棚上げしているだけだ。なりゆきに任せて、卒業までをのらりくらりと過ごしてもいいかもしれない。圓くんは僕にはっきりと好意を示してもいないのだから。

 それがひどく圓くんを傷つけるかもしれないとしても。

 僕は不誠実だ。

 なにもかも中途半端だ。

 他人の批判は一人前にするくせに、自分の問題は思考停止してなかったようにふるまっている。

 僕には特に行くあてもない?

 当然の帰結だ。どんな人だって、真摯でない者を受け入れる余裕なんてない。自業自得だ。

 僕は変われるだろうか。

 いたずらに時が流れていく。熱をはらんだ大気が少しずつ冷え、約束の時間が迫ってくる。

 まだ僕は変われていないままだった。


 十月十日。「ソウ」の生まれた日。チャットルームで「HONEST」さんがお墓参りにいこうって言った日になった。

 T霊園駅には一時間もかからずにいける。ただ、「COGITO」さんが注意したみたいに、「ソウ」のお墓がわかったっていうのがホントかわからない。それに、のこのこ出ていって大丈夫かなあ。

 薬師寺には一回会いにいったきりだ。いい解決方法が見つからなくて、悩んでるだけだ。真面目に授業のノートとってれば渡しにいけるけど、私のじゃ役に立たない。

「セントラル・ドグマ」のCDを確かめた。「ソウ」と「シン」と「アキ」が、どこかで見た仏像みたいにかたまって映ってる。阿修羅……だっけ。多分LPも同じ写真だよね。

「ちょっと買い物にいってくる」

「帰りは?」

「晩ごはんは食べてくる!」

「COGITO」さんの作戦を採用しよう。とにかくT霊園駅にいって、LP持って待ってる人を探して、それから決めればいい。

 駅に着いたのは十二時を少し回ってからだった。かなり小さな駅で、ホームも二番線までしかない。改札なんて一カ所だ。これじゃすぐバレそう。うっかり出ちゃうと見つかるし、しばらく内側から外をうかがっていた。

 待ち合わせっぽい人は……いた。黒いシャツ、黒いパンツ、黒いシューズ、黒ずくめのやせた若い男の人。きゅうくつそうにLPを抱えてる。あれが「HONEST」さんなのかな。

 彼がきょろきょろ周りを見わたした。黒縁メガネから投げられる視線に発見されそうで、私は自動販売機に体をくっつけるようにして隠れる。

「HONEST」さんは見つけられたけど、危ない人かどうかなんてどうやって判断すればいいのかな。よく考えたら、「COGITO」さんの作戦も穴だらけだ。

 もじもじしていたら、急に肩をたたかれる。息が止まりそうになった。

「あの人を探してるんですか?」

 小柄なくりくりした目の男の子がいた。

「ひょっとしてコギトさん?」


「HONEST」は簡単に見つけられた。「セントラル・ドグマ」のLP。東京郊外の風景から浮き上がりまくっていた。その持ち主をうかがっている高校生くらいの女の子がいる。声をかけてしまった。

「ひょっとしてコギトさん?」

 しまった。こっそり様子を見る予定だったのに。もう後の祭りだ。「はい」と答える。

「『うらら』さんですよね」

「そうだけど。私より年下? 中坊?」

 凝視される。だからリアルで会うのは嫌だったんだ。

「あの人が『HONEST』ですよね」

 話題をそらす。

「あれ、『セントラル・ドグマ』のLPでしょ。ならそうだと思う」

 意外に「うらら」は地味だった。セミロングの真っ黒な髪。白い飾り気のないブラウスにジーンズ姿。唇が輝いているのはリップでも塗っているんだろう。

「ふーん、中学生か」

 しつこいな。僕は口をつぐむ。

「生意気な中坊」

 僕が抗議しようとしたときだ。

「あのー」

 ぼんやりした声が響いた。

「僕を探してますか?」

 遠くにいたはずのLPを抱えた青年が近くにいる。今日はしくじってばかりだ。彼は僕たちが答えるより先に、にっこり笑った。

「はじめまして、『HONEST』です」

 眼鏡の向こうの瞳が輝いている。

「お会いできてうれしいです」

 彼は深々とお辞儀した。なんだか気が削がれるな。

「あんまり驚かないんだ」

「うらら」が。僕たちの年のことだろう。

「年下かもとは思ってた。リアルタイムでトリムールティ見てないみたいだし」

 彼は敬語をやめて、また笑う。あとは突っこまなかった。僕が中学生なのを茶化さないのは評価してもいい。

「じゃ、彼に会いにいこうか」

 静かに「HONEST」は告げた。


 駅からお墓は遠かった。私たちはてくてく歩く。LPを持っている「HONEST」さんは歩きにくそうだ。

「これ持ってきたのは失敗だったかな」

 ネットでしゃべるのと感じが違う。リアルの「HONEST」さんは、ふわふわしていて頼りない。でもクラスの男子とかとも違う。うまく言えないけど。

 横顔を見ていた。左耳にピアスが七個もついてる。ルーズリーフみたい。なんか見覚えがあるようなないような……どこで見たんだろ。

 音が聞こえる。マシン・ボイス。鮮やかなシンセサイザーのメロディ。プロフェット・ファイブ……

 足が止まっていた。

「疲れた?」

 滑舌の悪い声。私は「HONEST」さんの顔をまじまじ見る。メガネかけてるけど。

「えっと……マコト? 『タブラ・ラサ』の……」

「ぎょっ」って書き文字が見えるみたいだった。ものすごく「HONEST」さんはあわててた。

「あー」

 思いだしたのにうれしくなさそう。

「有名なんですか?」

「COGITO」さんがうさんくさそうに「HONEST」さんを見ている。

「カイワイじゃわりと有名かも。アルバム出してるし」

「マコトで『HONEST』ですか。安直」

「COGITO」さんはネットと変わらないな。絶好調に偉そう。

「一応音楽関係者っていうのは本当だったんですね」

「『一応』って何?」

 やっと「HONEST」さんがまともにしゃべる。全然迫力はない。空を見上げてぽつんとつぶやく。

「まあ、いいか」

 霊園のそばのお花屋さんで花束を買った。

「これ持っててくれる?」

「COGITO」さんにLPを預けて、「HONEST」さんは手桶に水をくんだ。緑いっぱいの霊園には、たくさんのお墓が並んでいる。そのひとつひとつに人が眠っている。

「ソウ」に会うまであと少しだ。


 白いヒナギクの花言葉は「無邪気」。「ソウ」が好きな花だ。

「うらら」が花束を、「HONEST」が手桶と掃除の道具、僕は「セントラル・ドグマ」のLPを抱えてる。

「ソウ」の面影を求めて、ネットをさまよっていただけなのに、気づけば初対面の人たちとこんなところにいる。

「ありがとう」

 前を向いたまま「HONEST」が言う。

「来てくれて」

「うん」

「別にあなたに会いに来たわけじゃないです」

「何だっていいよ」

 計算じゃなく、「HONEST」と「うらら」は僕の理屈をひっくり返す。不思議とわずらわしくない。いつもの僕じゃ考えられない。

 時々「HONEST」がスマホを確認する。やたら広い霊園だから、彼の案内がなければ「ソウ」のもとにはたどり着けないだろう。

「もう少し」

 あてのない散歩に疲れる前に「HONEST」が。

「あそこ」

 墓石の群れの一角を彼が示した。か細い煙が見える。

「誰かいますね」

 目的の場所にはかすかな色がある。秋の空に映えるまぶしい花々。その前にひそやかな影が手を合わせていた。

 彼女が僕たちの気配に振り返る。

 憂いを帯びた三十代くらいの楚々としたひとだった。モスグリーンのワンピースは、あたりの風景に沈みそうだ。彼女は僕の持つLPを認めたらしい。

「皆さんは彼のお参りに来てくれたんですか」

「HONEST」が丁重に頭を下げる。

「碓井誠といいます。音楽やってます」

「うらら」も続けてお辞儀する。

「中瀬うららです。高校いってます」

 僕も名乗った。

「柚月悟です」

「彼に会いに来てくれてありがとうございます」

 謎めいた女性は淡く微笑んだ。

「あずさといいます。彼の――『ソウ』の家族です」


 お墓はよくある「何々家之墓」って書いてるやつだ。「ソウ」は特に信仰の話とかしなかったから、お家のお墓に入ったんだろう。

「HONEST」さんと「COGITO」さんが譲ってくれたから、私が最初にお線香をあげた。

 もし生きてるうちに会えていたら、いっぱい話してみたかった。胸がつっかえて、考えていたことは全部流れてしまった。

「ソウ」はもういない。

 一度でいいから、ライブ、行きたかったです。

 涙をこらえて黙祷を終える。「COGITO」さんが青い顔をして続いた。ずいぶん長い間手を合わせていた。最後に「HONEST」さんがお墓の前に立つ。お祈りをすませた彼は、じっと「ソウ」のお墓を見つめている。

「彼も喜んでいると思います。若い皆さんに覚えていてもらえて」

 あずささんはさみしそうに笑う。ここを見つけたわけも何も尋ねない。私たちは誰からともなくここを離れようとした。あずささんが「ソウ」にとってどういう人なのかは知らなくても、彼女の時間を邪魔したくなかった。

 私たちはそろってお辞儀した。

「ありがとうございました」

 花で埋もれそうになった「ソウ」のお墓を目に焼き付ける。いつまでも「ソウ」の音楽は聴きつづけるけど、何かの扉が閉まったような気がしていた。

「ちょっと待ってて」

 突然「HONEST」さんが立ち止まる。そのまま、あずささんのところまで引き返した。「セントラル・ドグマ」のLPを持って、何かを彼女と話してる。

 彼はあずささんにまたお辞儀をして、急いで私たちのところへ戻ってきた。

「何を話してたんですか?」

「うん」

 思いっきりはぐらかした。ごまかすの下手すぎ。「COGITO」さんも同感なのか、ふくれっ面の手前だ。

「二人とも近くに住んでるの?」

「どうでもいいじゃないですか」

「結構重要」

「HONEST」さんは花のように笑っていた。


 ネックストラップに名刺くらいのプラスチックの透明なケース。白い花――多分マーガレット――の絵が描かれた薄い紙が入っている。

「ALL AREA ACCESS」

 最初にそんな文字が躍っている。続けて日付。

「LIFE GOES ON」

 最後を飾るのは「人生はつづく」という一句だ。

「うらら」が目を丸くした。

「これってバックステージパス? 誰のライブの?」

 僕たちにそれを突きつけた「HONEST」は、決まり悪そうにしている。

「んーと、僕の」

「『僕の』って? 『タブラ・ラサ』の?」

「じゃなくて、僕。ひとり」

「バックステージパスって何ですか?」

「舞台裏とか楽屋に入れる……通行証? みたいな?」

「うらら」の解説はわかったとして、さらっと「HONEST」が大胆なことを言った気がする。

「来月に下北の小さなギャラリーでやるから。都合がついたら観に来てください」

「ソロライブってこと?」

「はい」

 緊張しているのか、「HONEST」は神妙だ。今からガチガチじゃないか。ソロライブなんてできるのか?

「『うらら』さんと『COGITO』さんに来てほしいんだ」

「配信はないんですか?」

「そんな余裕はないよ。それに」

 基本的に「HONEST」はなんだかぼんやりしている。年長者の威厳がまるでない。だけど、次の言葉を告げた彼の意識の焦点は、間違いなく僕たちに合っていた。

「ライブじゃないと伝わらないものもあるし」

「それって演者側の問題ですよね」

「そうとは限らない」

 やけにきっぱり言いきる。

「気が向いて、来られたらでいいから」

 彼は恭しく今日何度目かのお辞儀をした。

「ご来場を心よりお待ちしてます」

 やっぱり笑顔もどことなく頼りなかった。


「タブラ・ラサ」はどうするのってきいたら、「モロモロの事情でしばらくお休み」だって言ってた。「HONEST」さんは忙しいみたいで、時計を気にしながら、先に帰ってしまった。

「行っちゃいましたね」

「COGITO」さんとT霊園駅まで一緒に戻る。

「『HONEST』はどんな音楽やってるんですか?」

「私もアルバム一枚聴いただけだから。詳しくはないけど……なんていうか……カラフルでポップ? な感じ」

「COGITO」さんは鼻を鳴らした。

「馬鹿っぽいかも」

 すごい毒舌。やっぱ生意気。

 私はもらったバックステージパスをながめる。来月の第三土曜。開場と開演は書いてないけど、十六時半と十七時半だったっけ。最後のこれはなんだろう。ライブのタイトルかな。

「ライフ・ゴーズ・オン? どういう意味?」

「『人生はつづく』」

 仏頂面した「COGITO」さんが。

「大丈夫ですか?」

「何が?」

「僕でもわかりますよ。英語、勉強してます?」

「うるさいよー」

 私は「COGITO」さんのつむじを引っかきまわす。本当にびっくりしたみたいで、一瞬ぽかんと口を開けていた。急に下を向く。照れてるようだった。

「どうする? ライブいく?」

「音を聴いてからですね。聴けそうだったら考えます。なんでしたっけ、『タブラ・ラサ』?」

 電車でつまらない話をして、「COGITO」さんとも別れた。

「ソウ」にちゃんとお別れを言えたからといって、なにもかもすっきりするわけでもない。学校にいけば、白紙の進路指導のプリントと薬師寺のことでアタマがぐちゃぐちゃだ。

 あれからずっと「HONEST」さんはチャットルームに来ていない。ライブの準備で忙しいのかな。

 全部積み残したまま、少しずつ風は冷たく乾いてく。

 そして十一月がやってきた。


「タブラ・ラサ」の動画は一件だけあった。「エテルナ」……ラテン語で「永遠」か。なんで無意味に外国語を使うんだろう。そもそも「タブラ・ラサ」の意味もわかってるのかな。「磨いた板」というラテン語で、経験論で生まれたときの無垢な状態を意味するんだけど。

 僕は動画を再生する。低解像度の画面の中に、「HONEST」がいた。この間とは別人のように淡々と鍵盤を叩いていた。眼鏡がないせいか、とても落ち着いて見えた。合成されたピアノ、リズムマシン、ドラム、ベース、ギター、そして歌声。旋律が重なり、高まり、溶けて、終息する。かなりキャッチーだが、聴けなくもない。普段「ソウ」を聴いてる人とは思えないのはいいとして。

 無性愛について調べ続けている。確信はいまだに持てない。悩んでもいないから、カウンセリングの必要も感じない。僕の状態は「その疑いがある」程度だ。

 高校受験の足音が聞こえてきた。僕たちの学校は入学からクラス分けは固定されている。飽きるまで同じ顔をながめないといけない。卒業が近づくにつれ、特に進学クラスは同級生と疎遠になる。

 それでも圓くんには真摯でありたい。

 秋風が心地よい金曜日の放課後、また圓くんに勉強を教えてほしいと頼まれた。断る理由が見つけられず、承諾した。

「こんばんは>うらら」

「こんばんはぁ」

 最近「うらら」はやたらと絵文字を乱用する。読みにくいけど、彼女なりの親愛の表現だと思おう。

「元気してた?」

「そっちは相変わらずですね>うらら」

「これでも悩みとかあるし」

「今日も来てないんですね」

「オネストさん? きっと忙しいんだよ」

 圓くんのことを相談しようかとも考えたけど、そんな雰囲気じゃないな。一時間ほど他愛ない話をする。

 なし崩しに日曜日がきた。圓くんのご両親は予想どおり不在で、広い家にふたりで取り残される。

「話があるんだ」

 圓くんが思い詰めた表情で、目をそらさず僕を見る。

 僕たちに審判の時がやってきた。


 開演時間ぎりぎりに会場に駆けこむ。「COGITO」さんは来てるのかな。入口でバックステージパスを見せると、いっぱいに並べられたパイプ椅子の中央後ろの席に案内された。客入れのSEをかき分けて、私は席に座る。

「遅いですよ」

 第一声からぶっちぎりで愛想がない。逆に安心した。

「来てたんだ」

「時間ありましたし」

「COGITO」さんは細い体を居心地悪そうにパイプ椅子に落ち着けていた。

 客電は落ちていないから、周りを確認した。「COGITO」さんの隣には、細身のロン毛で茶髪のオニイサンが座っている。涼しい整った顔立ち。控えめに言ってもかっこいい。他のお客さんは圧倒的に女の人が多い。「HONEST」さんって、それなりに人気あるのかも。

 照明が暗くなった。満ちていた音が耳にあふれる。題名も知らない歌のない曲のボリュームがあがって、暗闇がおりてくる。

 そして光。雨のような拍手。

 輝きのなかに「HONEST」さんが、「タブラ・ラサ」のマコトがいる。あの日会ったときと同じような黒ずくめの服をまとって。ぶかっこうな黒い縁のメガネもそのままだ。

 正面にはプロフェット・ファイブとノートパソコン。左右にスパゲッティみたいにコードがからまった機械がたくさん積まれている。

 こういうのって、最初の一発が大切なんだろう。オーディエンスの心をつかむには。きっと大丈夫。「タブラ・ラサ」のマコトなら。誰にも真似できないきらきらした弾けるような音を奏でるあなたなら。

 静かに旋律が吐かれる。ゆったりと――でも、まるで闇のように暗い悲しい音。

 え。

 何よ、これ。

 いつものマコトじゃない。オーディエンスに微笑み、楽しそうにリズムをとって、音を紡ぐあなたじゃない。

「Dawn in the sky ahead

 As I walk towards it

 There is mysterious feeling of elation...」

 ひたすらに冷たく、静かで、すべてを拒んでいるみたいな音楽が敷きつめられる。こわくて顔が見られない。やっとの思いで正面を向く。

 ひどく感情のない顔があった。メガネの奥の目は平らで、誰も見ていない。

 死にそうな一曲目が終わった。みんな凍っていた。

 平然と彼はお辞儀をして、ノートパソコンを叩く。

「太陽もない。朝もない。昼もない。夜明けもない。影もない。光もない……」

 彼と同じように感情を飛ばした女性の声が語りだす。ライトだけがうれしそうにぐるぐる回って、あたりに光をふりまいた。

 音がいたい。

 音がつらい。

 音がかなしい。

 どうしてこんな音楽を投げるの?

 彼はこたえない。ただ制御して支配する。

「HONEST」さんでもマコトでもない怪物が、ステージの上に君臨していた。


 最初の曲から「うらら」は気分が悪そうだった。彼女は言った。「HONEST」の音はカラフルでポップだって。じゃあ、ここでモノクロームの旋律を操っている彼は誰なのだろう。

 観客は沈んでいる。僕は彼を見る。

 あの日、「ソウ」の前で淡く笑っていた青年はいなかった。遠くからだけど、レンズの向こうの瞳は真っ黒で深淵のようなのがわかった。

 音に打ちひしがれて、僕たちは立ちつくす。打ちのめされたまま、音楽が綴られる。耳をふさぐこともできたけど、僕は何かにせき立てられていた。

 音がひびいている。

 意味も感情もなくした純粋な音。

 光を背負って彼がいる。

 長い影が客席に落ちる。

 虚無の中を音がひびく。

 かすかにうごめく何かがある。また声が聞こえる。

「太陽もない。朝もない。昼もない。夜明けもない。影もない。光もない……」

 僕はもう一度彼を見た。

 なにもかも漂白された吹きっさらしの表情。単なる物体として彼は存在していた。音の地平で僕は気づく。

 彼はひどく「ソウ」に似ている。

 細すぎる影絵。音楽を探す賢者のようなまなざし。鍵盤を滑る長い指。プロフェット・ファイブ。

 ほんのわずかな時間だった。僕は亡き人の影が彼に宿っているのを確かに見た。

 次の瞬間、幻がほどけた。同時に音楽に色彩がよみがえる。もう死者は彼の上にいなかった。

 彼は砕け散った音を拾い集めた。ばらばらのピースが編まれて大きな絵を描く。それは絶望の淵にかかった虹の橋のように、はかないものなのだけれど。

 僕には音楽の本質なんてわからない。ただ感じる。

 始めに絶望を置いたのも、彼のたくらみなんじゃないだろうか。

 最後に虹の橋を僕たちの心に刻むために。

 音がひびいている。

 ひかりのようなおと。

 おとのようなひかり。

 そしてまばゆいシンセサイザー。

 なんて。

 なんて――イヤなやつなんだ。

「最後の曲です」

 聞きおぼえのあるメロディが空気にとけてゆく。

 曲のかたちがはっきりしてくると、隣にいる「うらら」の目から涙がこぼれた。

「なんで――なんで――バカ――」

 たどたどしい歌が紡がれる。

 彼がトリムールティの「ミラージュ」を歌っている。

「なによ――へたくそ――」

「うらら」がすすり泣いている。

 僕は泣けなかった。

 彼は「シン」じゃない。まして「ソウ」でもない。

 なのに、この上手くもない歌声は、どうして僕の心から去ろうとしないのだろう。

 うなだれていた観客は、みんな彼を見ていた。

 すべての音が止み、余韻が消え、幻想もついえる。

「どうもありがとう」

 魔法が解けて、彼は静かに夜に消えていった。


「うらら」は帰りたがっていた。でも僕は彼に一言言わないと気が済まない。

「文句、言わないでいいんですか? あんなひどい『ミラージュ』なんて許せないって」

「……うん」

 僕たちは楽屋へ急いだ。何を期待しているのかはわからないが、観客の一部は裏口に駆けてゆく。出待ちとかいうやつだろうか。

 ギャラリーを無理にライブスペースにしたものだから、通路は狭い。一ヶ月とちょっとぶりに「HONEST」と対面するが、僕も形容しづらいもやもやを胃の中に抱えていた。

「HONEST」が小さな部屋の小さな鏡の前にいる。先導してくれていたスタッフが、心ここにあらずといった風情の彼に声をかけた。

「マコトさん、お客さんです」

 気持ち悪いほど彼は冷静に見える。

 たくさん言いたいことがあった。だけど、言葉は喉で渋滞してつっかえてしまっていた。

「あなたは――」

 僕は何を言おうとしているんだろう。

「あなたは、無謀で傲慢だ」

 なぜか彼は穏やかな顔をしている。困ったように笑っていた。

「でなきゃこんなことしないよ」

 なんで否定しないんだよ。僕みたいな生意気な中学生の言うことなんて鼻で笑えよ。

「うらら」がべそをかいたまま、ぽかぽかと彼をぶつ。

「……へたくそ」

 彼は黙ってあまり痛そうじゃない拳を受けている。

「うん」

「……あんなの『ミラージュ』じゃない」

「うん」

 ずっと彼はうなずいていた。僕もどうしていいのかまるでわからなかった。しばらくそんなおかしな光景が続いていた。

「あれ? なに女の子泣かせちゃってんの?」

 それを壊したのは金髪の青白い顔をした青年だった。

「マコト先生も隅に置けないねー」

「タクミ」

 連れらしき茶髪の背の高い青年が、金髪を声で制した。明らかに「HONEST」の表情が険しくなる。彼は金髪を無視して、茶髪の青年に言う。

「別の人と来ると思ってたんだけど」

「タクミに見せておきたかったんだ」

 茶髪の青年は申し訳なさそうに答える。二人のやりとりに金髪が割りこんできた。

「まあ楽しめたよ。最初、葬式みたいだったけど。あれ、なに? 陰気くさい曲」

「『マス』。YMOの」

 投げやりに「HONEST」が。言葉がぶつぶつ途切れている。金髪はややたじろいで、茶髪に「知ってた?」ときく。茶髪は黙って首を縦に振った。

「にしても、ひどい歌だったなー」

「わかってる」

「HONEST」の様子がおかしい。僕たちと話していたときは、いつもの彼に戻っていたのに、また舞台上の得体の知れない存在に変わっている。金髪も勝手が違うのか、ますます顔を白くして続けた。

「わかってるなら、あれ使えばよかったのに」

「HONEST」は口をつぐんでいる。

「あのエフェクター。あれだよ、あれ」

「ボコーダー」

 不機嫌に「HONEST」が返す。まだ言い足りなさそうな金髪の機先を制して、彼はきっぱり断言した。

「下手でもなんでも、あの曲は自分の声で歌わなきゃいけなかったから」

 金髪は「HONEST」の揚げ足を取りたいのか、盛んに彼をつつきまわしている。「HONEST」はびくともしない。

 金髪がこっちを見た。

「楽屋にお子様っていい趣味してるよ」

「文句があるなら僕に言え。部外者を巻き込むな」

「相変わらずかっこいいなあ、マコト先生は」

 なんだ、こいつ。

 僕はつい口走ってしまった。

「さっきからなんですか。みっともない」

「生意気なガキだな」

「タクミ」

 茶髪の語気が強くなる。

「だから部外者を巻き込むな」

「そっちこそヒーロームーブ決めていい気になるな」

「何しに来た」

「リヒト、なんでこんなとこ連れてきたんだよ。暇つぶしにもならない」

 金髪が茶髪に悪態をつく。

「ま、いいか」

 金髪はもう「HONEST」にも茶髪にも注意を払っていない。その視界の真ん中に、泣きはらした「うらら」をとらえている。

「かかわる相手は選んだ方がいいよ。マコト先生、わりと薄情だから」

「やめろ」

「マコト先生には関係ないじゃん。それとも彼女さんかな?」

「これ以上は言わない。部外者を巻き込むな」

 僕の次は「うらら」か? 最低だな。

「タクミ、いいかげんにしろ」

 茶髪が低い声で。それより押し殺した声で「HONEST」が続ける。

「その子に構うな」

「怒ってんの?」

 金髪はせせら笑う。これ以上「HONEST」を怒らせない方がいい。僕ほど金髪は警戒心がなかった。

「あやしいなー」

 言うと、一歩「うらら」に近づく。「うらら」の目が救いを求めて泳いだ。そのとき。

 金髪が吹っ飛んだ。

「帰れ!」

 拳を赤くした「HONEST」が怒鳴った。金髪はへらへらと笑う。口を開こうとしたが、再び「HONEST」の怒号が飛んだ。

「帰れ!」

 頬を腫らした金髪は、とうとう顔をそむけて楽屋から出ていった。

 後には肩で息をしている「HONEST」と涙目の「うらら」、僕と茶髪の青年が残された。

「すまない」

 茶髪が頭を下げる。悲しそうに。

「連れてきたのは失敗だった」

「悪いのはタクミだ」

「俺が甘かった。まさか、ここまでこじらせてるとは思わなかった」

 小さな部屋で逃げ場もなく、僕たちは一様に沈痛な面持ちをしている。

「君がひとりでもしっかり歩いてる姿を見れば、あいつも立ち上がれるかもしれないと思った」

 深いため息。

「あいつを焦らせただけだった」

「HONEST」は茶髪の話を黙って聞いている。

「タクミの唯一のアドバンテージってわかるか」

 首が横に振られる。

「いちばん前で歌ってること。どんなわがままをしても、誰がソロを決めようと、あいつの場所は最前列フロントだ」

 茶髪の整った双眸が「HONEST」にぶつかる。

「それが崩れた。君が歌ったから。自分の声で」

「あんな歌で?」

「大事なのは歌ったっていう事実だ。タクミにしたら、君にはいつまでもボコーダーの後ろに引っこんでてほしかったんだろう」

「ああ、もう!」

 不意に「HONEST」が笑った。屈託もなく。

「めんどくさいなー」

「俺たちはみんなめんどくさい。だろ?」

 茶髪も笑っている。ほんの少しの間だけ。

「もうタクミを待たないんだろ?」

「だろうね」

「マコトなら大丈夫だ」

「かなあ」

「今日も君はうまくやったよ。これ以上ないくらい」

 茶髪は最後に僕たちに頭を下げた。

「迷惑かけた」

 僕と「うらら」は途方に暮れた。「うらら」が半泣きで「HONEST」に尋ねる。

「私たちが来なかったら……」

「それは違う」

 彼はすがすがしいほどはっきりと言った。

「きっと、ほんのちょっと早くなっただけだよ」

 茶髪の青年の悲哀が濃くなって、消えていった。


 スマホのカメラで世界を覗く。

 空気が乾いてざらざらする季節が近づいてる。まだ私は進路指導のプリントも、薬師寺のことも解決できていない。だけど。

 今日カノンに言うんだ。つまんないことやめろって。もう薬師寺をおもちゃにするの終わりにしろって。

 あれから何回か薬師寺のウチにいった。たくさん話をした。「ソウ」のこと。将来のこと。

 薬師寺は美術系の大学に進学したいみたいだ。お金もかかるし、かなり難しいらしい。五年挑戦してダメだったら、他の道を考える。

 私にもアドバイスをくれた。音楽はどうかってまた言われたけど、聴くのは楽しいけど演奏するのとかは苦手だ。歌も普通だし。

 あのチャットルームはまだある。

「HONEST」さんは一回メッセージを残してくれた。それからは見ていない。

「しばらく来られないと思います」

「落ち着いたら会いましょう>ALL」

「COGITO」さんとは毎週話してる。

 進路のことを打ち明けたら、こんな答えが返ってきた。

「とりあえず大学受験してみては>うらら」

「社会人としてやっていくにはまだまだみたいですし」

 やっぱ絶好調に生意気だ。

 放課後、カノンを呼び出そう。ひとりでこいっていってみるけど、約束を守るかはわからない。

「HONEST」さんのライブの日、タクミさんを見てわかったことがある。あの人はカノンに似ている。本当はない自信を必死にかき集めて、つっぱって生きている。主役しか居場所がないと思いこんで、誰かの脇役になるのをとてもこわがってる。

 毎日生きるのは大変だ。

 でも、人生はつづいてる。

 いろんなことが片づいたら、金曜の夜、チャットルームでたくさん話をしよう。

 来週は「HONEST」さん、来てくれるかな。

 そろそろ放課後のチャイムが鳴る。カノンとの約束の時間がくる。

 私はそっとCDウォークマンのリモコンを握りしめた。


 圓くんに思いを告げられてから、しばらく時間がたっていた。彼の告白はひどくささやかだった。

「これからも君のそばにいたい」

 それだけだった。

 初めて圓くんを家に呼んだ。人付き合いをろくにしていない僕を心配していた母は、嬉々として圓くんをもてなしている。少々鬱陶しい。

 母親が圓くんを構うのが一段落して、僕たちだけの時間がやっと来た。

「この間の話だけど」

 圓くんは気の毒なほど固くなっている。

 気持ちは嬉しいと取りつくろうのは簡単だ。でも、それは嘘だ。

「僕も話さないといけないことがあって」

 僕は自分の性自認に関する見解を努めて冷静に述べる。

 圓くんは静かに僕の長い話を聞いていてくれた。

「はっきりしたわけじゃないけど、多分僕は誰にも何も感じないんだと思う。圓くんは大事な友達だよ。それは本当。でも、それ以上はどう頑張っても感じられないんだ。今まで感じたこともない」

 息を継いで、圓くんをまっすぐ見た。

「こんないびつな人間でいいなら、これからも友達でいてほしい」

 圓くんはゆっくりと、そしてしっかりとうなずいてくれた。

「ルナティック・シンドローム」にアクセスする。

「404 NOT FOUND」

 前と寸分変わらない文字が画面に広がる。

 ブックマークは無意味だ。

 だけど、これはもう少しこのままでいい。

 金曜の夜、僕は毎週チャットルームで「うらら」と話をする。「HONEST」を待ちながら。

 以前の僕なら、不干渉主義と称して、何の行動もしなかっただろう。

「xxx@gmail.com」

 最初に「HONEST」が僕たちに招待メールをくれたアドレスを呼び出す。彼がこのアドレスを確認するかはわからないけど。

 僕は彼への言葉を綴った。


 トモにめちゃくちゃ引き止められたのは意外だった。てっきり彼はブチ切れるだろうと思ってた。反対にサクヤがすんなり認めてくれたのも驚いた。

 トモはタクミをぶん殴るといってきかなかったらしい。タクミもまた殴られるのはごめんだろう。

「タブラ・ラサ」のことはリヒトに任せておくことにした。もう僕に彼らのことをとやかく言う権利はない。

 タクミを殴った拳がひりひりする。殴る方も痛いという人もいるが、そんなのは嘘っぱちだ。殴られる方が絶対に痛い。

 バンドをやめても音楽をやめたわけじゃない。毎日VAIOに依頼は吹き荒れている。

 ひとりでステージに立ってみて、その広さに戸惑った。心地よくもあった。孤独で自由な空間。僕はしばらくそれと格闘したい。

「タブラ・ラサ」脱退のごたごたが片づいて、資金が貯まったら、レコーディングがしたい。ライブのために書いた曲やカバー曲を詰めこんでアルバムを出そう。

 売れるかどうか――あんまり自信はないけど。

 碓井誠なんて取るに足らない存在だ。

 だけど、確かなことがある。

 僕は「ソウ」じゃないし、「ソウ」も僕じゃない。

 物事はとてもシンプルだ。

 人として生きるかぎり、僕もいつかは彼のように消える。だから、終わりを迎えるその日まで歩きつづけよう。

 あのチャットルームにも御無沙汰している。きっと僕にはまだあそこが必要だ。

 チャットルームを開設するときに取ったアドレス。スパムの山にまぎれて、一通のメールが届いていた。

「碓井誠様

 お元気ですか。

 僕たちはなんとかやっています。

 時間ができたらまた話をしましょう。

 お待ちしています。

                     柚月悟

    追伸 CDをリリースしたら教えてください」

 電子の海にはいろんなものがまぎれている。役に立つもの、くだらないもの……情報の氾濫のなかに、こんな嬉しい知らせもまじっていることがある。

 今日も僕は新しい窓を開ける。

 この街にはいまだに慣れない。幾千の夜と朝。流され、押しつぶされそうになっても、僕は生きている。

 おはよう、世界。

 相変わらず。憎らしいほど。

 君は残酷で美しい。


〈完〉


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404 NOT FOUND 九曜 @nineloti

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