コピーしたメルアドをあて先にはりつけた未送信メールが一通。送信すればもやもやはなくなるのかもしれないけど、どこに連れて行かれるのかはわからない。

 私はまだ「ソウ」の追悼掲示板をうろうろしていた。もう誰もいない。ひどい言葉を書き込んでいた人も、飽きてしまったみたいだった。悪口の日付もだんだん間隔が空いている。

 いったん捨てられた場所は、二度と元には戻らない。「名無し」さんたちの小さなおしゃべりもなくなった。あの謎めいた書き込みがどんどん古くなっていく。

 ネットのことなら小林とかが何か知ってるかもしれない。ただ誰にも頼りたくない気分だった。小林が陽キャでイケてても、私は打ち明けないだろう。お悩み相談のフォーラムとかあるけど、へたに話を振ると袋だたきにあうかもしれない。検索するにしても、キーワードがわからない。

 メールなんだし、大丈夫かなあ。

 考えすぎて眠れない。スマホの画面とにらめっこしたまま、いつの間にか寝落ちしてた。

 午前三時、疲れ果てていた。遠くでバイクの音がする。

 まぶたが重たい。体も重たい。半分夢のなかにいる。だから、無意識に送信をタップしていたのにも気づかなかった。

「金曜二十四時にお待ちしています」

 最初はいたずらだと思った。たくさんのスパムメールにまぎれて、誰かから返信が届いてた。

「合言葉は『スワン・ソング』の十一曲目」

 これ、なんなのかな。どこかのアドレスっぽいけど。うっかりアクセスすると個人情報抜き取られるとか。

 私に迷っている時間はなかった。メールを読んだのは、金曜の午後十時。あと二時間しかない。

「スワン・ソング」に十一曲目はクレジットされてない。ゴーストトラックで「ミラージュ」が収録されてる。このメールをくれた人は、少なくともそれを知ってる。

 あの「名無し」さんだったら、うかつに人を信じすぎないでって注意するんだろうな。だけど、日付の変わる瞬間、私はメールに貼られたアドレスをタップしていた。

「合言葉をどうぞ」

 ジャンプした先で小さなウィンドウがささやいていた。


 グーグルで検索はしなかった。アドレスを貼っても意味はない。結局未知に飛びこんでいく勇気がないだけだ。

 金曜日から土曜日へ移り変わる約束の時間。僕は決心がつかなくて、クロームのアドレスバーに指示された行き先を入力したまま、途方に暮れていた。十五分くらい迷って、やっとエンターキーを押す。

 目をこらす僕を突然開いたウィンドウがさえぎる。

「合言葉をどうぞ」

 確か「スワン・ソング」の十一曲目だった。入力が強制的に英字に切り替わる。

 MIRAGE

 入力したら、またウィンドウがでしゃばる。

「名前を入力して入室してください」

 画面の大半が「入室しなければチャットログは表示されません」というメッセージでおおわれている。チャットルームらしい。なら、ネット名ハンドルネームでいいか。なんて名乗ればいいかな。そうだな……

 我思う故に我あり。コギト・エルゴ・スム。

 COGITO

「COGITOさんが入室しました」

「こんばんは>COGITOさん」

 間髪入れずあいさつが飛んできた。ハンドルネームは「HONEST」……「誠実な」? いかにも怪しい。

 もうひとりいた。こっちはひらがなで「うらら」。

「こんばんはぁ」

「うらら」でこの口調。あざといな。

「もう少し待ちましょうか」

「はーい」

 警戒していたほど殺伐とはしていない。だからといって信用できるわけでもない。僕は「HONEST」が言うように、しばらくチャットの手を止めて待った。ログがぴたりと止まる。五分くらい流れたろうか。

「こんばんは>ALL」

 場を回しているのは「HONEST」だ。慣れた感じからして、この人が「保守」さんだろう。じゃあ「うらら」が「永遠」さんか。そう単純な話でもないか。

「お会いできてうれしいです」

「HONEST」が歯の浮くような言葉を綴る。

 さて、これからどう転ぶんだろう。


 ベッドにもぐりこみながら、かけぶとんの下、スマホの輝きで視界を守る。小さな画面におしゃべりが高速で映し出される。

「HONEST」さんと「COGITO」さん、どっちかが招待メールを出したはずだけど。

「どうしてあんなメッセージを?>HONEST」

 私の疑問を「COGITO」さんがきいた。

「不躾なのは謝ります>ALL」

「あまり気分のいいものではないです」

 なんか「COGITO」さんは偉そう。呼び捨てだし。

「そのへんにしとけば?」

 私は急いで「COGITO」さんへのメッセージを打つ。名前、アルファベットなの面倒くさいな。いちいちコピペしなきゃいけないし。カタカナでいいよね。

「そのへんにしとけば? ホネストさん謝ってるし」

「『ホネスト』じゃありません。『オネスト』。最初のHは読みません」

 なぜか「COGITO」さんが注意する。

「私は『コギト』です>うらら」

 うわ、ウザい。しかもやっぱ呼び捨て。

「気をつけます>COGITOさん」

 かっとなって言い返そうとする私より早く、「HONEST」さんが答えていた。

「さっきの質問の返事ですが」

「追悼スレの方は荒らしがひどかったので、直接お話できないかなと思ったんです。常駐していそうな人数はそう多くなさそうでしたし」

「わかりました>HONEST」

「もういいじゃん。ふたりともカタいよ」

 字だけなのに「COGITO」さんが不機嫌そうなのがわかった。「HONEST」さんがうまく話題をそらしたからかな。

「HONEST」さんって、あのときの「名無し」さんなのかな。ききたいけど「COGITO」さんにはきかれたくなかった。

「せっかく集まったんだし、ソウの話しよ?」

 ホントに尋ねたいことはしまって、私はふたりに呼びかける。「HONEST」さんが「はい」と答える。

 やっぱりなんとなくその人が笑っている気がした。


 僕は「HONEST」の話に聞き入っていた。

「印象に残ってるライブは、『ホーカス・ポーカス』のツアーファイナルです」

 確か日比谷野音だったっけ。まだトリムールティの人気はそこまでじゃなかったから、映像は残ってない。

「シンがテンション振り切れて客席に乱入して」

「ウソ?」

「SOWはどうしてたんですか?>HONEST」

「客席がもみくちゃになってるのをチラ見してました」

「まざればよかったのに」

「あの頃のSOWのセッティングはめちゃくちゃでしたからね。動きたくても機材の管理で動けないですよ」

「アキはどうしてたの?」

「相変わらず直立不動」

 動画サイトで見ているいつものトリムールティのバランスだ。思い出話をねだる僕と「うらら」にもあきれることもなく、「HONEST」はたくさん話してくれた。

「また次の金曜のこの時間に会いませんか?>ALL」

「またトリムールティのお話ししてくれる?」

「^^」

 不意に顔文字がタイプされた。羨ましいくらい人なつっこい。僕にはできない芸当だ。

「ここのパスはそのままにしておきます。いつでも好きに使ってください>ALL」

「おやすみなさい」

「HONESTさんが退室しました」

「HONEST」が去ると、僕と「うらら」が残された。

「私ももう寝るね」

「うららさんが退室しました」

「うらら」もさっさと退室した。

「HONEST」も「うらら」も、リアルの僕を知らない。上手に立ち回れば、別の人格だって演じられる。どうせ毎日はつまらないんだ。

 ここでなら僕は頭でっかちの中学二年生じゃない。年齢も性別もわからない、ただの「ソウ」のファンだ。

 僕はここにまったく期待しないことにした。

 だけど、この場所が想像もしなかった遠くへ、僕を連れてゆくことになったんだ。

「COGITOさんが退室しました」


 最後のミーティングから二週間になる。

 タクミがどうしてるかは知らない。言われたとおりに手術の準備をしているかもあやしいけど、僕の関知するところじゃない。リヒトにもトモにもサクヤにも会ってない。部屋にこもって依頼を片づけながら、ずいぶん増えてしまった機材に囲まれてる。

 音楽の道に踏みこもうとしている後進に、僕が言えることはひとつ。シンセはやめといたほうがいい。君が完璧主義者ならなおさらだ。どこをどう間違ったか、分不相応なプロフェット・ファイブのローンを組んだのを皮切りに、僕は終わらない音源収集にとりつかれている。

 タクミの喉の問題で、「タブラ・ラサ」が休止を余儀なくされて、僕には考える時間ばかりが与えられた。三年前リヒトに声をかけられてから、立ち止まらずに曲を作り、ライブを消化してきた。多少の軋轢は見ないふりをして。

「どっちにせよ、まこっちゃんの得意分野じゃないな」

 ミゾハタさんの言葉は単なる感想だ。彼の知ってる僕は既に過去のひとこまでしかない。ふってわいた休息が僕を迷わせる。

 仕事なのにポップな曲が書けない。書けないんじゃなくて書きたくない。「タブラ・ラサ」のマコトなんて、取るに足らない存在だ。あれも僕だ。わかっているのに、依頼と向き合いつづける僕は、そこから離れたがってる。

 多分「ソウ」も自由ではなかったんだろう。ただの一リスナーだったけど、活動停止前のトリムールティがひどく危うかったのだけはわかった。「ソウ」と「アキ」。音を形づくる二人の距離は修復しようがないほど遠くなってしまっていた。

 たったひとりになって、やっと「ソウ」は彼の音を紡げたのかもしれない。

「タブラ・ラサ」は、僕のホームなんだろう。だけど、家から離れて初めて己の姿に気づくこともある。

 金曜日、二十四時。

 僕は「HONEST」という服を着て、仮想の広場で「ソウ」の思い出を語る。

「HONESTさんが入室しました」

 知らないけど懐かしいような人たちが僕を待ってる。

「こんばんは>ALL」


「HONEST」さんはいつも時間ぴったりに現れる。「COGITO」さんは時間より早い。私はまちまちだ。

 あなたはいつかの「名無し」さんですかって、「HONEST」さんにきこうとしてるけど、「COGITO」さんがいるからきけないでいる。

「HONEST」さんのトリムールティのライブの話はひととおり終わって、先週から「ソウ」のソロライブの話になっていた。意外に「ソウ」はこだわるひとで、ライブハウスでない場所を選んで演奏してたらしい。

 先週のギャラリーのライブの話の続きからだったっけ。ひどいマシントラブルでシーケンサーが止まって、仕方なく「ソウ」が二十分以上もMCしたけど、ぐだぐだだった話。

「こんばんは>うららさん」

 いつもとあいさつがちがった。

「あれ? コギトさんは?」

「お休みみたいです」

「チャットのログ見てください」

 ログ……えっと、履歴だっけ。

「今夜は来られないと思うので、私抜きでどうぞ」

 一行だけ残して「COGITO」さんは出ていってた。

「あの」

 心の準備がないまま訪れたチャンスに、言葉が出ない。

「ききたいことがあります」

「ないしょの話?>うららさん」

「HONEST」さんの言葉が、一段ずれてログに残る。

「もし『COGITO』さんに聞かれたくないなら」

「『ささやき』を使うといいですよ」

 画面の下の方、メッセージの送信ボタンのそばに、「HONEST」さんが教えてくれた「ささやき」のボタンがある。

「『ささやき』ボタンの横のボックスに、メッセージを送りたい相手の名前を入れてボタンを押してください」

「こうですか?」

 私のメッセージが一段落ちる。

「^^」

「ささやき」でニコニコしてる顔文字が送られたあと、しばらくログは動かなかった。「HONEST」さんはせかさない。やっぱりあの「名無し」さんっぽい。

「オネストさんは追悼掲示板の常連さんですよね?」

「はい」

「ずっと前から書き込んでた」

「はい」

 私はスマホを握りしめて、深呼吸した。

「私、ちょっと前に迷惑な書き込みしてて」

 言葉を送るのがこわかった。金曜日の夜だけだけど、「HONEST」さんも「COGITO」さんも、いっしょに「ソウ」の話ができる友だちみたいに感じてた。だから、嫌われたくなかった。でも、どうしても確かめたかった。

「そのとき声をかけてくれた人がいて」

「HONEST」さんの静かさの正体がわからなくて言葉をつなぐ。

「名前、『名無し』だっだけど」

 これをきいて私はどうしたいんだろう。ほっとしたいだけ? 金曜の夜の闇のなか文字を打つ。

「あれはオネストさんですか?」

 時間が過ぎる音が聞こえそうだった。自動で流れるはずのログが、じっとしている。私の質問だけが目に痛いほど居残ってる。

 私はひたすら待っている。

 何分たっただろう。ログに新しい文字が生まれた。

「いいえ」

 予想してなかった答えに息が止まる。

「私じゃありません>うららさん」

「じゃあ誰?」

 とっさに打ち返してしまった。ドン引きされるかもと焦ったけど、「HONEST」さんの返事が続く。

「わかりません」

「書き込むのに制限はありませんから」

「通りすがりかも」

 あの「名無し」さんは、「彼のお墓はどこにあるかわからない」ことを知ってた。偶然なんかじゃない。

 訴えたところで、「HONEST」さんが認めないのは変わらない。認めても認めなくても、「HONEST」さんにとっては何の得も損もない。

「ささやき」はそれでおしまいになって、また普通の金曜日のように「ソウ」のライブの話が始まった。

 どうしてか「COGITO」さんに会いたくなった。


 医者に行ったら知恵熱だと言われた。ものを知らない人だ。頭の使いすぎが原因の発熱を知恵熱と呼ぶ人もいるけど、あれは誤用だ。つまらない能書きを頭の中で繰り返していたら、三十八度を超えた。

 学校も塾も無理だ。せいせいするはずなのに、ルーチンから外されて、僕は宙ぶらりんになっている。

 家の方針ではなく、個人的な主義でスマホは持たない。塾通いで遅くなるから、両親の方がスマホを持たせたがっている。感心しないな。

 疲労が深くて蒸し暑いのに夕方まで寝入っていた。

「悟、お友達」

 うとうとしていたら、母に起こされた。

 なんとか着替える。リビングに行くと、汗をかいたコップを凝視している圓くんが座っていた。

「今日のノート」

 彼はおずおずとルーズリーフの詰まったクリアファイルを差しだす。ありがとうと答えて受けとる。一日くらい休んでも平気だけど、言わないでいい。

 圓くんに視線をぶつけた。目をそらすのは彼だ。とうとう彼は下を向いてしまった。

 僕は圓くんを責めたいんだろうか。

 正直、彼が僕に何らかの感情を抱いていたとしたら、厄介だ。面倒でもある。もしかして、そうやって圓くんの気持ちから逃げているのかもしれない。僕はどこまでも卑怯だ。逃げて逃げて、今までどおりのぬるま湯のような関係を守ろうとしている。

 自己嫌悪も自己愛の一種だ。僕はとことん自分にしか関心がないのだろう。

「今夜は来られないと思うので、私抜きでどうぞ」

 チャットルームに書き置きを残す。

 ここに頼りつづけてもいいんだろうか。

 ノートパソコンを閉じて、どこかから迷いこんだガガンボが天井で這いまわるのを見つめている。

 まるで僕だ。主体性もなく、おろおろと光の方へすり寄って、あげく出口がわからず衰えて死ぬ。

 部屋の隅のミニコンポから、「ソウ」が歌う「ミラージュ」が流れている。

 彼は、それまでのキャリアを捨てて、身一つで歩いた。

 僕は到底彼のようになれない。


「タブラ・ラサ」でいちばん冷静で冷徹なのは、リヒトだ。彼はどこかしらドライだ。でなきゃ僕とタクミを両天秤にかけられない。それでいてリヒトは気配りの人でもある。

 タクミの手術は成功したらしい。「らしい」というのは、僕はその知らせをリヒトから聞いたからだ。まだ歌うには時間がいるそうだけど、とりあえず彼の退院祝いとバンドの再出発の出陣式を兼ねて、内輪のパーティーが開かれる。計画したのはもちろんリヒトだ。

 梅雨は逝き、本格的な熱波がこのコンクリートでコーティングされた街に居座っている。駅のホームで列車を待っている間、血液まで蒸発しそうだ。

 二十三区の外に出る機会はなかなかない。東京という街は不健康に完結している。よそからモノを取りこまないとやっていけないのに、内側にいる者はそれに気づかない。「タブラ・ラサ」が大きくなって、この奇妙な結界の向こうから求められるようになったら、僕らの見る景色は変わるんだろうか。

 リヒトの知り合いが三鷹で小さな喫茶店を構えている。酒飲みには不服だろうけど、そこが今日の会場だ。

 おとぎ話から抜け出したような愛らしい店のドアを開けると、涼しいベルの音がした。「本日貸し切り」の札がひるがえる。

 パステルカラーの内装が初夏の陽射しを乱反射させていた。輝きのなかに縦に長い影がふたつ。

 片方はリヒトだった。もう片方はサクヤ。

「元気してた?」

 サクヤは僕の頭を乱暴にぐりぐり撫でた。ミュージシャンという人種には珍しく人当たりがいい。

「タクミは?」

「あいつが時間どおりにくるわけないだろ?」

 サクヤと僕のおしゃべりを聞き流して、リヒトはバックヤードの方へ大股で歩いていった。

「ウチのリーダーには頭が下がるよ」

 サクヤはさっきからピッチャーの水をがぶ飲みしている。飲むだけ汗になるだろうに。

「そういうサクヤは何してたの」

「バイト三昧。余裕ができたらスタジオでドラム」

 また水をぐい飲みして続けた。

「リヒトやマコトみたいに曲は書けないし」

 口にしているのは水なのに、サクヤは妙に愚痴っぽい。

「マコトは大丈夫だから。音楽の仕事もしてるし。リヒトも一目置いてる」

 サクヤの気持ちもわからなくはない。音楽漬けになってたって気が滅入るんだ。ややひがみっぽいけど。

「リヒトはサクヤもあてにしてると思うよ」

 サクヤはあいまいに笑って何か言おうとしていたが、リヒトが戻ってきたら口をつぐんでしまった。ぎこちない空気を悟ったのか、リヒトが僕らに話そうとしたとき、ドアベルが鳴る。トモだ。

「よう」

 顔ぶれを一瞥して吐き捨てた。

「タクミはまた遅刻か? 誰のために集まってると思ってるんだ」

 うまくない風向きだな。今日くらい時間を守ったらいいのに。タクミはルーズすぎる。外の人間を招待しなくて正解だ。しらけた時間ばかりが積み重なる。酒をたしなむトモとサクヤは所在なく冷たい紅茶を啜っている。リヒトも飲むけど、深酒したところを見たことがないから、意外に平気そうだ。

 一時間たった。最初にキレたのはトモだった。

「さすがに付き合えねえわ。リヒト、あいつに言っとけ。いつまで俺様やってんだってな」

 ことさら声を荒らげると、トモは振り返りもしないで出ていく。次はサクヤだ。

「六時までに戻らないといけないんで」

 本当に予定があるのかは知らない。温厚なサクヤにまでへそを曲げさせられるなんて、一種の才能だな。

 残っているのは僕とリヒトだけになった。

「帰らなくていいのか?」

「わりと暇だし」

 リヒトはステンドグラスの向こうに視線を飛ばす。

「照れが半分、プライドが半分ってとこか」

「ん?」

「タクミがフケたわけ」

「それ、トモとサクヤにも言ってやれば?」

「俺もそこまでフォローしたくない」

「だろうね」

 結局タクミは来なかった。


「HONEST」さんにそっけなくあしらわれて、かなりヘコんだ。だけど、ちょっと反省もしてる。

 私がガタガタになったのは、カノンが原因なんだと思う。カノンが気分だけであの子にあたるから、私はこわくなった。だって、おしゃべりが苦手で絵を描くのが好きなだけで、あの子が悪いわけじゃない。

 カノンは自分が中心でないとイライラするところがある。あの子はカノンに興味がない。でも、悪気があってじゃないと思うんだ。

 あの子の世界の真ん中にはきっと絵がある。私の世界の真ん中に「ソウ」の音楽があるみたいに。

 カノンの世界の真ん中には、何があるんだろう。

 きいても返事はないかもしれない。いっしょにライブにいったけど、それっきりカノンは「タブラ・ラサ」の話もタクミさんの話もしない。

 今朝も私とあの子はふたりで静かな教室にいる。

「HONEST」さんへの質問がからぶりになった次の週、私はそわそわしていた。そろそろ期末テストの時期だけど、特に勉強はしてない。赤点じゃなきゃいいし。それより、あの子の、薬師寺さくらの絵が気になってた。

「HONEST」さんにたずねたときより緊張してた。

 イヤホンをひっこぬいて、勇気を出して彼女の机の前に立った。

「いつも絵、描いてるね」

 だるそうに彼女は顔を上げる。すぐに目を落として、絵に戻っていった。

「いいの?」

「何が?」

「サエグサ。仲いいんでしょ?」

 サエグサ……カノンの名字か。

「私にかまうとろくなことないよ」

「うん」

「ならほっといて」

「さみしくないの?」

 彼女は私にまっすぐな視線をぶつけた。

「サエグサみたいになりたくない。あいつ、まわりの人間に頼ってるくせに、平気で誰でも使い捨てる」

 言葉はきつかったけど、不思議と目は優しい。

「だから私にかまわないで」

 この子は優しいんだ。それにとても強い。

「なんで絵、描いてるの? カノンに破られるのに」

「サエグサのために描いてるんじゃないから。描きたいから描いてる。破られたらまた描く」

 もし「ソウ」が私のクラスにいたら、こんな感じなのかな。ちょっと見、折れそうに細いのに、すごく頑固で自分の道を絶対にゆずらない。

 気迫に負けて、私は席に戻った。この子にしたら、私もカノンと同じなのかも。

 三十分すぎて、カノンたちが登校してきた。

「うららぁ、おはよ」

 ちらっとあの子を視界のすみで確かめた。とっくに絵はしまわれている。なぜか私に知らんぷりしている。

 それでとても安心したんだ。今日は話しかけるって決めたのに、私はあの子を見捨ててる。わけのわからない涙があふれそうになるのを、必死でこらえた。

「HONEST」さんのことを冷たいって思ってた。必死でのばした手を、見えないものみたいに通りすぎたあの人を。

 私に「HONEST」さんを責める資格なんてない。

 ブクマしてるチャットルームのアドレスにふれる。

 今日は金曜日。「ソウ」の思い出をたどる日。時間が来たけど、私は入口で迷ってる。チャットルームには二人入室していた。

「合言葉をどうぞ」

 いつものウィンドウに「MIRAGE」を打ち込む前に目をつむった。この扉を開ければ、「HONEST」さんと「COGITO」さんが待ってる。この部屋のなかでは、まだ「ソウ」は生きてる。

 だけど、今夜はその幻を追いかけられない。追いかけたくない。そっとブラウザのすみの×を押す。チャットルームが手のなかで消えた。

 CDウォークマンを手探りで引きよせる。「スワン・ソング」の十曲目。なぐさめるようなピアノが夜にとけていく。そのまま再生しつづけると、「ソウ」がやわらかい声で「ミラージュ」を歌いだした。

 来週がきたら、またあの子と話せるかな。

 来週がきたら。

 きっとなにもかももとどおり。

「ソウ」の歌が終わって、耳に痛い無音が響いていた。


 つっぱるだけの意気地がない。もがいて迷って、最後には元の場所に戻るしかない。

「こんばんは>ALL」

 このあいさつにも慣れた。「こんばんは>HONEST」と返す。騒がしいけど、「うらら」がいると盛り上がらなくもない。僕らはしばらく待っていた。

「うららさん来ないですね」

「もうちょっと待ちましょうか?>COGITOさん」

「そのうち来るんじゃないですか。もう始めてください>HONEST」

 急かしたけど、「HONEST」は乗ってこない。

「相談してもいいですか?>COGITOさん」

 メッセージが一段落ちる。これは……何だったっけ。この間プリントアウトしたチャットルームのマニュアルを繰る。ああ、「ささやき」か。

「どうぞ>HONEST」

「ありがとう>COGITOさん」

 背伸びしたのは失敗だったかな。身の上相談を受ける度量なんてない。「HONEST」も、リアルの僕が中坊だって知ったら、どんな顔をするだろう。

「もしどうしてもそりの合わない人間と」

「これからもやっていかなきゃいけないとしたら」

「どうしますか?>COGITOさん」

 短文で改行するのは「HONEST」の癖らしい。連なる文字を追いながら、人当たりのよさそうなこの人が我慢できないやつってどんなだろうと想像した。

「無視すればどうですか?>HONEST」

「そうもいかない相手で>COGITOさん」

「無視できたとしても」

「その人は痛くもかゆくもないと思います」

「あなたはどうしたいんですか?>HONEST」

「私がどうしたいかは重要じゃありません」

「重要です>HONEST」

 僕が振りかざしているのは、子どもの理屈なのかもしれない。衝突を避けようとしている「HONEST」の方が大人なのかもしれない。だけど、子どもだからわかることもあるんだ。

「その相手のことでもやもやしてるのに、言いたいことも言わずに黙ってるんですか? どうして?」

 返事はない。

「もしかして気遣いのつもりですか?」

 沈黙が僕を饒舌にさせる。

「それは気遣いじゃありません。偽善です」

 勢いで打ってしまった。偽という強い文字が、いつまでも動かずに液晶モニターの真ん中に刻まれている。

 画面は固まっている。「HONEST」は考えこんでいるんだろうか。

「あなたの言うとおりかもしれません」

 あっさり認めた「HONEST」に、僕は拍子抜けした。なんで否定しないんだよ。

 あくまでも「HONEST」は落ち着いていた。

「すみません」

「頭を冷やします」

 被害妄想なんだろうけど、その言葉は僕に宛てられているような気がしていた。

「今日はもう落ちます」

「おやすみなさい>COGITOさん」

 無神経な僕にもいつものように丁寧にあいさつを残して、「HONEST」は出ていった。

 独りでチャットルームで「うらら」を待っている。

 あの騒がしさに救われたかった。話し相手がいないから、いつまでも「HONEST」とのやりとりを読み返していた。振り返りたくもない会話を反芻して、吐き気をもよおしながら。

 僕は変われない。ネットなら他人に優しくなれるかも、「ソウ」という共通の話題を持つ人の中なら「柚月悟」という殻が破れるかも、と根拠のない期待を抱いていた。あったのは無情な事実だけだ。僕は独善的な僕のままだ。

 ここは危険だ。むきだしの人格があらわになる。ひどい言葉を投げつけても、リスクを回避して逃げることもできる。

 ここでは人は簡単にモンスターになれる。

 真人間に戻る方法はとても容易だ。ネットにつながらなければいい。けど、一度都合のいい情報だけを引きだすことを覚えてしまうと、引き返す道はひどく狭くなる。

「HONEST」に鬱憤をたたきつけた。そのくせ、誰かの慈悲を求めている。軽んじていた「うらら」にさえ頼ろうとしている。

 その夜、僕はずっと「うらら」を待ちつづけた。


 タクミの電話番号は登録してはいる。一回もかけたことはないけど。

 ネットに多くを求めるのは幻想だ。だから、敢えてあのチャットルームで尋ねてみた。予想したとおり「COGITO」さんは辛辣だった。

 リヒトは今回は助け船を出すつもりはないらしい。トモは論外だし、サクヤは無視だ。僕がおせっかいを焼く番かとも考えた。

「偽善です」

「COGITO」さんは僕の感傷を切り捨てた。どこかが冷めたまま、VAIOの画面を見つめていた。最初からわかっていた。「うらら」さんを突き放しておいて、自分だけが平安を得られるわけがない。

 アイフォンの電話帳に「タクミ」の文字が刻まれている。決してつながれない回線。なのに消すこともできない数字。僕はさっさとディスプレイからそれをぬぐう。

 誰も表だっては非難しない。ただ擁護もない。傷口は放置されたまま、「タブラ・ラサ」はまた動き出した。

 前にも言ったけど、音楽をやりたいならシンセは選ばない方がいい。面倒ばかりだ。

 機材が増えたから、普段の環境はスタジオでは再現できない。ライブも同じで、運送費用とハコの大きさと手持ちのマシンのやりくりをまず考えなきゃならなくなってきた。認めたくないけど、僕はだんだん機能的でなくなってきている。程度は違うものの、楽器持ちのリヒトもトモもサクヤも、リハーサルするには仕込みが必要になってきていた。要するに、身軽なのはタクミだけってわけだ。あいつはスタジオのマイクじゃ歌えないなんてこだわりはないからな。

 スタジオの予約の時間が始まる前、ロビーでリヒトが煙草をくゆらせている。僕は少し距離を置いて席を取った。バックパックからVAIOを引っ張り出してデータを確認する。あと三十分以上もある。リズムトラックだけでも修正しておくか。量子化クオンタイズのかかった単調な音がイヤホンに満ちる。

「新しい曲?」

 音楽の向こうから、聞き慣れた声がした。

「暇だったし」

 幾重にも敷き詰めた音の地層レイヤーを画面が映し出す。

「暗いから。使いどころないかもしれない」

 リヒトが近づいてきたから、イヤホンを片方差しだす。

 僕らは記号化された音を見つめながら、再生される旋律に耳を傾けていた。

「イントロが――アウトロも――ちょっと冗長」

「かな。プログレかって話だよね」

「そこまでじゃない」

 リヒトはかすかに笑ってイヤホンを返す。

「ライブ向きじゃないな。八分超え」

 長いわりにインストばかりで、歌うところは短い。無意識にタクミを排除する気持ちが表れてるんだろうか。

「相変わらず早いな。リヒトもマコトも遅刻することなんてあるのかね」

 ギターケースをしょったトモがたたずんでいた。VAIOのモニターをちらっと見たけど、食いついてはこない。彼がギターケースのジッパーを開けると、黄色がかった光沢のある新品のギターが覗いた。これは僕でも知ってる。ギブソンのレスポールだ。トモは弾くより先に、クロスで丹念に磨いている。

 次にサクヤが顔を見せた。やっぱりタクミが最後か。

 開始時間ぎりぎりにタクミは駆けこんできた。

 気のないあいさつがロビーを行き交った。トモはチューニングに集中していて、タクミを全然見ない。普段はスタジオの機材に文句を言わないサクヤも、しきりとスネアのピッチを気にしていた。鉄面皮のタクミも、唯一かばってくれるリヒトがひどく淡白なのに戸惑っている。

「じゃあ『エテルナ』から」

 めいめい音出しをひととおり終えたのを確認して、リヒトが告げる。この曲はBPMテンポも速くないし、再開の一曲目としては妥当なところだろう。サクヤのカウントに合わせて、僕は初期音源プリセットのピアノを呼び出した。実はこの曲はあまりやりたくない。運指が下手なのがバレるし。

 僕のおぼつかないソロが一巡したら、ドラム、ベース、ギターの順に旋律が加わってゆく。タクミが小さく息を吸った。彼の歌には人を惹きつける磁力がある。危うげで、絶妙な隙があって。けど、歌はいつまでたっても紡がれない。リヒトが片手を上げる。

 僕もトモもサクヤもいっせいに演奏をやめる。

「タクミ?」

 リヒトの声にも、彼は口をつぐんでいるばかりだった。


 期末テストはさんざんだった。低空飛行の答案を持って帰ったら、絶対親に説教される。まだ進路指導のプリントも提出してない。カノンのグループにいると、明日のことは考えないでいい。今日が全てだ。だけど。

「ソウ」のCDを聴いていると、カノンたちがうつろに見える。華奢で優しくて、音楽のことしか考えなかった「ソウ」。「シン」と「アキ」といっしょにいたころの「ソウ」は、ステージできらきらしていた。よくお客さんに笑いかけてた。それでも、彼はひとりを選んだ。

 ぼろぼろの切り抜きのなかで、「ソウ」が言ってた。なんでトリムールティをやめたんですかってきかれて、静かに笑って答えてた。

「自分でありたいからでしょうか」

 そのあと、つけたしみたいに、「すごくかっこつけてますね」ってつぶやいてた。

 私には、住みなれた毎日をほうりだして守りたいほどの自分はない。口のなかに飛びこんだ砂粒みたいないごこちの悪さを感じてるのに、やっぱりカノンたちといる。

 いつも視界のすみからあの子を外せないのに。

「あのさ」

 親から三時間以上の大説教を食らった次の日の朝、私はふたりだけの教室であの子にたずねる。

「進路指導、もう出した?」

 ナイフで鉛筆を削りながら、あの子は返事した。

「出したよ」

「なんて書いたの?」

「言う必要ある?」

 口ごもった私をかわいそうだと思ったのか、早口で彼女は続ける。

「出してないの?」

「うん。まだ書けない」

 無関心だった目が、こっちを向いてた。

「好きなこととかないの?」

「やりたくないことならいっぱいあるけど」

「音楽は?」

 彼女の強いまなざしが私にぶつかる。

「いつも聴いてるでしょ? 誰の曲?」

 カノンもきかない問いかけが投げられた。

「ソウっていう人のアルバム。三枚しかないけど」

「どんな曲?」

「聴いてみる?」

 彼女が鉛筆を置く。私の指からイヤホンを受けとる。私は使い古したCDウォークマンのリモコンのボタンを押す。彼女は銅像みたいにぴたりと止まっていた。リモコンについてる液晶画面が曲の終わりを教える。

「なんて曲?」

「『ヘリオス』。ギリシャ語で太陽、だったかな」

 彼女は鉛筆を構えて急いだ口調で言った。

「暗黒の太陽って感じ」

 よくわからないたとえをしたかと思うと、スケッチブックの新しいページをちぎる。濃い鉛筆の色がたちまち重ねられる。五分もたたないうちに白かったページが塗りつぶされて、枯れ木のようにねじくれた道化師がいた。

「よかったら、いつかCD貸してくれる?」

 もじもじしている私に、できあがったばかりの絵が押しつけられる。

「あげる。ちょっとキモいけど」

 彼女が笑っていたのは一瞬だった。

 柑橘系の香りがした。カノンだ。カノンが私にあいさつするより早く、あの子は席に戻っていた。

 私の返事も待たず、カノンはあの子に濁った視線を投げる。クローンみたいな取り巻きに囲まれながら、痛い言葉をまわりに聞こえるように吐いた。

「なんか雑巾クサくない?」

 誰かが先回りして、教室のすみっこの掃除用具入れを開ける。カビたにおいが朝の教室にあふれる。

「ヤクシジー」

 記号みたいにカノンが唱える。あの子の名前だ。

「あんたからにおってくるんだよ。風呂入ってる?」

 がさがさした笑い声がたちこめる。みんな笑ってる。

「消毒してやるよ」

 バケツの水がぶちまけられる。あの子はぬれねずみ。

「だいぶすっきりしたんじゃない?」

 ひどい。こんなことして、何が楽しいんだろう。

 制服から水たまりをいくつも作って、あの子はくちびるを噛んでいる。スケッチブックをかばおうとしてたみたいだけど、紙が水を吸いこんで弾けそうだった。

 もらった絵をにぎりしめた。

 本当にこれでいいのかなって心でくりかえしてた。


「こんばんは>うらら」

「こんばんは」

 珍しく「HONEST」が遅れている。どうにも間がもたないな。それに「うらら」はらしくなく静かだ。

「先週来なかったですね>うらら」

「期末テストだったから」

 僕も期末テストだったんだけどな。キャラを演じているのか素なのかわからないけど、「うらら」は地道に勉強するタイプじゃなさそうだ。

「ちゃんと勉強してるんですか?」

「あのさあ」

 心配で尋ねたら、あからさまにむくれられた。

「なんでそんなに偉そうなわけ?」

「偉そうですか?」

「ものすごく」

 ここまでくるとむしろすがすがしい。学校での僕は客観的に見て嫌なやつだと自覚してるけど、誰も指摘しない。口だけは達者で、口論では負けたことがない。だから、皆面倒を避けて言わない。

 久しぶりだな、理屈抜きの好き嫌いを投げる人は。

「友だち少なそう」

 当たってる。でも、認めたら負けみたいでうそぶく。

「そうでもないですよ」

「あっそ」

「うらら」、今夜はひどくとがってる。ヒステリーにつきあっていらいらするのは馬鹿だと理解しているけど、しょせん僕は十四才のガキだ。どこまで耐えられるか。

 次の言葉を考える。「うらら」も僕も空気を読むのが下手らしく、適当な話題でごまかせない。ログが固まる。

「ウザいなら帰ろうか? どうせオネストさん待ちなんだろうし」

「それを言ったら身もふたもないですよ」

「少しはおせじくらい言えば?」

「そっちこそ>うらら」

「ホントめんどくさいやつ」

「そっちこそ>うらら」

 少し前の書き込みをコピペしながら、僕はなんだか楽しくなっていた。ぼやきながら「うらら」は僕にかまってくれている。

「ヘンなやつ」

 書き込みの最後は意味不明な記号。絵文字が化けたんだろう。悪いやつじゃないのかも。

 しばらくはしゃいだ後、沈黙がよみがえる。

「何きっかけでソウきくようになったの?」

「ユーチューブの動画」

 まさか母親のパソコンについてたブックマークとは打ち明けられず、姑息な嘘をつく。

「多分『スワン・ソング』のトレイラーです」

「キーボードに包囲されてるやつだ」

 間違いなく僕たちは同じ映像を想起している。本当にかすかなつながりなのだけれど。

 ボックスに「うらら」と打ち込んで、「ささやき」をクリックした。

「あの」

「何?」

「うらら」は慌てもせず「ささやき」を返してきた。

「私の友人の話なんですが」

 底の浅い嘘だな。「うらら」は特に追及してこない。

 どうして彼女だか彼だかに打ち明ける気になったのかはわからない。ほんの少しのじゃれ合いのせいだろうか。

「親友だとしか感じていなかった相手に好意を寄せられているみたいなんです。友人はできたら今までの関係のままでいたいらしいんですけど」

「そのお友だち、はっきり告られたの?」

「いえ。ただそう感じたらしいです」

「かえって深刻っぽいね。うっかりきけないし」

 思ったより真面目な回答だった。

「告らないってことは、お友だちのお友だちも、今はそのままでいたいのかも」

「放っておいたほうがいいってことですか?」

「もしお友だちのお友だちが、本気でお友だちのこと好きだったら、タイミング待ってるだけだと思う」

 つまり執行猶予期間モラトリアムにすぎないってことか。

「よかったらまた話して。アタマよくないから、あんまり頼りにならないけど」

 今度は語尾にスマイルマークがちゃんとついた。照れくさくてお礼が言えない。

「^^」

 覚えたての顔文字を打った。今の僕の精一杯だった。


「もうタクミは無理だ」

「悪いけどトモに賛成」

「マコトもそう思うだろ?」

「だとしても欠席裁判はないよ」

 議論は延々と平行線を続けている。

「しゃーねーじゃん。向こうが呼んでも来ないんだし」

 またカラオケボックスにこもって、窒息しそうなミーティングが開かれている。タクミへの不満をつのらせているトモもなだめている僕も、リヒトをうかがっている。

「マコトがなんであいつの弁護する義理があるよ? さんざん言われてたじゃん」

「歌おうとしないんじゃ仕方ない」

 トモとサクヤはタクミを許しそうにない。

「そりゃ理不尽だとは思ってたよ。だけど、他の誰かに『タブラ・ラサ』のボーカルが務まるのかって話だよ」

「代わりを探せばいい」

「そんな簡単な話でもないよ。三年間タクミの声でやってきたんだ。運良く次のボーカルが見つかったとしても、タクミのつけた色を塗りかえるのから始めなきゃいけない。すごいロスだ」

 タクミをかばうつもりはない。僕が展開しているのはただの一般論だ。

 リヒトはだんまりだ。責任放棄じゃないのはわかってる。良くも悪くもリヒトの影響力は大きすぎる。

 そのリヒトはアイフォンを繰りかえし操作している。タクミにかけているんだろう。ディスプレイが輝いては曇る。

「行ってくる」

「どこへ?」

 腰を浮かしたリヒトに、詰問口調のトモが。

「直接会わないと埒があかない」

「やめとけ。甘やかすな」

「タクミを連れてきても話にならないよ。今の状態じゃ、誰もあいつの話なんて聞かないだろうし」

 僕は比較的落ち着いているサクヤの目を覗きながら、リヒトとトモに割って入る。面倒を避けたいのはサクヤも同じだったようで、彼は心配そうな視線をトモに送る。

 ブチ切れてるから説得力はないけど、トモが言うのももっともだ。今は間が悪すぎるにしても、肝心のタクミが逃げてばかりじゃどうしようもない。

「俺がなんとかする」

「別にリヒトに頭下げてもらいたいわけじゃない」

 トモはそっぽを向いた。

「次はないからな」

 苦虫をかみつぶしたような顔で、トモは引き下がる。このところ、結局トモが我慢している構図が多い。タクミに味方は必要だとは思うが、トモを孤立させるのも悪手だ。

「リヒトのせいじゃない」

 サクヤはそう言い残して、トモを追いかけた。気のいいサクヤだ、表でトモに声をかけてくれているかもしれない。

 二人が去るとリヒトがうなだれる。弱音の代わりに大きくため息をついた。

「あいつ、意外に完璧主義で」

 タクミのことだとわかるまで、少し考えた。

「また前みたいに歌えるかこわいって言ってた」

 今度はそれをトモとサクヤに言ってやれとは言えなかった。きっとタクミはリヒトだからこぼせたんだろう。

「怒らないのか?」

「うーん……わからないけど、わかるような気がする」

 いちばん前で歌うこと。楽器でなくて、自分の声で歌うこと。ボコーダーでごまかすことしかできない僕には想像もつかない。

「もし明日腕でも折って、半年ぐらい休めって言われて、復帰ライブとか言われたら、どんなにリハーサルしててもこわいと思うよ」

「そうだな」

 リヒトが苦笑する。

「面倒だな。なのに、誰にも頼まれてないのに、ライブがやりたくなる」

 こわいのにステージにあがる。返ってくるのは歓声ばかりじゃないのに、わずかな賞賛がほしくて、僕らはまたステージを夢見る。

「僕らはみんなめんどくさい」

 告げたら、リヒトが子どもっぽい笑顔を浮かべた。

「ああ」

「僕はもうちょっとだけタクミを待つよ」

 そのときは本当にそう願っていたんだ。


 夏休みは残酷な季節。

 あてがある人は目標に向かってダッシュして、私みたいなのはぼんやりと蒸し暑い毎日を送る。いいかげん、進路指導のプリント、提出しなきゃ。

 部屋のかたすみに親が持ってきた塾の夏期講座のパンフレットが山積みになっている。受験対策コースとかじゃなくて、基礎をやり直す感じの講座ばかり。あんまりアタマよくないのは知ってるけど、軽くヘコむ。

 当然みたいにカノンから連絡はない。あの子の、薬師寺さくらの言葉が、何度も響く。

「まわりの人間に頼ってるくせに、平気で誰でも使い捨てる」

 そういう薬師寺はどうなんだろう。カノンに見られる心配もないし、声をかけようとしたけど、あの子につながる方法がない。めったに見ない名簿をひっぱりだしてみた。薬師寺さんちは住所も家電いえでんものっていない。最近はこういうの拒否れるんだっけ。

 もうすぐ真夏になる。真夏になるとつらいことを思いだす。

「検査入院してきます」

 二年前の夏休み、とても暑い日、いつものような気軽さで、「ソウ」がツイッターでつぶやいてた。花束のようにリプがいっぱいついてた。

 検査入院のはずが、ぐずぐずと長びいて、「ソウ」は入退院をくりかえした。いくつもライブが延期になった。まだ中学生だった私は、生で「ソウ」が見られる日を心待ちにして、退院のたびに「ソウ」が更新するツイッターを楽しみにしていた。

 とても寒いクリスマス、救いの御子が生まれた日に、「ルナティック・シンドローム」に、「大切なお知らせ」という記事がのった。

「昨日十二月二十四日に『ソウ』は急性心不全のため逝去いたしました。葬儀は家族葬にて執り行います。生前に賜りましたご厚誼に、家族一同御礼申し上げます」

 テンプレみたいな言葉が刻まれて、実感のないまま「ソウ」は私たちの前から突然消えた。

 本当の名前も、同じ空気を吸うことも知らないまま、三枚のアルバムを残して、彼はいなくなった。

 暑い夏、私はまだ「ソウ」を忘れることができない。


 執行猶予期間モラトリアム

 苦手な数学の集中講義が終わって、電車に揺られながら、「うらら」とのやりとりを思いだす。運悪く乗ったのは弱冷房車だった。連日の沸騰しそうな外気に、乗客はみんなしおれている。

 一学期が終わってほっとしている。しばらく圓くんと会わないで済む。割り切れるから塾は気楽だ。机を並べているのは、全部人生という不毛な泥仕合の競争相手。まとわりつく蠅のように振りはらえばいい。

 通学や塾の行き帰り、僕は車窓から景色をながめることにしている。スマホで視界と聴覚をふさいでいる人の気が知れない。けど、彼らと僕には何の違いもない。彼らは世界から目を背けることで、僕は物欲しそうに世界の変化を探すことで、退屈な日常を忘れようとしている。

「ソウ」の音楽は外では聴けない。意識がまるごと吸いこまれるような錯覚に襲われるから。

 今まで芸術家アーチストを名乗る人種に興味はなかった。人間としての欠陥を、存在するのかも怪しい才能を免罪符に、わがままばかりしている連中としか思っていなかった。

「ソウ」は違った。

 人格者でもないけど、彼は取りつくろわなかった。もう見られなくなってしまったブログや、更新のかからなくなったツイッターで、喜びを、悲しみを、嘆きを、怒りを、愚痴を、当たり前に披露した。

 月並みな表現だけど、彼はその音楽のように自然体で日々を送った。その命の終わりまで。

「HONEST」が語る「ソウ」の記憶。そこにいたのは、僕の物差しではとうてい測れない自由闊達な魂だった。彼は創造だけでなく、己を演出し、観客を驚かせて楽しんでいた。僕自身も含め、僕の生きている小さな金魚鉢のどこを探しても、触れることさえかなわない確固たる個性。だから僕は彼を追う。絶対に届かないとわかっていても。

 でも、もう彼は過去にしか生きていない。彼の時間は未来へ向かって動かない。ひどく窮屈で悲しい現実だ。

 なのに、僕はそれを羨ましく思うんだ。

 僕たちの行く手は暗い。

 あがいてもあがいても、未来には霧ばかりだ。

 絶望に沈みながら、今日も電車に揺られている。


 VAIOの画面上のメールは、無情な事実を示していた。仮押さえしていたミュージック・イーゼルが即金で購入希望のオファーにさらされている。懇意にしている楽器店が一週間待ってくれるが、それ以上は取り置いておけないらしい。つれない文面だが、向こうも商売だ。そちらの注文を優先してくださいと返信を打った。

 まったく、どこの金持ちブルジョワだ。八十万近くポンと出せるなんて。

 こっちも無謀と言えば無謀だ。音楽仲間にいわせれば、機材のことになると僕の金銭感覚はバグっているらしい。それは否定しない。最初にローン組んだのがプロフェット・ファイブだっていうと、シンセ弾きにも呆れられる。

「タブラ・ラサ」の休暇が長びきそうだから、脇へ置いていたモジュラーシンセの導入を進めようと段取ったら、見事に頓挫した。

 自慢じゃないが、独創性がある方ではない。冨田勲のフォロワーがモーグ・シンセサイザーを欲しがるのと、「ソウ」のフォロワーである僕がモジュラーシンセにたどり着くのは同じ動機だ。プロフェット・ファイブも彼が使っていたから無理して買った。

 とにかく、ミュージック・イーゼルは僕の指から滑り落ち、出口の見えない「タブラ・ラサ」の休み期間の目標がひとつふいになった。ちまちま打ち込みに明け暮れている毎日だが、この退屈に落ち着くまで一悶着あったのは言うまでもない。

「時間がほしいならほしいでいい。今は歌えなくても待つ。ただ、帰ってくるつもりがあるなら言い訳は自分でしろ」

 いつもリヒトに丸投げするのは気が進まないが、彼相手でないとタクミは耳を貸さないんだから仕方ない。しぶしぶタクミは頭を下げた。とりあえず冷却期間は保たれた。ぎりぎりのバランスで。

 新しい曲を作る。音を組み立てている間は無心でいられる。止まっていることを忘れていられる。

 金曜日、二十四時。

 僕は「HONEST」という服を着て、仮想の広場で「ソウ」の思い出を語る。

 でも、この思い出が尽きたら、僕らはどうするんだ?

 答えは自分で見つけるしかない。


 ウチの高校はアルバイト禁止だから、おこづかいでやりくりしないといけない。親は普通に共働きしてる。一人っ子だけど、特に甘やかされてはいないと思う。スマホに着るもの、学費に食費に光熱費。ニュースは見なくても、今の世の中で子どもを育てるのがきびしいのはわかってる。私はそれなりに大切にされている。

 親孝行はできないけど、気はつかう。「ソウ」のアルバムとかは、ずっと使ってなかったお年玉貯金で買った。

 大したことをしてないのは、私がいちばんわかってる。

 夏休みも一週間たって、わけわかんない暑さをいいわけにゴロゴロしてたら、お母さんにお尻をはたかれた。

「いつまで寝てるの」

 適当に返事したら、目がつり上がった。

「うらら。ちょっとそこに座りなさい」

 ヤバい。なんか逃げられなさそう。お母さんがくしゃくしゃになったプリントをテーブルに広げる。隠していた進路指導のプリントだった。

「なんで見せなかったの」

 自分でも理由はわからないから、下を向いてた。お母さんのため息がつらかった。責められてるみたいで。

「少しは相談しなさい」

 口のなかで、歯切れの悪い「うん」が響く。

「それで? うららは進学か就職かどっちにしたいの」

 がっかりしちゃいけない。それがわからないから悩んでるんだなんて、口答えしちゃいけない。煮え切らない私に、お母さんはまたため息をつく。

「困ったわねえ」

 いつまでも返事ができないでいた。

 夕飯がすんで、お父さんが帰ってきた。お父さんはいつもにこにこしてるけど、お母さんより厳しい。お風呂上がりの私を呼びとめて、静かに言う。

「最後はうららのやりたいようにやればいいよ」

 お父さんはいつも正しい。正しいから苦しい。

「でも、やりたいことがわからないんだったら、とりあえずやれることからやってみたらどうだ?」

 部屋に引っこんだ私の前には、夏期講座のパンフレットが待ちかまえていた。

 わけもなくみじめになった。

 金曜夜のチャットルームに逃げるようにかけこんでた。


「スワン・ソング」の発売記念ライブの話が終わった。明日は塾もないから夜更かしできる。ちょっとずつだけど、僕たちは「ソウ」以外の雑談もするようになってきていた。

「何かおすすめの音楽はありますか?>HONEST」

「HONEST」はメジャーデビュー直後からトリムールティを追いかけている。きっと色んな音楽を聴き漁ってるんだろう。「ソウ」のアルバムは三枚しかないし、トリムールティの音源もだいぶ聞き込んだ。色のない毎日をやり過ごすため、新しい音楽に助けてほしかった。

「どの時期のSOWが好きですか?>COGITOさん」

「『エレクトロ・ロマンチカ』です」

 これは二枚目のソロでかなりダークだ。

「ジャパンの『錻力の太鼓』とかどうでしょうか」

 別ウィンドウでユーチューブを開いて「ジャパン 錻力の太鼓」で検索すると、アルバムまるごとアップされていた。コメント欄は英語ばかりだ。僕は小さな音で再生を始める。オリエンタルな旋律と癖の強い枯れた声が静寂にあふれる。

 しばらく聴き入っていたから、「うらら」の出し抜けな質問にちょっと気づけなかった。

「オネストさんって何してるヒト?」

 こういう匿名が前提の関係で、あまり訊いていいことじゃない。もし「HONEST」が「保守」さんだとしたら、真っ昼間や深夜に書き込んでる、どっちかと言えば怪しい人だ。でも、答える義務はない。黙殺すればいいだけの話だ。

 けど、僕もログを流さなかった。興味があった。

 気まずい沈黙――チャットルームでは単なるログの静止だけど――が満ちる。

「自由業」

 たった三文字。「HONEST」にしてはぶっきらぼうだな。動揺してるんだろうか。

「よくわかんない。具体的に何してるの?」

「うらら」は無邪気なのか図太いのか、さらに突っこんだ。「HONEST」がキレないか心配になる。

 またログが動いた。やっぱり一言だけだった。

「音楽」

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