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九曜

 いつものように僕はステージ下手の奥に陣取った。規則的なマシン・ビートが舞台を満たす。クラフトワークの「コンピュータ・ラブ」。僕らのバンドのオープニングを飾るいつものSE。僕は相棒の調子を確かめるように鍵盤を叩く。闇に場違いなきらきらした音が、Gの音程で鳴った。

 ギターのトモがすぐそばで眉をひそめるのが、暗がりでもわかった。わざわざアンプを切ってチューニングしている彼からすれば面白くないだろう。小さな舌打ちが聞こえた。

 そんな小競り合いは我関せずとばかり、ボーカルのタクミはご機嫌だった。リハのときから浮かれてたもんな。新しい彼女ができたって。さて、今度の子はいつまでもつかな。

 ドラムのサクヤがバスドラとクラッシュ・シンバルを鳴らすと、ベースのリヒトが応えて指で弦を叩いた。

 万全ではないけど、僕らの準備は整った。

 オーディエンスと僕らを隔てていた黒いカーテンが、さあっと左右に引かれる。もろに歓声を浴びたタクミはご満悦だ。

「こんばんは、『タブラ・ラサ』です!」

 サクヤがスティックでカウントを取る。リヒトが合わせてうねるベースラインを刻む。僕とトモも負けじと旋律を重ねてゆく。

 タクミの声が放たれるやいなや、最前列の女の子たちが嬌声をあげる。

 さあ、ここからは僕らの時間だ。

 夜はまだ始まったばかりだった。


 やっぱりアルコールは得意じゃない。

 飲めないわけじゃないけど、好きでもない。無理にハイになるのは、次の日にこたえる。

 なんて弱音を吐く僕はまだ二十五だ。いや、もう二十五なのかな。どっちだっていい。

 僕の名前はうすまこと。「タブラ・ラサ」ってバンドでシンセサイザーを担当している。まあ、まだインディーズでくすぶっているけど。これでも、小さなライブハウスくらいなら、そこそこ埋められるくらいの動員はある。

 華々しいことを言っても、世間的には僕はまだ何者でもない。ただのミュージシャン未満だ。

 上京して七年、いろんなバンドを渡り歩いた。中にはメジャーデビュー寸前までいったところもあるけど、僕の方の辛抱が切れたなんてこともあった。今のバンドは……そこそこ気に入ってる。答えに間があったって? 鋭いな。

 音楽性は及第点だけど、人間関係がめんどくさい。特にボーカルのタクミとはうまくいってない。どうしてって? またききにくいことをきくなあ。はっきり言えば、タクミはとびきり女癖が悪い。ファンを食う暇があるなら、ボイストレーニングにでもいけばいいのに。

 タクミみたいなのがいるから、バンドマンの信用がなくなるんだよな。僕? 僕はただのひねくれ者だ。ひねくれ者だけど、そこそこ音楽はできる。と思いたい。

 僕はかすむ頭を振って、中古のVAIOを立ち上げる。依頼メールが来てないかチェックしないと。

 前の前のバンドに在籍しているときに、ある音楽プロデューサーと出会った。ありがたいことに僕を見こんでくれて、ちょっとした仕事を回してくれる。おかげで、CMやゲームの音楽で食いつないでいる。

「『演歌調』⁉」

 だが、僕の薄っぺらい感謝の気持ちは、クライアントからの注文で消し飛んでしまった。

 日本酒のCMの仕事で、メールにはまぎれもなく「演歌調で十五秒ほどお願いします」とある。これはYMOチルドレンの僕には荷が重い。でも、できないとは言えない。NOイコールクビだ。僕の代わりなんて掃いて捨てるほどいる。あわててSPOTIFYで演歌のプレイリストを呼び出す。特徴さえつかめば何とかなる。

 要するに新手のペンタトニック・スケールだと思えばいい。僕は狭い部屋の中、イヤホンを突っ込んだまま、「北国の春」やら「箱根八里の半次郎」を聴き続けた。

 こんな僕を、ギターのトモは「小器用」だと皮肉る。あいつ、ギタリストなのに曲が書けないから、やっかんでるんだろう。対照的に、ベースでリーダーのリヒトは僕の仕事を快く思っているらしい。

「何事も経験だからね」

 ちょっと老成した感のあるリヒトは、僕より二つ上だ。

 バンドマンの裏側なんてこんなもんだ。僕は昼食代わりのカロリーメイトを頬張って、音の海に沈んでいった。


 だるい。

 毎日つまんない。

 はやりの動画見て、はやりのマンガ読んで、はやりのブランドに身を包む。

 そういうの、正直疲れた。

 私はそっとお気に入りのプレイリストを呼び出した。ホントのとこ、なんでこの音楽が気に入ってるのかもわかんない。だって、メロディらしいメロディはないし、ビートだってはっきりしてない。ただ、自然の音がごうごうと流れてる感じがする。

 スマホでそっとそのひとのサイトを開く。

「ルナティック・シンドローム」

 意味なんてわかんない。ただ、そのひとが残した音の歴史が、淡々とした文章で綴られている。

「ねー、何やってんの? 早く行かなきゃ売り切れちゃうよ!」

 月一の限定フレーバー。アイスって季節でもないだろうに、なんであのコはこだわるんだろう。

 友達じゃないのかって? ただの知り合い。

 私に友達なんてひとりもいない。

 みんなそう思ってるよ。友達なんていない、ただ私たちはゆるくつながってるだけ。

 ほんとうにひとりになるのが怖いから。

「うららぁ! バス出ちゃうよ!」

 ああ、うるさいなあ。私はもう少しこの音にひたっていたいだけなんだ。

「ルナティック・シンドローム」

 今度辞書で意味調べてみよう。

「今行くから! ちょっと待って!」

 なんで言えないんだろう。

 私なんておいていっていいよって。


 進路指導。

 きくだけで憂鬱な四字熟語。

 でも後回しにしてもそいつはずっと私の後をついてくる。わかってるよ、ただ時間をかせいでるだけだって。

 とりあえず名前を書く。

 中瀬うらら。

 就職か進学か。ずいぶんざっくりと分けてくれるじゃん。極端なんだよね。

 私は周りを見回した。みんなプリントを薄っぺらいカバンにしまっている。なんだ、馬鹿正直に今書くことはないんだ。とりあえず私もプリントをカバンに押し込んだ。

 みんなはここに書くことは見つかってるんだろうか。聞きたいけど聞けない。結局、私もこわいんだ。何かにひたむきになるのが。

「うららぁ」

 背中から声がかかった。

「なんだ、カノンか」

「なんだはないでしょ」

 すぐ後ろの席は、いつもつるんでるグループのアタマ、三枝さえぐさ佳音かのんだ。

「午後の体育、ブッチしない?」

「出とく。出席足んないから」

「変なトコで真面目だねえ」

 カノンは心配じゃないのかな。自分のこと。将来のこと。多分、聞いてもはぐらかされるだけだ。

 私は、カバンに詰め込んだCDウォークマンにそっと触れた。スマホでも音楽は聴けるけど、これはお守りだ。

 いつも持ち運んでるこの音を創ったひとは、若くで遠くへ旅立っていった。ちょっと華奢ではかないそのひとと私の人生はほんの少ししか重ならなかったけど、私はその思い出だけで生きていける。

 こんなせっぱつまった思いは、誰にも打ち明けられない。それでいい。私はこの気持ちと生きていく。

 ねえ、あなたは知ってる? 「ソウ」のこと。

「トリムールティ」の「ソウ」。

 ううん、私が彼を知ったときは、たったひとりで未知の音にむかっていった、ただの「ソウ」。

 私も彼のようになれたら。

 たったひとりで向かい風にあらがうように生きていけたら。

 唱えても唱えてもしかたのないことを、私はいつまでも唱えている。

 そのひとに届きますようにと、今も祈っている。

「ねーえー、うららぁ! うららぁ!」

 私はまだ、ひとりになる勇気も持てないで、せいいっぱい日常を生きている。


 我思う故に我あり。

 フランスの哲学者、デカルトの言葉らしい。

 我思う故に我あり。

 僕はそれを反芻する。

 デカルトという人は変わり者だと思う。神の存在証明までやったらしい。それによると、僕たちは完全者を想起できるから、完全者は存在しているということになっている。

 でも、僕は思う。完全者っていうことは、その不完全性においても完全でなければならないんじゃないかって。完全に不完全な存在、矛盾している。だから僕は神を信じない。かと言って、無神論者でもない。

 またつまらないことを考えている。

「柚月、問一の答え教えてくれよ」

 堂々とカンニングの相談とはおそれいるね。

 僕はさっきから背中をつついているシャーペンを無視した。

「こら、そこ何やってる!」

 巻き添えを食うのはごめんだ。僕はひたすら目の前の解答用紙に没頭する。

 その間にも、僕の頭からあの旋律は離れてくれない。

 母がブックマークしていたホームページから流れてきた音のかたまり。まるで空気のように僕を包んだあの音。

 その日から僕の世界に音楽は消えない。

 どうせ、百点なんだろうな。

 中間テストの答案を裏返しにして、僕は席を立つ。担任が見直しはしたのかとか何とか言っている。したさ。暇つぶしにもならなかったけど。

 僕は鞄に筆記用具を詰めて、悠々と帰り支度を始めた。


 こんにちは。

 僕はづきさとるという。

 都内のある私立中学に通う、中学二年生だ。

 自分で言うのもなんだけど、勉強はけっこうできる。スポーツも得意だ。つまり、今いる学校という名の金魚鉢の中じゃ、あまり困ることがない。そのせいか、毎日が退屈で仕方ない。贅沢な悩みなんだろうな。

 でも、僕はときどき無性に不安になる。僕は異常なんじゃないかって。同い年の連中は、ことあるごとに女の子の話ばかりしている。それにひきかえ、僕ときたら。

 やめよう、こんな話。僕の話なんて面白くもない。

 自分にこうでいするのは思春期の少年らしいって?

 そういう考え方もあるね。でも、やっぱり面白くないよ。自我の肥大した人間の自分語りなんて。代わりに趣味の話でもしようよ。

 すてきな音楽を見つけたんだ。きっかけは家のデスクトップパソコンだった。学校の課題をまとめるために、ネットで調べ物をしていたときだった。

 ブラウザにブックマークが無造作についていた。多分母のだ。父なら自分のノートパソコンで用は済ませる。

 とにかくそこに、変な名前のフォルダがあったんだ。

「TRIMURTI」

 妙な単語だ。トリムルティって読むのかな。僕はグーグルにその文字列をそのままタイプした。

 出てきた英和辞典には「三神一体」と表示されていた。

「三神一体:後期ヒンドゥー教の三神格」

 ちょっと心配になってきた。うちの母親はありふれた平凡な主婦だ(と思う)けど、おかしな宗教にハマっているのかもしれない。怖いもの見たさでブックマークフォルダをクリックした。フォルダには三つホームページが格納されている。その一つに目が止まった。

「ルナティック・シンドローム」

「狂気症候群」とでも訳せばいいのかな。なんだか香ばしい。僕は意を決してそのページに飛んだ。どうやら、あるミュージシャンのホームページらしい。洗練されたデザインの中に、動画が一つ埋め込まれていた。

 痩身の年齢不詳顔の青年が小さい窓の中で鍵盤に囲まれていた。ままよとばかりに動画をクリックする。

 そこからあふれてきた音楽は、僕の知っているどんな音にも似ていなかった。とても抽象的で、それでいて大気のように穏やかで、自然で。十分以上もある動画だったけど、僕は時を忘れてそれに吸い込まれていった。

 動画の終わりに「作曲・編曲:SOW」と短い字幕が現れた。「ソウ」って読むんだろうか。

 以来、僕は電信の海をさまよって、「ソウ」のことを調べ続けている。得たのは、彼が「トリムールティ」というユニットにいた情報と、いくつかの音源だけだった。

 もしあなたが「ソウ」のことを知っているなら。

 どうか僕にも彼のことを教えてほしい。


「取材、ねえ」

「そう構えることはないよ」

「ギャラは?」

「ない。載せてもらえるだけありがたいと思わないと」

 真っ昼間の喫茶店の一角で、「タブラ・ラサ」の緊急ミーティングが開かれている。野郎五人が固まって座っている絵面は、なかなかに熱苦しい。

 リヒトがブラックコーヒーを冷めるに任せて切り出したのは、とあるミニコミ誌からの取材のオファーについてだった。

 正直、僕はあんまり乗り気ではない。きっと時間のわりには大した記事は載らないんだろう。反対に、がっついているのはタクミだ。目立てれば何でもいいってやつだからな。トモとサクヤはそんなに自己主張しない。

「マコトはどう思う?」

 リヒトはよく僕に意見を求める。仕切っているのはリヒトだから、彼が決めればいいだろうに。

「リヒトがいいならいいよ」

「本当に?」

 見透かしたように僕の目を覗く。参ったな。

「うーん、今時ミニコミねえ。配布数どれくらい?」

「五百は下らないって話だけど」

「リヒトらしくないなあ。そんな眉唾な話に乗るの」

「はい、出たよ、マコト先生の慎重論が」

 僕とリヒトにタクミが割って入る。

「その『先生』っていうの、やめてくれないかな。僕は今リヒトと話してるんだ。邪魔しないでくれる?」

「まあ、二人とも落ち着けよ」

 まったく、リヒトがいなけりゃ、とっくに空中分解してるぞ、このバンド。

「今、『タブラ・ラサ』は正念場を迎えてる」

 リヒトが神妙な口調で告げると、僕もタクミも聞き入るよりほかなかった。

「動員は横ばい、レコーディングのめども立ってない。正直、資金繰りも厳しい。ライブのギャラを次のライブに充てるので精一杯だ」

 皆黙り込んでしまった。マネジメントだのブッキングだの、こみ入ったことはリヒトにおんぶにだっこだったからな。

「石油王でもスポンサーについてくれないかなー」

「茶化すな」

 軽口を叩いたタクミがたしなめられる。

「使えるものは何でも使いたい」

「じゃあ俺たちにきくまでもないじゃん。リヒトの中じゃ、とっくに答えは出てるんだろ?」

 タクミの言い分ももっともだけど、リヒトの性格上、高圧的に決めたくはなかったんだろう。こいつ、そんなこともわからないかな。

「さっきも言ったけど、僕はリヒトが決めたんなら、それでいいよ」

 はなはだ主体性を欠くが、僕はリヒトに助太刀した。トモとサクヤもぼそぼそと同意した。

「俺も反対しないよ」

 なぜかタクミは僕をにらんでいる。

「今まで通り、SNSでの拡散も続けてほしい」

「そっちは大丈夫」

「マコト先生はツイ廃だからな」

 なんでそう突っかかるんだ。喧嘩したいのか?

 きな臭い空気を察して、リヒトが僕に視線を送る。僕は喉元まで出てきた啖呵を飲み込んだ。

 神経がすり減るようなミーティングはお開きになって、僕らは三々五々店を後にする。帰りかけた僕をリヒトが呼び止めた。

「タクミのことだけど」

「ん?」

「大目に見てやってくれないか。妬いてるんだ」

「妬いてる?」

「君には華があるから」

「冗談言わないでよ」

「自意識過剰も困るけど、無自覚なのも考えものだな」

 リヒトは小さく笑った。

「『タブラ・ラサ』は、今最高の布陣なんだ。誰が欠けても駄目だ。腹の立つこともあるだろうけど、こらえてほしい」

 リヒトにこう言われちゃな。

「わかってるよ。善処する」

 リヒトの大きな手が、ぽんと肩に置かれた。

 彼はさりげなく伝票をつかんで、立ち上がった。

「僕も払うよ」

「たまにはリーダー面させてくれよ」

 本当にリヒトにはかなわない。

 僕は苦笑すると、彼と一緒に雑踏の中へ飛び込んでいった。


 人生初の取材は、ほどなくして実現した。と言っても、フリーペーパーに毛の生えたような代物だけど。

 訪れたのは、僕らと同年代の若い女性一人だった。ナチュラルメイクとカジュアルなパンツの似合う、快活な子だ。

 彼女は、リヒトに手の切れそうな名刺を渡して、ぴょこんとお辞儀した。

「『コスモポリタン』の矢萩やはぎです。よろしくお願いしまーす」

 はきはきと小気味よく名乗る。

「こちらこそよろしくお願いします」

 リヒトが矢萩さんにメンバーを紹介しようとすると、彼女はにこっと破顔した。

「あ、知ってます。あなたがベースでリーダーのリヒトさん。シンセのマコトさんに、ボーカルのタクミさん。ギターのトモさんに、ドラムのサクヤさん」

 胸を張って彼女は宣言する。

「実は、今回の取材、言いだしっぺは私なんです」

「もしかして俺たちのファン?」

 タクミがおどけて矢萩さんをうかがうと、彼女は真顔で「はい」と答えた。

「好きな曲ある? リクエストに応えちゃうかも」

「タクミ」

 リヒトがやんわりとタクミを牽制する。

「んー、『ビーイング・アン・イリーガル・エイリアン』とか」

 その曲はまずい。浮かれていたタクミの顔がこわばるのが僕にもわかった。タクミはそっけなく「そう」とだけ告げた。

「ビーイング・アン・イリーガル・エイリアン」は僕の曲だ。何が問題かって? この曲はタクミ抜きでも成立する。この曲のボーカルは僕なんだ。まあ、素では歌えないから、ボコーダー使うけど。あ、ボコーダーっていうのは、声を歪ませてマシン・ボイスみたいに加工できる機械のこと。とにかく、タクミが気に食わないのは間違いない。

 急にまとわりつくのを止めたタクミの機嫌も知らず、矢萩さんはリヒトにこれからのスケジュールを尋ねている。

 取材はリヒトに任せておこう。僕は機材の調子を確かめに、ステージの隅に置かれたプロフェット・ファイブに歩み寄ろうとした。

「マコトさん」

「はい?」

 矢萩さんに突然話しかけられて、僕の声は見事に裏返る。振り返れば、満面の笑みをたたえた彼女がいた。

「お話、いいですか?」

 ええ、と答えてタクミの方をチラ見する。やっぱりわかりやすくむくれている。

「さっき、リヒトさんに音楽のルーツを聞いてたんです。マコトさんのルーツも聞かせてください」

 僕は天を仰いだ。先にタクミを済ませてくれたら、角が立たずに済むのに。でも、あからさまに矢萩さんにそれは言えない。僕はぼそぼそと質問に答える。

「えーっと、小さい頃はYMO聴いてました。その流れで、クラフトワークとか」

「テクノキッズだったんですね。だから『タブラ・ラサ』でも打ち込み系を?」

「はい」

 早くタクミのところへ行ってくれという僕の願いも虚しく、彼女は質問を重ねる。

「おすすめのアルバムがあったら、教えてくださぁい」

「あー、アート・オブ・ノイズの『ジ・アンビエント・コレクション』」

「邦楽で何かありませんか?」

「トリムールティの『セントラル・ドグマ』とか」

「トリムールティ! 私も好きなんです!」

 タクミだったら、これにかこつけて矢萩さんを口説いてたかもしれない。けど、僕はバンドのフロントマンの気分の風向きを気にするただのシンセ弾きだ。生返事でごまかしておいた。

 矢萩さんはやっとタクミのところへ行ってくれた。

 僕は胸をなでおろして、サウンドチェックを始めた。

 今日のライブ、荒れなきゃいいけど。

 僕の不安は膨れあがる一方だった。


「お願い! おーねーがーい!」

 放課後、バス停につながる道で、カノンが盛大に頭を下げている。

「無理。ウチ、親が厳しいし」

「一緒にウチで勉強してることにすればいいし!」

「カノンの家は? 親は何にも言わないの?」

「ウチは平気! 放任主義だから」

 私はため息をついた。

 カノンのわがままは今に始まったことじゃない。カノンは息をするように他人を振り回す。しょっちゅう誰かに「お願い」している。

「なんで私なわけ?」

 大きな目をくるくるさせてカノンは言った。

「だって、うららいつも音楽聴いてるし。そういうの好きかなって」

 私の胸のあたりが、急に冷たくなった。

 私の好きなバンドは、もうこの世界に存在していない。私の好きなひとも、もうこの世にいない。

「悪いけど、つきあえない」

 ちょっと冷たすぎたかな。視界の端でカノンを見たら、泣きべそをかき始めた。

「うらら、ひどぉい」

 こうなると手がつけられない。私も突きはなしきれない。カノンの「お願い」をきかないと、グループからハブられるかもしれない。

「わかったから! それで、いつなの? ライブ」

 くるっとカノンは笑顔になった。

「来週!」

「何時から?」

「開場が六時半。開演は七時!」

「音源は? あるんでしょ? サブスクで聴ける?」

「まだインディーズだし、配信はないけど。なんで?」

「一応ライブ行くんだし、最低限の礼儀」

 説明してもカノンにはわからないかな。

 そんなこんなで、私は次の日、カノンからCDを借りた。「メメント・モリ」……何語だろ。

「タブラ・ラサ?」

 よくわかんないまま、私はいつものCDウォークマンから、「ソウ」のアルバムを外した。

 ボーカルのクセが強い。よく言えばエッジがきいてる。でも、私向きじゃない。

 トリムールティの「シン」は、もっと低音で渋かった。「シン」の声に慣れた私には辛いものがある。

 バックはそこそこ聴ける。ベースが歌ってるし、シンセかな、音がきらきらしてる。打ち込みも「ソウ」の音楽にどっぷりの私には好感が持てた。

 私はぼんやりとそのアルバムを聴いていた。

 今死んだら、「ソウ」と同じところへ行けるかな、なんて馬鹿なことを考えながら。

 五分がたった。

 不意にイヤホンから、ちゃかちゃかと気ぜわしい音があふれる。え、これ何?

 かけっぱなしのCDだ。私が気持ちを立て直すより早く、鼓膜をマシン・ボイスがひっぱたく。

 これはボコーダー? 「ソウ」も時々使ってた。ゆがんでるせいで、何歌ってるかはわからない。

 幽霊曲ゴーストトラックだ。たまにアーチストが遊びで、クレジットに載せない曲をアルバムの最後に収録したりする。

 私はスマホで「メメント・モリ ゴーストトラック」と検索した。

「ビーイング・アン・イリーガル・エイリアン」

 曲名がわかったころ、耳元でマシン・ボイスが、「ハロー・ウィー・アー・『タブラ・ラサ』」と告げる。

 びっくりした。でも、なんだかおかしかった。せっかくボーカルの人が歌いあげた世界観みたいなものが、最後の曲でぶち壊しになってる。なんか面白い。

 来週のライブ、楽しもう。

 私はちょっとスキップして、家路についた。


 次の金曜日、私はカノンと待ち合わせて、ライブに出かけた。中間テストの点がイマイチだったせいで、親を納得させるのに時間がかかった。

「あれー、うらら、そのカッコ……」

 私が着ているのは、地味地味なブラウスにジーンズだ。カノンはここぞとばかりに着飾ってる。動くたんびに、フリルがわさわさ揺れる。

「仕方ないじゃん、友だちのウチに勉強に行くって言ってんだから」

 トモダチという単語に違和感を覚えながら言った。

「そっかぁ、残念だねー」

 どうせカノンはすぐに忘れる。

 私はあたりを見回した。やっば、同年代のコはほとんどいない。ゴスロリ、黒系、仕事帰りのスーツの人、まとまりのない客層だ。

「整理番号一桁なんだよぅ! タクミと目が合うかも!」

 タクミ、タクミ……確かボーカルだ。

 ライブハウスのスタッフが出てきて、入場列を作り始める。整理番号は5番と6番。最前列行けるけど、押されるのはイヤだなあ。

「最前、いくの?」

「あったりまえでしょ!」

「押されたりしない?」

「真ん中は結構激しいかも。押されるのイヤなら、ちょっと脇にズレてたらいいよ。リヒトさんとマコトさんのファンは、そんな激しくないから」

 そう、と答えて、会場に入る。空っぽのステージに、無造作に機材が置かれてる。

 私は下手に並べられてるシンセに気を取られた。

 あれはプロフェット・ファイブだ。「ソウ」も使ってたビンテージ・シンセ。引き寄せられるように、私はその前に立った。カノンは真ん中、人が密集してる場所から動かない。

 いったん、ステージのカーテンが引かれて、プロフェット・ファイブも隠れてしまった。少し心細い。そのまま、三十分ほどたった。

 不意に周りが真っ暗になる。肌寒いのは、たちこめたスモークのせいだ。つめかけている女の子たちが色めきたつ。カーテンの向こうに、人の気配を感じる。

「タクミ!」

 カノンが真っ先に叫んだ。それをきっかけに、めいめいがばらばらの名前を呼びだす。

 カン、カン、カン、カン、と乾いた音が鳴る。

 カーテンがさあっと引かれた。

 光と音が、いっせいにあふれだす。

「こんばんは、『タブラ・ラサ』です!」

 ステージの中央に、細身のオニイサンがいた。金髪で、うっすらとメイクしてる。あれがカノンの「推し」か。

 私はなぜか冷静になって、正面に向き直った。誰があのプロフェット・ファイブを弾くんだろうって考えて。

 鍵盤の向こうに、さらにやせっぽちのオニイサンがいる。黒髪、大きな目、ちょっとあどけなさの残る顔立ち。左耳だけにルーズリーフの金具みたいに、いっぱいピアスをつけてる。数えてみたら、七つあった。彼が長い指で鍵盤を叩くと、のびやかな電子音がフロアにこぼれる。小刻みに頭でカウントをとりながら、その人は機材に囲まれて忙しそうにしている。シルエットが「ソウ」に似ていて、涙が出そうになった。

 いけない、楽しまなきゃ。

 カノンの言ったとおり、ここはセンターほど殺気だっていない。でも、楽しもうとすればするほど、トリムールティのことが頭から離れない。

「ソウ」はもういないんだ。

 わきたつオーディエンスの中で、私だけが下を向いて、沈みこんでた。

 何が演奏されているのかもわからないまま、何曲かが過ぎた。

 異変が起きたのは、ライブ中盤だった。

 最初は、歌声がざらざらし始めただけだった。だんだんその声がつらそうになって、ついにボーカルが咳きこんだ。彼は急いでアンプの上のドリンクをあおったけど、ひび割れた声は戻らなかった。

 上手にいるベーシストが彼に駆けよって、何か話してる。ボーカルは答えてるけど、首を横に振った。ベーシストがさらに早口で話しかける。それから逃げるようにして、ボーカルはステージから楽屋口に消えた。

 今度はベーシストは、シンセ弾きに近づいた。一言くらい何か告げると、ベーシストも楽屋口に走る。

 ステージにはシンセとギターとドラムが残された。どうなっちゃうんだろう、これ。

 会場はどよめいてる。不安が周囲をおおう。

 私はすがるように、プロフェット・ファイブ使いを見ていた。

 彼は静かに、マイクのついた装置を引き寄せた。

 底抜けに明るいトラックが闇に鳴る。この曲、覚えてる。「ビーイング・アン・イリーガル・エイリアン」だ。

 マシン・ボイスが響きわたった。私の近くにいた女の子たちが、たちまち揺れる。話が違うよ、カノン。「激しくない」んじゃないの?

 みんなが歌ってた。ステージのその人に合わせて。

 彼がシンセから手を離した。両手を両耳の後ろにあてて、聞き耳を立てるみたいにした。とたんに、会場が大合唱する。

「ハロー! ウィー・アー・『タブラ・ラサ』!」

 彼はにっこり笑って、ひとつ大きくうなずいた。ループする電子音を聴きながら、また鍵盤を叩く。

 きらびやかな旋律がやんで、再びステージが静かになる。

「マコトさぁーん」

 口々に彼の名前が呼ばれた。彼はガチャガチャとボコーダーのスイッチをひねりまわしてる。

「えー」

 滑舌の悪い声が響く。

「ちょっと待ってください。タクミは少し休んでます」

「マコトさん、しゃべって!」

 彼は面白いほど動揺していた。助けを求めるように、ギターとドラムの方を見る目が泳いでる。

 ギターの人がほがらかに「マコト、話せ!」とはやしたてた。バスドラもドンドンと合いの手を入れる。彼はいっそう困った顔をした。

「あのー、もう少し待ってください……えっと、タクミは……」

 この人、無理に話さない方がいいな。でも、私はなんだかとてもおかしくなっていた。同じプロフェット・ファイブを弾いていても、「ソウ」と全然違う。当たり前のことが、すごくあたたかい。

 しどろもどろになっていた彼を助けるようにスポットライトが輝いた。その光は彼ではなく、舞台の中央を照らしている。

「タクミ!」

 女の子たちの視線が真ん中に集まった。

 すねたような表情のボーカルが、ステージに復活している。ベーシストにうながされて、彼はぴょこんとお辞儀した。ドラムのスティックが、私たちに考える暇も許さずに、カウントを取る。

 私は、もう一度真っ正面を見た。

 心底安心したようなシンセの人が、そこにいた。

「タブラ・ラサ」のマコト。

 覚えておいてあげてもいいと思った。


 手っ取り早いのは母に直接尋ねる方法だ。

 でも、ご多分に漏れず、僕の家もディスコミュニケーション気味ときている。それに、よくあることだと思わない? 思春期の息子が両親を避けるってさ。

 塾からの帰り道、僕は「ソウ」のことをどうやって調べようか思案していた。

 ああそうだ。父が今度の中間テストのご褒美は何がいいってきいてたな。スマホ……は意外に鬱陶しいから、ノートパソコンにしよう。

 都合良く子どもの顔を使い分けるのは、僕だけの特権じゃないよ。むこうだって、自分に得にならないときには、大人面しない。

 駅前に若い女の子たちがあふれていた。

 ふーん、ライブハウスか。「トゥデイズ・アクト……『タブラ・ラサ』」。名前だけは立派なバンドだな。意味わかって名乗ってるんだろうか。まあ、僕には関係ない。

 勘違いしないでほしいけど、馬鹿にしているわけじゃない。むしろ羨ましいと思っている。バンドが? 違うよ。女の子たちの方だ。なぜか彼女たちにくらべて、僕ら男は意欲がない。仕事に生きるから? 詭弁だね。

 雑踏を人にぶつからないように気をつけながらやり過ごして、いつもの電車に乗りこむ。疲れ果てた顔、顔、顔、うんざりだ。早く家に帰りたい。矛盾してる? そうだね。僕も疲れ果てた群衆の一部なのは認めるよ。

「ただいま」

 もう十時だ。ご飯とお風呂を済ませて、調べ物してたら、十二時をまたぐな。

 僕はぼんやり食事をとって、風呂に入った。ぼうっと「ソウ」のことを考えながら。

「ソウ」。本名は明かしていない。十年ほど前に、トリムールティというユニットだかバンドだかに在籍。トリムールティは五年ほど活動して、キャリアの最盛期に突然活動停止した。正確には今も「活動停止中」だ。ボーカルの「シン」とシンセサイザーの「アキ」と「ソウ」で構成されている。「シン」と「アキ」は、トリムールティの活動停止後、静かに音楽界から去った。「ソウ」だけが音を紡ぎ続けた。

 彼の音楽性は幅広い。トリムールティの時代は、ダンスミュージックに近い曲も書いていたけど、ソロになってからはアンビエントやチルアウトに傾倒した。

 僕が偶然出会ったのは、ソロ時代の曲だ。

 残念ながら、彼は一年と少し前にこの世を去った。

 もっと早くに出会いたかった。今思うのは、ただそれだけだ。

 トリムールティの映像は動画サイトを検索すれば、それなりに残っている。でも、「ソウ」のソロはあまり評価されていないのか、公式サイトのものくらいしかない。

 僕は貯金を切り崩して、オークションサイトでいくつか「ソウ」の音源を入手した。

 何かにのめりこむのは生まれて初めての経験だ。危ういんだろうな。死者を追って、ネット漬けになるなんて。

 本当に「ソウ」には生きていてほしかった。僕の前に未来を見せてほしかった。過去の亡霊を追わせないでほしかった。

 ごめん。ただの愚痴だ。忘れてほしい。

 僕がごねようがごねまいが、日はまた昇って明日は来る。学校だってある。のぼせる前に風呂を出よう。

 僕は洗面所へ出ると、鏡の前で笑顔を作った。

 多分、きっと明日も大丈夫だ。


「柚月くん」

 まどか総一郎くん。僕の唯一の友達。

 彼はいつものようにおずおずと、放課後の僕に話しかける。長いまつげ、おとなしい物腰、まだ高い声。

「よう、オカマ。また『柚月くーん』か?」

「圓が誰と話そうが、彼の自由だろう。それに、今時『オカマ』なんて言ってたら、どこでもやっていけないのは君の方だ」

「こわいこわい」

 きつい口調で釘を刺すと、同級生はすごすごと撤退する。ああいう手合いにはこれくらいでちょうどいい。

「ありがとう」

「事実を言っただけだよ。あんなの、ほっとけばいい」

「柚月くんは強いね」

「そうかな」

 圓くんが感じる僕の強さは、大人社会に担保されたものだ。成績が良くて、従順な模範生。だから大人たちは僕に味方してくれる。まっとうなことをまっとうに主張するふりをしている僕に。

「あの、今日の数学の最後の問題だけど」

 僕らの中学は普通クラスと特進クラスに分かれている。特進クラスは中学二年生の範囲をとっくに終えて、中三で習う二次方程式や幾何学に足を突っこんでいる。中三に上がれば、受験対策一本だ。この不毛な競争は、僕らが高校に上がっても続く。首尾良く目当ての大学に進学できたとしても、今度は就職のための勉強だ。資格試験に課外活動……それでやっと社会に出たとして、どうなるんだろう。終身雇用なんておとぎ話、とっくの昔にはやらなくなってる。

 僕たちの行く手は暗い。

「柚月くん?」

「ごめん。最近寝不足で」

 圓くんに言い訳しながら、大あくび。我ながら、無駄なことをしているのかもしれないと思っている。もういなくなった人間や、その周辺のことを調べまわっているだなんて。

 特進クラスに行けば、さっき圓くんに暴言を吐いた馬鹿みたいなのはいないと思ったんだけどな。あいつ、名前はなんていったかな。覚えてない。まあ、群れを作れば必ず落ちこぼれはできる。

 僕だって、もっと優秀な群れに投げこまれたら、今みたいに涼しい顔はしていられないだろう。僕の立場なんて、そんな危ういものだ。

「ソウ」はどうだったのかな。

 二次方程式を解く僕のシャーペンの芯がぽきりと折れる。ほうけていた僕を、心配そうに圓くんがみていた。

「大丈夫? 疲れてない?」

 大丈夫、と答えながら、僕は圓くんに視線を合わせる。彼こそ尊ぶべき人間だ。優しくて、他人のことを思いやれて、困っている人間を放っておけない。しばらくそうしていたら、照れくさいのか、彼はついっと目をそらす。

「ごめんね。もう帰ろうか」

 終業のチャイムから三十分以上もたっていた。

 帰っても家に鞄を放りこんで塾に出かけるだけだ。

 でも、僕に他に行くあてはない。やることも、やりたいこともない。

 逃げなのかもしれないな。

 それでもいいんだ。

 今は、今だけは「ソウ」のことを追わせてほしい。


 ツナイデ。

 確かにリヒトはそう言ってた。

 つないで。意味がわかるのに時間がかかった。その間に、リヒトはタクミを追って楽屋口に消えた。

 あとには僕とトモとサクヤが残された。

 シンセとギターとドラム。何をするにも中途半端な編成だ。これでつなげって? 無理だ。MCするにしても、それはほとんどタクミの役目だったし、たまに喋るのはリヒトだった。

 僕らはパニクってた。トモもサクヤも固まってる。

 フロアがざわつき始めた。まずい。流れが止まる。

 何とかできないのか? 僕は麻痺した脳で考える。指先が震えてる。

 あ。

 一曲だけある。今できる曲が。あの曲のオケはほぼ打ち込みだ。でも、やっていいのか? トモとサクヤをうかがうと、二人もきょろきょろあたりを見回しているだけだった。救援は望めそうにない。

 僕は腹をくくってVAIOからシーケンスソフトにアクセスした。

 同期プログラムシーケンサーを回せ。

 頼む、回ってくれ。

 ボコーダーを引き寄せる指はまだ震えている。

 回れ……回れ……回った!

 やたらポップで鮮やかな音が爆音で響く。永遠に感じられる数秒、鼓動が耳元で聞こえた。

「ビーイング・アン・イリーガル・エイリアン」。歌詞は適当に書いたデタラメな英語だ。僕はボコーダーに向かって必死で歌った。そのとき。

 声が聞こえた。誰? 誰が歌ってるんだ?

 オーディエンスだ。みんなが歌ってくれてる。僕の書いた、意味も何もないような言葉の羅列を。

 胸が熱かった。僕の近眼でぼやけた視界に、たくさんのオーディエンスがにじんだように映る。ああ。

 ありがとう。助けてくれて。

 だからもっときかせてほしい。君たちの歌声を。

 キーボードから指が離れた。

「ハロー! ウィー・アー・『タブラ・ラサ』!」

 うん、これでいい。


 いきなりトモが僕の脇腹をこづく。

「ちょっと、何?」

「『何?』じゃないよ!」

 ライブがはねて、ステージにつながる楽屋口のカーテンが引かれた瞬間、トモとサクヤがにやにやと笑いだす。

「すっごい度胸」

 サクヤが一言。

「今日のMVPはマコトで決まりだな」

 僕は合点がいかずに首をかしげた。

「あんまり覚えてない」

「あれも覚えてないの? 『歌え!』ってやったやつ」

 トモが両手を両耳の後ろにあてて、聞き耳を立てるようなポーズをとった。心当たりがない。首を横に振る。

「嘘だろ、おい」

「てっきり冷静だとばかり……」

「めちゃくちゃテンパってた」

 覚えているのはそれだけだ。どうしようどうしようって思ってて、なぜかボコーダーのスイッチを切って、自分の間抜けな声で我に返ったところからしか記憶がない。

 リヒトもにこにこ笑っている。

 彼は僕に手を差し出した。握手? なんでだろう。わけのわからないまま手を取ると、ぎゅっとハグされた。それを遠巻きにながめているタクミの顔が蒼ざめているのが気になった。

 打ち上げは終始変な雰囲気だった。普段饒舌なタクミは黙りこくって、トモとサクヤが盛んに僕に話しかけてくる。リヒトはいつものように、マイペースでビールを口にしている。

「お疲れ様です!」

 お客さんに埋もれて取材していた矢萩さんが、大きなデジカメを首にぶら下げて現れた。

「一時はどうなることかと思いましたよ!」

「いい写真、撮れましたか?」

 サクヤが矢萩さんに紙コップを手渡す。彼女は会釈するとウーロン茶を一気飲みした。

「はい、ばっちり!」

 彼女が差し出した液晶画面には、僕がさっきのトモのポーズできれいにおさまっている。

「なに、これ」

「こいつ、テンパりすぎて、覚えてないんだって」

「またまたぁ」

 今夜はいったいなんなんだ。

「じゃ、俺は先に帰るわ」

 そう言えば、目立ちたがりのタクミがおとなしいな。

「喉」

 リヒトがタクミに声をかける。

「医者に診てもらっておけよ」

 タクミはあいまいに返事をすると、夜の街に消えた。

「僕も帰ろうかな」

「マコト」

 リヒトが焼きたてのDVDディスクを僕に手渡した。

「今日のライブ。ちゃんと見ておいたほうがいい」

 僕らのバンドは、毎回記録用のデジタルビデオカメラを回している。なんで今回に限って、打ち上げでディスク渡すのかな。次のミーティングでもいいのに。

 リヒトの真意が気になった僕は、帰宅してすぐにそれをチェックしたのだが。

「最悪……」

 僕が作業場で悶絶したのは言うまでもない。

 今更ながら、顔から火が出た。恥ずい。

 ライブの後はいつもツイッターでつぶやくんだけど(タクミが僕のことをツイ廃だと言ってたのは本当だ)、どんな神経でつぶやけばいいんだ。それでもツイ廃の悲しさで、「本日はご来場ありがとうございました」とだけつぶやいたら、即座にリプがたくさんぶら下がって、いたたまれなくなった。習慣になってる自己検索エゴサーチも、とてもじゃないができたもんじゃない。

 頭を冷やそう。

 僕は眼鏡をかけて、サブ機のディスプレイに向かった。

 久しぶりに「ソウ」のサイトにでもアクセスするか。

 古いパワーブックのトラックパッドに指を這わせ、ブックマークを探し当てる。こいつとも長い付き合いになっちゃったな。大分型落ち感は否めないけど、この頃のアップルのセンスは良かったな、なんてぼやきながら。

「ルナティック・シンドローム」

 僕は何も考えずに、ブックマークをコンコンと人差し指でダブルタップした。

 見慣れた風景が立ち上がるはずだった。

 でも。



404 NOT FOUND



 あれ。

 スマホ、調子悪いのかな。昨日まではなんともなかったのに。

 私は「ルナティック・シンドローム」のページを上から下へスワイプした。やっぱりダメだ。謎のメッセージが画面で頑張ってる。

 屋上でクリームパンと牛乳をかわりばんこに口にして、しばらく格闘した。他のページは表示されるんだけど。

 これって、「ソウ」のページだけなのかな。

 試しにユーチューブに飛んでみる。ごちゃごちゃとサムネがひしめきあういつもの絵が表示された。

 まあ、いいか。きっとちょっと待てば戻るし。

 私はユーチューブの検索ボックスに、「SOW」と打ち込んだ。いくつか動画が浮かびあがる。

 私はまだ気づいていなかった。

 その謎のメッセージの本当の意味に。

 昼休みの終わりのチャイムが鳴る。

 じゃあね、「ソウ」、またあとでね。

「あとで」なんて、私はとことんのんきだった。


 見慣れないエラーメッセージにデスクトップパソコンが占拠された。

 僕は息を吸ってF5キーを叩く。エラーは居残ってる。

 キャッシュクリア。これでも直らないな。回線の問題だろうか。

 いつも使ってるグーグル検索は生きてる。回線の不具合じゃないな。

「404 NOT FOUND」で検索してみる。

「クライアントの要求に対応するページが既に存在しないことを意味する」エラーコードだって?

 ゆっくり頭で三度考える。そして、僕は理解した。

「ルナティック・シンドローム」はもう存在していない。

 心臓がいったん冷える錯覚にとらわれて、そのあと全身の血が逆流しているのかと思えるほどのめまいに襲われる。

 消えた? 「ソウ」のホームページが?

 待ってくれ。まだ消えないでくれ。

 もっと彼のことが知りたいんだ。

 手の甲に涙が落ちる。僕はひとりすすり泣いた。


 午前四時。

 僕は一睡もできなかった。あれからずっと、パワーブックの画面は404エラー表示のままだ。頭の中からなにもかもがはじけ飛んでた。僕が僕であることさえ。

 来るべきときがきただけなのかもしれない。「ソウ」が不在では、いつまでもホームページを保てないのかもしれない。

 でも、今じゃないだろ?

 僕は「ルナティック・シンドローム」を削除した誰かに猛抗議したかった。

 今「ソウ」の痕跡を消してしまったら、僕らはどうやって彼にたどり着けばいいんだ?

 こわかった。そりゃ、僕と彼とじゃ格が違うけど、同じミュージシャンを名乗るものとして、あまりにあっけなく彼と彼の音楽が消し去られるのがたまらなかった。

 彼がいなくなってから一年とちょっとだ。まだ僕らには、いや、少なくとも僕には彼が必要だ。

 なんで「ルナティック・シンドローム」を記録アーカイブしておかなかったんだろう。けど、たとえそうしていたとして、彼が緩慢な死を迎えるのを食い止められるか?

 答えはNOだ。

 彼がこの世を去った瞬間から、風化は始まってる。人の記憶なんてそんなものだ。

 音楽なんてそんなものだ。

 僕の心を雲が覆う。あの「ソウ」でさえ消えゆくんだ。まして、僕なんか。

 いつの間にか立ち上がって、狭い部屋をうろうろしていた。落ち着け。落ち着くんだ。

 何か彼を残す方法はないのか?

 またパワーブックを前にして、ない知恵をしぼる。

 あてもなく機械的にキーボードを叩く。「SOW」だとか「TRIMURTI」だとかとりとめもなく。公式が消えたばかりだから、まだ検索エンジンには「ルナティック・シンドローム」が浮かびあがってくる。あとは、オークションサイトとか、ファンアートだとか……

 ファンアートか。

 そうか、「ソウ」は僕らの心の中にまだ生きてる。

 あんまりうまいやり方じゃないけどな。

 僕はとあるサイトを訪れて、行動を開始した。


 おかしいって気づいたのは、三日もたってからだ。

 いつまでも「ルナティック・シンドローム」から意味不明な文字が消えない。

 アタマよくない私でもわかる。何かがヘンだって。

 私はスクショを撮って、同じクラスの小林って男子に見せることにした。ホントは、あんまかかわりたくないんだけど。小林って、典型的オタクっていうか。

「ちょっと顔貸してくれる?」

 私が声をかけたら、眼鏡の裏までテカテカな小林が、さらにテカテカしてる。

「何かな、中瀬くん?」

 妙な期待してるんじゃないだろうな。うー、ヤだなあ。

「これ、何かわかる?」

 さっさと切り上げよう。私はスマホの画面を小林の鼻先に突きつけた。

「404エラーがどうしたの?」

「そんだけじゃ意味わかんない。もっとわかるように説明しろ」

 小林が眼鏡を直す。かっこつけんな。

「端的に言うと、『お探しのページは存在しない』ってことになるかな」

「存在しない……」

 すうっと教室の風景がフェイドアウトした。

 え、どういうこと? 存在しない? ないってこと?

「三日前まではあったの! いい加減なこと言うな!」

 私は気力をふりしぼって小林にどなる。

「三日『も』前じゃねえ」

 小林が何を言っているのか、私には理解できなかったし、もしできたとしても、理解したくなかったと思う。

「ふざけんな!」

 そのとき、私は小林じゃない誰かをどなりつけたかったんだろう。

 こんなにかなしいのは二度目だ。

 また「ソウ」が消える。私の目の前から。

 あのときと同じ、ううん、それ以上の痛みが体の中をかけぬける。ある日突然「ソウ」が消えた日。いつもと同じ毎日がこなくなった日。

 ぽろぽろと涙がこぼれた。

 晴れた日の朝、ホームルームの後、私は泣きつづけた。


「悟、塾は?」

 母がドアの向こうで呼んでいるのが聞こえる。

「気分が悪いから休む」

 大丈夫、とおざなりな質問が飛んだけど、僕の耳には入らなかった。僕はベッドにもぐりこんでた。

 たかがホームページと思うだろう。だけど、僕にとってはそれが彼の大半だった。「ソウ」は既に鬼籍の人となり、情報はほとんどホームページに蓄積されていた。動画、過去のライブ、彼の言葉……失われたものはあまりに大きい。

 籠城を続けていたら、知らないうちに日が暮れていた。寝入ってしまったらしい。あたりはすっかり暗い。

 僕はのろのろとベッドから這いでた。新興住宅地の夜はひどく静かで、静かすぎていて、自分の足音が聞こえた。ぺたぺたと素足が不快な音を立てる。

 デスクトップパソコンはリビングの隅に置かれてる。

 もう「ルナティック・シンドローム」はない。

 わかっているのにパソコンを起動する。半ば習慣で、僕はブックマークフォルダをダブルクリックする。

「404 NOT FOUND」

 何度更新しても、その文字列は消えない。

 どうすればいいんだ。

 どうすれば、また「ソウ」にたどり着ける?

 記憶の断片を求めて、気がつけばユーチューブにいた。無意識に「SOW」と叩いて、いくつかの動画を確認する。公式に埋め込んでた動画もユーチューブ使ってたからな。ここはまだ存在している。水たまりに巣くったボウフラのように、僕はそこに留まりつづけた。クリックするたびに、馬鹿みたいに明るいネットCMが流れて、そのあと「ソウ」がいつものように演奏を始める。

 一通り動画を再生し終わったら、また最初から始める。僕はループの中に閉じこもってた。

 でも、どこかでわかっていた。いつまでもここにいてもどうしようもないってことが。CMが始まるたびに、否応なく現実がのしかかってきて、僕の首筋をちりちりさせる。

 どこか。ここではないどこか。

 まだ「ソウ」の存在している世界はないのだろうか。

 僕はあてもなく電信の海をさまよいつづけた。


「保守」

 その二文字を打ちこんで、僕はまた伸びをした。

 かれこれ一週間か。我ながら馬鹿なことをしていると思う。

 僕がたどり着いたのは、「ハッキングから今夜のおかずまで」を売りものにする巨大掲示板だった。一時期ほどの勢いはないけど、今もそれなりに賑わってはいる。ここでは数多のスレッドが、扇情的な見出しで僕らを招いてる。

 トリムールティのスレッドもあるにはある。でも、五年前に動きを止めたバンドのスレなんて、過疎る一方だ。それでも「ソウ」が在りし日は、情報交換や思い出話で盛り上がることもあった。今じゃアンチもわかない。

 今更感がありありだけど、僕は「ソウ」の追悼スレッドを立てた。このもどかしさを誰かと共有したかった。彼が抹消されて宙ぶらりんになったこの気持ちを。

 書き込みがないと、スレッドはデータの墓場送りだ。僕は壁打ちにも等しい孤軍奮闘を続けている。

 誰も来ないのかな。

 こんなネットの吹きだまりで待ってどうなるんだろう。書き込みらしい書き込みは、僕の最初の一件だけだ。虚しくブラウザを更新する。

 こうやって細々と工作したところで、僕の狼煙なんて線香の煙にもなりやしない。どうせ検索エンジンにも引っかからないだろう。

 仕方ない、作業に戻るか。

 今週は依頼が立てこんでいる。僕はVAIOを起動させて、打ち込みを始めた。時計の秒針の音が意識からすうっと消えてゆく。

 何時間そうしていただろうか。日付は既に変わってしまっていた。アイフォンがぶるぶる震えた。こんな時間に誰だろう。

 リヒト。液晶画面が回線の向こうを表示する。

「はい、もしもし? うん、起きてた。ミーティング? 明日? なんでまた急に」

 空いている片手でトラックパッドをタップする。追悼スレッドが再読込される。

 RIP SOW

 アルファベットが六文字。誰かが応えている。


 行き着いたのはスラムだ。もちろん本物の貧民窟じゃない。ネットの行き止まり。僕は「ソウ」を求めて、そんなところにまで潜っていた。

 噂でだけ聞いていた巨大掲示板。寄りつくことなんかないと思ってた。もしかしたらって思いが、僕の足を止める。

 使い方もわからないから、とにかく検索してみる。

「SOW」

 二件ヒットした。最初のはトリムールティのスレッドだ。スレッドのタイトルにくっついているカッコ書きは書き込みの件数だろうか。三百を超えている。僕はまずそこから当たってみた。

 最後の書き込みは……けっこう最近だ。

「『ルナティック・シンドローム』ってなくなっちゃったんですか?」……そうだよ。

 もう一件は「ソウ」の追悼スレッドだった。カッコの中の数字は一桁だ。トリムールティのスレッドは、さっきの書き込み以外はかなり古いものだ。「ソウ」の急逝後、ヒステリーみたいな書き込みがいくつかあって、その後ぱたっと途切れていたが、「ソウ」の追悼スレッドは新しい書き込みばかりだ。

「保守」という書き込みがある。時間はまちまちだけど、毎日途切れずに続いている。数は六つ。同一人物かな。

 他のスレッドを覗いてみたけれど、ネットスラングが激しくて受けつけなかった。トリムールティのスレッドでさえ大同小異だ。僕は「ソウ」の追悼スレッドに目を走らせた。

「唯一無二の音楽家SOWの逝去を悼むスレッドです。あなたの思いを綴ってください」

 比較的まともだ。ここでならなんとか息ができそうだ。でも、どう書けばいいんだろう。

 RIP SOW

 安らかに(レスト・イン・ピース)、ソウ。

 それだけ残した。過剰な言葉は要らない。もう午前一時だ。明日にさわるから寝よう。

 それっきりにするつもりだった。なのに、僕は理由もなく、次の日に追悼スレッドをチェックしていた。

 書き込みが増えていた。「保守」ではない書き込みが。

 僕は貪るようにそれを読んでいた。


 CDウォークマンが「ソウ」のアルバムを鬼リピしている。かぎりなく自然に近い音を聴きながら、私は一生懸命考えていた。どうやったら「ソウ」につながれるんだろうって。それで気がついた。ホントは今までも私はひとりだったんだって。

「ルナティック・シンドローム」が消えたから、急に心細くなったんだ。ごまかしたってムダだ。さみしい気持ちは消えはしない。このさみしさをなんとかしなきゃ。

 カノン……はダメだ。自分のことしか考えてない。

「ソウ」のアルバムをBGMにながめる世界は、とても色鮮やかなんだけど、孤独を強く感じる。蹴るように席を立って、教室をうろうろする。みんなが口パクしてるみたいに見える。

 何気なく小林の後ろを通った。スマホの画面が目に入る。なんかエロい広告が目に入るんだけど。休み時間に何見てんだよ。

 それは一昔前にはやった掲示板サイトだった。なんとかチャンネル、だったっけ。よくわかんないけど、あんまりいい噂はきかない。でも、話題だけはあるって何かで言ってたような気がする。

 まさか「ソウ」の手がかりなんてないよね。

 私は家に帰ってから、こっそりそのサイトにアクセスした。やっぱエロい広告がウザい。さっさとスクロールして、やっと「板一覧」というところまできた。ここで検索するのかな。「SOW」……あ、ヒットした。

 トリムールティの掲示板と、「ソウ」の追悼掲示板がある。とりあえず「ソウ」の追悼掲示板をタップした。

「唯一無二の音楽家SOWの逝去を悼むスレッドです。あなたの思いを綴ってください」

 そのあと何行か「保守」って書き込みが続く。

「RIP SOW」

「『ルナティック・シンドローム』なくなってしまいましたね。残念です」

「もう少し続けてほしかったです」

「私もそう思います」

 ここにまだいたんだ。まだ「ソウ」のことをおぼえていてくれる人が。私も何か書いておこうかな。

「ソウは永遠に私の心のなかでいきています」

 照れくさいけど、どうせ「名無し」なんだからいいか。


 リヒトが指定したのはカラオケボックスだった。僕らみたいなお金に縁のないバンドマンとか芸人さんとかが頼るのは喫茶店やファミレスだけど、カラオケボックスか。秘密の話でもあるんだろうか。

 夜はネオンで明るい繁華街も、午前中はうそ寒い通りだ。収集車が積み残したゴミ袋がスナックの店先にさらされていた。見慣れた長身が雑居ビルの前でたたずんでいる。彼は僕を認めると、右手を小さく上げた。

「待ち合わせ十時だったよね。みんなは?」

「平常運転」

 リヒトは涼しい顔で返す。この場合の「平常運転」は遅刻を意味する。

 結局前回の緊急ミーティングはタクミがすっぽかして流れた。トモもサクヤももちろん僕も、大いに機嫌を損ねたのだが、リヒトが頭を下げて仕切り直しを頼んだ。

「それで、タクミは?」

「じきに来る」

「また無断欠席じゃないだろうな」

 サクヤが寝ぼけ眼で現れた。

「十分遅刻」

「そうカタいこというなよ」

「そうそう」

 ちゃっかりトモが便乗して姿を見せる。

「五分単位で時間にこだわるのは日本人の悪い癖だ」

 開き直った。これ以上つっぱってもつまらないからやめる。僕は黙ってみんなとタクミを待った。

 それから更に十分くらい待っただろうか。曲がり角からおなじみの金髪が登場だ。知らないバンドのTシャツにデニム、ポケットに財布でも突っ込んでるんだろう、ベルトにチェーンをじゃらじゃらさせている。

「遅い」

 トモがぴしゃりと言う。

 タクミは謝りもせず、「おう」とだけ答えた。

「時間は守れ」

 リヒトが注意すると、遅刻組三人がいっせいにしょげる。最初からおとなしくしてればいいのに。

 二時間予約を取って、僕らはブースに入る。注文したドリンクが全部運ばれるまでリヒトは無言だった。

「今日はタクミから話がある」

 視線がタクミに集まった。彼はぷいっと顔をそらす。

「リヒトが言ってくれよ」

「自分で言え」

 何だろう。まさか結婚とか。サクヤはもっと悪い想像をしたらしい。

「誰か妊娠させたとかじゃないよな」

 僕とトモもサクヤにつられて蒼ざめた。ありえる。

「ちげーよ!」

 タクミが即座に否定する。

「ちょっと喉の調子が悪いだけだよ!」

「それだけじゃないだろう」

 リヒトににらまれて、タクミは不承不承続ける。

「初期の声帯ポリープ。大したことないって」

「それで? 歌えるのか?」

 トモの質問に、タクミはなかなか答えない。

「普通『大丈夫か』とかじゃないのかよ」

 返事をしたと思ったらこれだ。

 タクミは前にも喉を痛めたことがあった。リヒトがそれとなく禁煙を勧めたんだけど、この分じゃ効果はなかったみたいだ。

 僕は黙っていた。何を言っても逆効果だろうし。

 リヒトも黙っている。ブースのミラーボールの光を浴びて沈黙を貫いている。その重みに耐えられないのか、タクミが再び喋りだす。

「医者が手術しろって。大丈夫だよ。二泊三日だし」

「これが最初じゃないだろ? みんなが気をつけろって言ったよな? 自己管理ができてないんだよ」

「ギターはいいよな。節制する必要がないし」

 トモが立ち上がりかけた。それを制するように、リヒトが低い声で告げた。

「タクミが回復するまでライブはできない」

 トモはまだ何か言いたそうだった。

 最悪の空気のまま、ミーティングは終わった。憤懣やるかたないといった風情のトモが僕に耳打ちする。

「で、マコトはどうするよ?」

「どうもしないよ。曲でも書いてるよ」

 期待した答えじゃなかったんだろう。トモはひらひらと手を振って去って行った。

 僕はポケットからアイフォンを取り出して画面を見た。

 追悼スレッドに新しい書き込みが増えている。


 スマホのカメラで切り取る世界は、いつも現実よりきれいに見える。雨上がりの濡れた校庭、雲がぐるぐる渦巻いてる空、誰もいない教室の机と椅子の群れ。今朝、早く目が覚めて、普段より前のバスに乗ったら、いちばんに教室に着いた。

 CDウォークマンで「ソウ」のアルバムを聴きながら待っていたら、音楽つきの風景の中、教室のドアが静かにすべって、同級生がひとり現れる。表情のうすい彼女は、私の世界に触れずに、そっと席についた。そのまま、ノートを広げていっしんに何かを書いていた。

 だんだん人が増えて、教室が騒がしくなる。見知った顔が増えてゆく。

 視界に大きな花が咲いた。カノンだ。制服を着崩して、大きな目を輝かせて、世界を見つめてる。アイラインの濃さが妙に気になった。ピンク色のくちびるが「おはよう」って言ってる。だから私も「おはよう」って返す。

 耳から「ソウ」の音楽を流しこんで、今日が始まる。

 そんなありふれた朝のはずだった。

 カノンがちらっと視線を外す。その先に、さっき登校してきた同級生がいた。彼女はカノンには目もくれない。懸命にノートに何か書いている。

 カノンの瞳が光を増した。そのとき。

 ノートが鼻先をひるがえった。静止画みたいだった同級生が立ち上がる。いつの間にかカノンも立っていた。その手にノートが握られている。

 おとなしそうな同級生の顔に、血の色がさした。彼女がカノンにまくしたててる。

 カノンのグループの取り巻きが、にやにや笑っている。誰もカノンを止めない。私も。

 見せつけるように、カノンがノートを引き裂いてばらまいた。白い花びらのように、ノートの切れ端が空気をただよっている。

 やがて、それが全部床に落ちるころ、同級生がはいつくばってノートだったものを拾い集めはじめた。

 私はイヤホンを外していた。何か言わなきゃ。何か。

「なーにー、うららぁ」

 ぞっとするほど冷たい顔のカノンが、冷酷に言う。

「チクったりしないよねぇ」

 私の言葉は教室の不気味な空気に飲み込まれていた。


「ありがとう」

 しおらしく両親に頭を下げる僕の腕の中には、まっさらなNECのノートパソコンが抱かれている。

 ネットもほどほどにな、という父の言葉を半分しか聞かず、僕は部屋に引き上げた。これで暇な時間は「ソウ」のことを思う存分調べられる。

 小一時間ほど設定作業に費やして、僕はネットに復帰した。もう意味はないのかもしれないけれど、メモしておいた「ルナティック・シンドローム」の跡地にブックマークをつける。やっぱり404エラーしかない。

 次に僕が接続したのは巨大掲示板だった。手早く例の追悼スレッドを探し当て、書き込みをチェックする。

 僕の見立てでは、ここを巡回しているのは、僕と「保守」さんくらいだ。「保守」さんがどこの誰だかはわからないが、相当な暇人であることは間違いない。書き込みの時間がばらばらだ。まともな勤め人とは思えない。

 最近、このスレッドに新しい顔が加わった。

「ソウは永遠に私の心のなかでいきています」

 と気恥ずかしくなるような登場をした新顔さんを、僕はとりあえず「永遠」さんと呼んでいる。

「永遠」さんが「保守」さんではないことははっきりしている。僕と「保守」さんは、彼のことを「SOW」と書く。「永遠」さんはカタカナで「ソウ」だ。なんとなくだけど、「保守」さんはネット慣れしている気がする。スレッド立ち上げたり、書き込みの距離感がつかず離れずという感じだったり。反対に「永遠」さんは感情むきだしだ。

「みんなはソウのファン歴長いの?」

 こういう匿名掲示板で、あからさまに語りかけるような書き込みは少ない。というか、意識的に避けている。

「長い方だと思ってます」

「保守」さんがそつなく答えてる。今までの書き込みでも、特にマウントを取ろうという気配もなかったから、事実なんだろう。僕は「そこそこ」と適当な嘘をついた。

 一日経った。

「じゃ、トリムールティのライブとかいった?」

 これは「永遠」さんだろうな。僕もこれくらい図々しくなれればいいんだけれど。「保守」さんは答えるかな。

 いつのまにか、僕は掲示板にのめりこんでいた。


 なんだかんだ言っても、タクミがいないと僕らは表に出られない。トモにはああ答えたが、内心不安で仕方なかった。

 そりゃ曲は書けるけど、お披露目する場所があってこそだ。こつこつ依頼をこなしていれば、とりあえず生きてはいける。でも、こんなヤクザな仕事を選ぶからには、少なからず僕も承認欲求のお化けなわけで。

 ある意味タクミが羨ましいよ。僕がボコーダーに隠れて五分のところを、二時間近く耐えられるんだから。

 愚痴っても事態は好転しない。VAIOに吹き荒れる依頼の嵐をさばくことにする。言葉では簡単だけど、これがけっこう骨が折れる。曲の全体像が見えたら、リズムトラックからポチポチ打って、ベースライン打って、上物重ねて、余裕があったらアレンジひねって……たちまち時間が溶けてゆく。我に返ったときは、もう薄暗かった。何か腹に入れないと。

 冷蔵庫を開けて、ため息が出る。また買い出しに行きそびれた。すごすごとそのへんにあったヨーグルトをひっつかんで作業に戻る。

 掲示板をチェックできたのは日付が変わってからだ。

 半ば勢いで立ち上げた「ソウ」の追悼スレには、ぼつぼつ書き込みが増えている。ID非表示設定にしたから、どの書き込みが誰のものかはきっちり把握していない。別にそれでいい。自治厨になるつもりもないし。

「じゃ、トリムールティのライブとかいった?」

 かなりフレンドリーなスタンスの人がいる。どうしようか。スルーしてもいいんだけど。前のこの人の書き込みに反応しちゃったからなあ。まあ、いいか。

「行ってました」

 書き込んで、反射的に更新していた。あれ、即レスだ。

「生でSOW見られたんですね。羨ましいです」

 多分質問主さんとは別の人だな。常駐してるのかな。ウィンドウズのシステムを確認したら、午前二時だった。僕はあくびを押し殺して、VAIOをスリープさせる。明日は忘れずに買い物にいかなきゃ。

 寝床に入って、しばらく考えた。

 これで本当に「ソウ」をこの世につなぎとめたっていえるんだろうか。何か他に手はなかったんだろうか。

 そんな僕の逡巡は、すぐに夢にのみこまれていった。


 いつもの時間のバスに乗ったら、昨日の不穏な景色はないことになってた。でも、私は気づいてしまった。あの子が真っ赤な目をしていることに。その机にノートの影も形もないことに。

「おはよ、うらら」

 カノンのあいさつを皮切りに、いくつかあいさつを交わす。今まではなんとも思わないこの習慣も私の背筋を凍らせる。みんなカノンが話しかけないと私に声をかけない。

 私もいつ転落するかわからないんだ。

 あの子がかわいそうだなんて言ってられない。私は笑顔を貼り付けて、一日をやり過ごした。

 帰りのバス、ひとりになって「ソウ」のアルバムを聴きながら、窓辺で答えのない問いをくりかえす。

「ソウ」ならどうしてた? あの子を助けてた?

 私はずるい。いなくなったひとにいくら質問しても、返事がないなんてわかりきってるのに。

 逃げるようにブクマしてた追悼掲示板にアクセスする。どこかの誰かが、私に答えてくれるってことに、少しだけ救われてた。

 書き込みが増えてる。あ、この人、トリムールティのライブいったんだ。

「いいなあ。もっとお話きかせてほしいなあ」

 書き込むと、私は「名無し」さんがお返事をくれるのを待った。

 次の日に返事はあった。でも、期待してたのと違う。

「あんまり他人のいうことを信じすぎるのもどうかと思います。私が嘘をついていたらどうするんですか? それとも釣りですか?」

 なによ、これ。説教? それにこんなとこで釣りするわけないじゃない。

「嘘ついてたの? 最悪。意味不」

 そしたら、また書き込みがあった。

「『釣り』の意味くらい勉強したらどうですか」

 マジむかつく。すっごい上からだし。

「うるさい。バカ」

 ああ、もう、なんでどこもかしこも行き止まりなんだろう。せっかく「ソウ」の話ができると思ったのに。

 私はスマホを放り投げて、ベッドに倒れ込んだ。


「永遠」さんがわかりやすくキレた。彼か彼女かはわからないが、そもそもネットに向いていないと言わざるを得ない。予想外だったのは、「保守」さんも前の書き込み以来黙ってしまったことだ。「保守」さんにしたら、忠告だったんだろう。「永遠」さんはどう見ても危なっかしい。でも、あれは余計だったかな。

「『釣り』の意味くらい勉強したらどうですか」と書いたのは僕だ。「保守」さん、困ってるみたいだったし。少しググればネットスラングくらいすぐにわかる。「意味不」の三文字で片づけてしまう「永遠」さんは怠慢だ。

「ごめん。怒ってる?」

 相変わらず空気の読めない人だな。謝っても「保守」さんが答えてくれるとは限らないのに。自己満足だ。

 僕は「永遠」さんに物申そうとして、キーボードに指を走らせた。ひとしきり文句を連ねて、エンターキーを叩こうとしたが、ふと考える。

 僕が言い返したら、ますます「保守」さんは帰ってこなくなるんじゃないか。冷却期間をおいたほうがいい。

 僕は掲示板から離れて、また「ソウ」の調査に戻った。


 誰もいない。

 誰もいない空間で、私の言葉だけが反響する。

「誰かいませんか」

 スマホをスワイプする。一ミリも画面は変わらない。

 今日も学校はいびつだった。私の幸せはあの子の犠牲のうえに成り立っているもろいものだ。それでも私は笑わないといけない。笑っていないと取り残される。

 CDウォークマンのボリュームを上げて。雑音を追い出して。くりかえしくりかえしスマホで呼びかける。

「誰かいませんか」

 さっきと同じ言葉が掲示板に焼きつく。

 もう何回呼んだだろう。聴いていた「ソウ」のアルバムが最後の音を吐きだしていた。

 それでも私はくりかえす。

「誰かいませんか」

 誰か私にこたえてください。

 何度目かのスワイプ、何度目かのメッセージ、何度目かのスワイプ……

 誰か私にこたえてください。


 僕は友達が少ない。

 童顔のせいで勘違いされるけど、偏屈でもある。いったん部屋にこもるとなかなか出てこられない。でも、今日は六月の東京にしては珍しくよく晴れている。ここ数年、この街は暑くなる一方だ。短い梅雨の短い晴間、蒸し暑い中をのろのろ這うようにして表へ出る。

 喧騒、と言えば聞こえはいいが、要するに騒音だ。この街の音にはいまだになじめない。ひりひりした空の下、おろしたての靴を履いて電車に飛び乗った。

 新宿で人に酔いそうになりながら乗り換えて、下北沢に向かう。昔の知り合いがギャラリーを借りて個展を開いてる。コンテンポラリー・アート……つまり現代美術で何かの賞を取ったらしい。説明されてもわからないんだけど。

 平日の真昼、直射日光にくらくらしながら、狭い通りを抜ける。なんでもここはサブカルチャーの街らしい。カルチャーにメインもサブもないと思うが、とにかくそういうことになってる。二十歳前後とおぼしき一団が、はしゃぎながら僕の脇を通り過ぎる。

 目的地は不自然に四角いビルの一室だった。

 ドアを開くと、懐かしい顔が見えた。

「まこっちゃん、お久しぶり」

 百八十センチ超えの長身に緊張感のないポニーテールが目立つミゾハタさんは、上京して間なしに流行らないレコード屋でバイトしていたときの店長さんだ。その頃の僕はお世辞にも品行方正とは言えなかった。ライブといってはすぐシフトに穴を開けるし、適当を絵に描いたような店員だったからなあ。今でもあのレコード屋、あるんだろうか。

「お久しぶりです」

 頭を下げて、手ぶらで来たのに気づく。花でも持ってくるんだった。きょろきょろ落ち着かない僕に、ミゾハタさんは笑いかける。

「背、伸びた?」

「もう伸びませんよ」

 そうか、と独り合点して煙草を差し出す。

「煙草はやめたんです」

「あの子、煙草嫌いだったもんね。名前、なんだっけ」

 口ごもっている僕が意味するところを察してか、ミゾハタさんはそれ以上追及してこなかった。

 あまり広くない空間に、いろんなかたちのオブジェが置かれている。僕は漫然とそのへんを歩きまわる。角度が変わっても、よくわからないという事実は変わらない。難しい顔をしていたんだろう、ミゾハタさんが苦笑いして「まあ、遊んでってよ」と言った。

「こういうのは参加してもらって初めて完成するから」

 シンプルに考えればいいのか。ライブと同じだ。僕はしゃがみこんでオブジェに触れた。冷たかった。

「まだ音楽やってるの?」

「なんとか」

「にしては、浮かない顔してるな」

「部屋にこもりっきりだったんで」

「ライブは?」

「あー。ボーカルが喉痛めちゃって。開店休業です」

 ミゾハタさんとの会話はいつもこんな感じで途切れる。不思議と気まずくはない。

「どんな音楽?」

「ええ? 難しいな……ジーザス・ジョーンズとデペッシュ・モードの間?」

「それ、どこが中間点なんだよ」

 ミゾハタさんが隣に立って、丸いオブジェを転がした。床が鏡面になっていて、潰れた円形とひしゃげた僕らの似姿がゆらゆら揺れている。

「どっちにせよ、まこっちゃんの得意分野じゃないな。アンビエントとか好きだったでしょ?」

「アンビエントじゃ食べてけませんよ」

 だからかたくなにアンビエントを追いかけた「ソウ」は僕のヒーローだ。彼はもっと楽な道を選ぶこともできた。トリムールティのときに切り拓いた踊れる音楽をやっていれば、間違いなく時代の寵児になれただろう。迷わずにそれを捨てて、自分のやりたい曲を書き続け、ステージに立ち続けた。やっぱり非凡な人だ。

 何年かぶりで会ったのに、ミゾハタさんは特に構えもせず僕を迎えてくれた。「おめでとうございます」を言いそびれたまま、僕はギャラリーを後にした。

 待っている人もない部屋に、コンビニ弁当をぶら下げて帰る。こんな食生活が通じるのは今のうちだけだ。

 電気をつけて、アイフォンの画面を確かめる。

 信じられない光景に、僕は眼鏡をこすっていた。


 悩み疲れてベッドにもぐっていたら、真っ暗になっていた。おなかも減らない。

 みんなにあわせていたら無事にはすごせる。でも、もし音楽聴くのをやめろって言われたら? 自信ないよ。

 手のなかにスマホが輝いていた。ラインもインスタもたくさん登録してあるけど、このなかで本当に私にこたえてくれる人なんているのかな。

 また「ソウ」の追悼掲示板にいる。

「誰かいませんか」

 私が書いたメッセージだけが何行も続いてる。

 中毒みたいにくりかえす。

「誰かいませんか」

 またスワイプ。何も起こらない。はずだった。

「大丈夫ですか?」

 文字が増えた。え、と声に出していた。

「誰?」

「あなたと同じ『名無し』です」

 しばらく書き込めずに、クセでスワイプしていた。

「ここはあんまり安全じゃないから」

「よくないひとに見つかる前に」

「ブラウザを閉じたほうがいいですよ」

 立て続けに書き込みがある。これって、私に?

「ほかにいくところがない」

 何回かスワイプした。答えがなかなかかえってこない。

「ここでないとダメですか?」

「うん」

 急いで続きを打った。

「ここはソウのお墓みたいなところだから」

 また間があった。

「確かに彼のお墓はどこかわかりませんからね」

「でも彼はここにはいません」

「あるのは思い出だけ」

 私は泣きそうになりながら、それを読んでいた。

「そろそろ行きます」

「おやすみなさい」

「待って」

 もうすこしだけここにいてほしかった。

「私も信用しちゃダメですよ」

 なぜか「名無し」さんが笑っているような気がした。


 これは絶対にスルー案件だ。

 画面に広がる「誰かいませんか」の洪水。いつの間にこんなことになっちゃってたんだろう。

 僕が掲示板から離れていたのはたった三日だ。前の書き込みでそれとなく釘を刺したけど、これは異常だ。

 荒らし、なんだろうか。

 もちろん僕が追悼スレを管理してるわけじゃないから、騒ぎがおさまるまで放置がベストだし、セオリーだ。

 でも、なんでここなんだろう。

 考えないほうがいい。ブラウザバックして見なかったことにしよう。

 そうなんだけどさ。

 それはわかってるんだけどさ。

 何かがどこかに引っかかっている。よくはわからないんだけど。通りすぎてしまったら何かとりこぼしたみたいで。

 もしかしたら手のこんだ「釣り」かもしれないな。

 まあ、いいよ。別に減るもんじゃないし。

 僕は静かにVAIOのキーを叩いた。


 一週間もたなかった。

 ひとりネットをさまよい歩いて、得たのは既知の情報と、トリムールティのアルバム一枚だけだ。

 何の予備知識もない新参者にできるのはこれくらいだ。トリムールティのスレッドを探るのは気が進まない。あそこは悪意と噂の温床だ。「ソウ」を神聖視するつもりはないけど、あまりに憶測が多すぎた。それも、彼が亡くなったら、ぱたりとやんだ。始めからやめておけばいいんだ。彼の死で物語が終わる結末を受け入れられないくらいなら。

「保守」さんの話がききたかった。僕と同じように、「ルナティック・シンドローム」の終わりに戸惑い、どうしようもなくて行き場がなくて、振り上げた拳の下ろし方をに求めたあの人の。

「誰かいませんか」の氾濫が僕を出迎える。きっと「永遠」さんだ。迷惑で不愉快な人だ。

 読み進めていって、僕はさらに不快になった。そして、困惑した。応えているのは誰だろう。「保守」さん?

 僕は理由のない孤独に押しつぶされそうになっていた。


 閉塞している。

 僕の毎日は円環のように閉じている。

 朝起きて学校に通い、家に荷物を放りこんで、すぐに塾に出かける。複写したように同じことの繰り返し。

 そんな退屈な時間を「ソウ」が壊してくれた。彼はもういないけれど、音楽で僕の予定調和を切り裂いた。

 探せば「ソウ」のほかにもあるのかもしれない。はかない希望を僕に抱かせたのは、圓くんがきっかけだった。

「今週の日曜日、暇かな」

「塾はないけど」

 どうしてこんなもってまわった返事しかできないんだろう。僕の屈折した言葉にも、圓くんは素直に微笑む。

「よかったら、勉強、教えてくれない?」

「僕でよければ」

 歯切れの悪い僕とは対照的に、圓くんは輝くような笑顔だった。

 教えてほしいのは数学と理科だときいて、少し焦る。どちらかと言えば文系だから、うまく説明できるかな。

「こんな遅くまで勉強か?」

「友達と約束したから」

 最近は部屋にこもって、ネット三昧な僕を知ってか知らずか、父がノートをのぞきこむ。まったく、なんだってうちの中学は急ぎ足なんだ。数学なんて運動と同じだ。訓練し続けないと力が衰える。こんなので圓くんの先生になれるかあやしい。

 なんとか中三の範囲までざっとさらって、気づけば十二時だった。

 掲示板をチェックしようと、ノートパソコンの電源に置いた指が引っこむ。僕は「永遠」さんのようにぶちまけられない。「永遠」さんと話していたのが「保守」さんにせよ、そうでないにせよ、多分僕みたいなやつにはあんな言葉はかけないだろう。僕はどうしようもなく臆病だ。

 ミニコンポのボリュームを絞って「ソウ」のアルバムをかける。第一作ファーストアルバムが「スワン・ソングさいごのうた」なんて、何の皮肉だろう。

 アルバムの最後にクレジットされているのは、「スワン・ソング」。物悲しいピアノ独奏曲だ。でも、僕はその余韻が終わっても、CDを取り出さない。このアルバムにはゴーストトラックがある。

 トリムールティの「ミラージュ」。作詞は「シン」で作曲は「ソウ」。彼らしい哀切なバラードだ。

 原曲はトリムールティの第三作「セントラル・ドグマ」に収録されている。僕は「スワン・ソング」で「ソウ」が自ら歌っているバージョンを先に聴いた。ややおぼつかない頼りない歌声。だから、「シン」が歌った原曲を聴いて、正直びっくりした。同じ曲でこうも印象が違うなんて。

 僕は「ソウ」のつたない歌声が好きだ。今にも消え入りそうなもろさは、彼の人柄を表しているようだから。それを聴いていると、よるべないのは僕ひとりじゃないと感じられる。

 破れかけた風船のような心に「ソウ」が小さく風を吹きこんでくれる。それでやっと掲示板に向きあえた。

「永遠」さんはいなかった。「保守」さんの書き込みも一昨日のだった。

「『スワン・ソング』の『ミラージュ』」を聴いています。名曲ですね」

 他愛ない内容だったけど、返事があった。

「個人的にSOWのキャリアでベストだと思います」

 これはきっと「保守」さんだ。なぜだろう、他人が書いた曲を他人が褒めているだけなのに無性に嬉しかった。

 淡々と時は流れ、週末が過ぎ、日曜日。鞄に参考書を詰めて圓くんの家に向かう。梅雨の東京はひどく不機嫌で、傘をさしていても足元はずぶ濡れになる。電車に駆けこんだら、ききすぎたクーラーのせいで鳥肌が立った。

 圓くんが住んでいるのは、学校とは反対方向の急行の停車駅だ。人いきれがわずらわしかったから、各停でのろのろ行く。あいにく車窓は憂鬱な雨で真っ暗だった。

 待ち合わせの時間より早くに着いた。待たされるのは構わないけど、待たせるのは嫌いだ。三十分ほど余裕があったはずだったけど、改札の蒸れた人混みの向こうに、傘を持った圓くんがもういた。

「おはよう」

 圓くんは雨空にも翳らない笑顔で僕を迎えてくれる。

「待った?」

「ちょっとだけ」

 日曜の朝の僕はまだ知らない。

 この日が僕の日常をさらにゆがめることを。


 今日も掲示板にあの「名無し」さんはいない。

 ううん、いたとしてもわからない。ここではみんな「名無し」だから。

 あれから「ソウ」の追悼掲示板には書き込めなくなった。その代わり、ずっと探してる。あの「名無し」さんにとって、私に声をかけてくれたのは、ただの気まぐれなのかもしれない。これ以上すがるのは、迷惑だってわかってる。なのに探さずにはいられない。

「『スワン・ソング』の『ミラージュ』を聴いています。名曲ですね」

「個人的にSOWのキャリアでベストだと思います」

 ホントは私もまざりたい。「そうだよね!」って書き込みたい。何度も言葉をつづっては、ブラウザを閉じる。

 この掲示板の誰が誰だか、私には見分けがつかない。探してる「名無し」さんがもし現れてたとしても、アタマ悪いから、文章だけじゃわからない。確かなのは、この中に私に注意した「名無し」さんもいるってこと。

 なんだか急に心がくじけてる。どうして今までなりふりかまわず書き込めてたんだろう。

 今夜もまた、何も書けずにブラウザを閉じる。

 最近、早くに目が覚めるから、いつものバスには乗らなくなった。なんとなく、カノンたちより前に学校に着いてないと不安でしかたない。

 空っぽの学校は落ち着く。世界に人がいなくなったような朝焼けのあとに、しんとした校舎がただ寝そべっている。ずいぶん日が長くなった。強い朝日に沈む廊下をひとりで歩いて教室にたどり着く。今日もいちばんだ。

 次に登校してくるのは、決まってあの同級生だ。

 カノンにノートを引き裂かれたあの子。

 彼女は私に目もくれない。小さなスケッチブックを取り出して、毎朝儀式のように新しいページをちぎる。

 朝の教室に鉛筆が走る。三枚しかない「ソウ」のアルバムを選ぶ間、私は彼女が密かに描く絵の音を聴いている。そして、水のように「ソウ」の音が響く。

 どっちも何も言わない。離れた席で、めいめいに好きな朝の過ごしかたをする。

 カノンが来るまであと三十分。

 私も彼女も、ただ黙って、短い休み時間を楽しむ。

 鉛筆の音、「ソウ」の音。私たちの朝。


 天窓を見上げても、雨粒のあとさえ見えない。どしゃ降りなんて表現では追いつかない豪雨だ。部屋の灯りさえむしばまれるような不穏な気配。

 僕は用意したノートの内容を、圓くんに説明しつづけて不安を打ち消す。電車はさっき止まってしまった。

「お父さんとお母さん、大丈夫?」

 圓くんのご両親は休日出勤でいなかった。僕らはお昼に用意してあったオムライスを温めて食べた。

「二人ともしばらく会社から動けないみたい」

 圓くんはスマホを手に力なく微笑んだ。この家に閉じこめられたってわけか。リビングのばかでかい液晶テレビが点灯した。NHKのアナウンサーが、関東地方の豪雨のニュースを繰りかえし事務的に告げている。

「ごめんね」

「何が?」

「しばらく帰れなくなっちゃって」

「どうせ夕方までいる予定だったし。雨もそのうち止むかもしれない」

 普段から圓くんは自罰傾向が強い。優しい性格のせいもあるけど、まわりが不必要に彼をからかうからだ。

 いつか言ってあげたい。君は、自分が思っているより、もっとずっと価値のある人間だって。僕が伝えても、説得力なんてまるでないけど。

「雨、うるさいね」

「うん」

 お昼ごはんのあと、勉強を再開した。ひっきりなしに響く雨が、僕らを落ち着かなくさせる。圓くんはいつの間にかNHKからチャンネルを変えていた。バラエティの再放送が、うわついたおしゃべりを垂れ流している。僕が退屈な視線を画面に投げたのを見てとってか、圓くんがリモコンを操作した。スタッフの笑い声で水増しされたつくりものの陽気さが、ぷつんと消えた。

「音楽でも聴こうか」

 古びたコンポがテレビの隣にあった。スピーカーが大きな年代物。そのさらに隣のいかめしいキャビネットが開くと、LPとCDの群れが覗く。

「クラシックしかないけど。何がいいかな」

 クラシックなんて、音楽の授業で覚えた作曲家しか知らない。コレクションには英語やフランス語らしい文字も見える。

 単調な旋律が雨音を追い払う。抑制のきいたリズムと発展しないメロディ。この曲は僕だってわかる。ラヴェルの「ボレロ」だ。

 遠雷が聞こえる。夕立の季節にはまだ早いのに。しばらくくすぶっていた雷は、やがて稲妻を連れてきた。不規則に「ボレロ」が乱される。ヒステリックな稲光が徐々に間隔を短くして閃いている。ばりばり、どーんという音がして、シーリングライトが点滅したかと思うと、「ボレロ」ごと照明が消えた。

 薄暗い部屋、圓くんがスマホのライトをつける。

「停電だね」

 とりあえず僕は話した。黙っていると不安が膨れ上がりそうだった。

「冷蔵庫とか大丈夫? 中のもの外に出さなくていいのかな」

「しばらくだったら、開け閉めしない方がいいよ」

 圓くんは冷静だった。こういうとき、頭でっかちの僕は役に立たない。

 新築のプレハブ住宅という陸の孤島で、中途半端に外界から切り離されて、僕らは時間を空費する。

 とてもじゃないけど、勉強を続けられる雰囲気じゃなかった。圓くんが懸命に家中を探し回って、懐中電灯が一つだけテーブルに置かれた。稲妻の青白い光が、人工の照明を無遠慮に切り裂く。

 他愛ない世間話で凍りついた空気をほぐそうとして、話題がないのに愕然とする。教科書の知識を詰めこんだだけのはりぼて。僕の正体なんてそんなものだ。

 悪天候のせいだろうか、僕を支えている根拠のない自信が消し飛んでいる。止まない雨に会話が流される。僕は口をつぐんでうつむいていた。

「どうしたの?」

 圓くんの抑制のきいた声が、雷の合間に響く。

「なんでもないよ」

 返事はなかった。言葉の代わりに、指の長い華奢な手が、僕の幼さのとれない手に重ねられる。

 圓くんは無言のまま、薄暗い部屋で僕の手を手で包んでいる。僕はそっと影に沈んでいる横顔を盗み見た。

 その耳は暗がりでもわかるほど血の色がさしていた。

 停電が終わるまで彼はずっとそうしていた。


 ネットにハマるやつは基本的にかまってちゃんだ。

 僕も例外じゃない。「ソウ」の追悼スレッドを立ち上げたのも善意からじゃない、きっと。

 僕は僕のやるせなさをどうにかしたかっただけなのだろう。だから、「誰かいませんか」と訴えた人も、今ながめている書き込みを残した人も、同じ通りすがりの存在にすぎない。でも、どうやったって聖人君子になんてなれないから、敵意には当然身構える。

 最初はただ「バカ」と書いてあった。多くないだろうこのスレッドの住人は、僕を含めてそれを無視した。

 次は「死ね」。誰だか知りたくもないけど、僕たちにこれは通じない。なにせ、ここに集まっているのは、亡くなった人の面影をまだ探しつづけているような人間なのだから。やはり黙殺された。

 回線の向こうの誰かさんが、軽い気持ちで荒らしを始めたのなら、ここで引き下がったかもしれない。だけど、そいつはちょっと粘着質だった。

「つまんない音楽きいてんじゃねーよ」

 わざわざ書き込みを読んだらしい。ある意味律儀だ。それもスルーされると、さらにそいつはいらだった。

 時間を問わず汚い言葉が投げられる。こうなるとまともな書き込みも埋もれてしまう。この暴れん坊の気が済むのを指をくわえて待つしかないのか。別にスレッドを立てることも考えた。効果のほどはやってみないとわからないが、粘着されたらけっこうこたえる。逃げるにしてもうまくやる必要がありそうだ。

 ここが本当に求められているのかは定かでない。僕の「ソウ」を消したくないって独りよがりな気持ちから生まれた場所だ。それでも、ここを「ソウ」のお墓みたいだと言ってくれた人がいる。「スワン・ソング」の「ミラージュ」が好きだと言ってくれた人がいる。今の僕にはここが要る。

 ネットを徘徊して段取りを済ませると、僕は悪口雑言が書きなぐられた「ソウ」の追悼スレッドに、新たに書き込みをした。

「連絡ください」

「xxx@gmail.com」

 まだ僕は彼を消してしまいたくない。

 ままならない現実の埋め合わせなのかもしれないけど。


 なんだろう、この書き込み。

 見ていられない言葉ばかりになった「ソウ」の追悼掲示板で、そのふたつの書き込みは沈みそうになってた。

「連絡ください」のあとに、メルアドが続いてる。ここにメールしてくださいってことなのかな。

 追悼掲示板はすっかりすさんでた。書き込みはやめてるけど、「名無し」さんたちのおしゃべりを読んでるだけで楽しかったのに、今は「ソウ」の話をしたくても、痛い言葉に引き裂かれる。

 このアドレスにメールしたらどうなるんだろう。

 学校でも家でも、「SNSには気をつけなさい」ってさんざん言われてる。怖くないかってきかれたら、強がれない。

 けど、大人は知らない。私たちのさみしさを。きれいごとでお説教を飾っても、親も先生も寄りそわない。みんな生きるのにせいいっぱいで、こっちを見てはくれない。電車で子どもが泣いてると、とたんにあたりが不機嫌になる。スマホにはりついている私たちを、とがめるように見る人もたくさんいる。でも、優しくない世界に耐えられるほど、私たちは強くない。

 すぐには答えが出せずに朝が来た。やけに早起きに変わったのに、親の反応はない。悪い方向に傾きかけたら目ざといのに、いい子でいたって褒めもしない。

 私の次に教室に現れるあの子。名前は薬師寺さくら。きっちり制服のボタンを全部とめて、カノンが来るまでの間に絵を描く習慣は変わらない。毎朝スケッチブックを一枚ちぎってイラストを描いてる。風の強い日に紙が暴れて、私の足元に絵が飛んできた。すごくうまかった。

「はい」

 私がスケッチブックのページを拾って渡しても、彼女はうっそりと頭をわずかに下げただけだった。

「うららぁ、おはよ」

「おはよ」

 朝の光がだんだん強くなって、それを背負うようにカノンが登校する。相変わらず取り巻きを引き連れて。

 昼休み、屋上で風に吹かれてスマホで追悼掲示板にアクセスする。

 正体不明のメルアドは、やっぱりそこに残っていた。

 どうしたいのかもわからずに、私はそれをコピーした。


 あれは何だったんだろう。

 ひどい雨の日曜日が過ぎて、新しい週がきた。僕も圓くんも、ありふれた月曜日を迎えている。圓くんに変わったそぶりはない。ちょっと口が重くなっている程度だ。

 僕の思い過ごしかもしれない。きっと圓くんも不安だったんだ。

 一番の問題は、圓くんの思いがどうあれ、僕がまったく何も感じていないことだ。もし、僕の懸念が当たっていて、圓くんが普通の友情以上のものを僕に期待していたら? 別にどうということはない。

 ひどく無感動だった。嫌悪すらない。この期に及んで、僕の関心事は冷酷な自身だった。

 学校が終わったら、慣れた電車に乗って塾でどうでもいいような知識を詰めこんで、闇のなか家に帰る。夜更けになってノートパソコンを開いた。最近「ソウ」の追悼掲示板は荒れている。「保守」さんも時々書き込みを続けているようだけど、ノイズがひどくて意思の疎通ができない。「永遠」さんはしばらく見ていない。

「連絡ください」

「xxx@gmail.com」

 うさんくさい書き込みだ。言葉遣いから判断して、今好き放題している荒らしではなさそうだ。だとしたら、「保守」さんだろうか。それにしては軽率にも思える。

 呼びかけに応えたら何が起こるんだろう。釣りの可能性のほうが大きい。Gメールってことは、簡単に捨てられるアドレスだ。

 正直鬱積がピークに達していた。圓くんのことも、誰にも相談できない。いつもの僕なら、当たり前のようにこの書き込みを無視しただろう。だけど、僕も平静じゃなかった。

 どうせあっちも捨てアドなんだ。僕はGメールのアドレスを取って、怪しいメールアドレスに本文なしのメールを送った。

「金曜二十四時にお待ちしています」という題名の返事があった。本文は短い。

「合言葉は『スワン・ソング』の十一曲目」

 ごちゃごちゃしたURLが続いている。

 このリンクを踏んだら。

 僕は閉じた毎日から逃れられるんだろうか。

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