第5話
黒い雲がとぐろを巻いて晴明の頭上にささやいている。
「こうなった以上は貴様を身代わりに苦しめようぞ。そもそも頼忠に関わったのが、ぬしの運のつきよ・・・・・・しかし、残念であったなあ、ぬしの心に隙さえ無くばわらわに憑かれずにすんだものを・・・・・・。くくっ」
一条戻り橋の手前まで来ると、晴明は酒瓶を口にあててそのまま喉に流し込む。
「その程度の酒では、わらわは浄化できぬぞ・・・・・・くく、もっと飲むが良い。」
休む間もない勢いで、晴明は酒を飲み続ける。酒瓶の脇からこぼれ落ちた酒のしずくが、白い狩衣を濡らした。
「陰陽師にまんまととり憑くことができるとは、思わなんだ。おかげで貴様の心の内が手にとるように分るぞ・・・・・・」
晴明は一条戻り橋のたもとで、欄干にもたれて耳を塞いだ。
「・・・・・・言うな・・・・・・っ!」
「貴様も、わらわと同じ。愛しく思い睦みあった者に裏切られるであろう。待つのは無駄じゃ。幾夜待っても一度離れた人の心など、戻っては来ぬ。そでにすがっては振り払われ、嘆き、恨み、悲しもうとも。
―だから、人は鬼となり怨霊となりて人を食らうあさましの姿となるのじゃ・・・・・。苦しめ、貴様も苦しむが良い!」
橋から身を乗り出すと耐え切れずに晴明は嘔吐し、息をする間もない程咳き込んだ。
時を同じくして、ちょうどその頃。
朝廷内の陰陽寮に、ひとりの訪問者があった。
「こちらにおられる、安倍晴明殿にお会いしたいのだが・・・・・・。今どちらにおられるかな?」
その者は白髪に白髭、まるで仙人のごとき容貌である。
「晴明殿は所用にて留守だが、はて、見かけぬお方。何と申される」
「わしは唐の国、明州の港より参った迫道(はくどう)という者じゃ。晴明には3年前ほどに唐にて相伝を致した―」
その時、ちょうどやってきたのは晴明とともに陰陽道を学んだ賀茂保憲(かものやすのり)であった。
束帯姿に、烏帽子を被った背の高い人物である。保憲は穏やかな声で呼びかけた。
「あの迫道上人でござるか。私は賀茂保憲、父は晴明の師忠行でござる。遠い所を、よう参られた。」
保憲はうやうやしく頭を下げると、迫道上人と向き合った。
「固いあいさつは抜きじゃ。とにかく急いでおる。保憲殿、晴明はどちらに行かれた。」
「晴明ですか?あいつは確か、藤原家に内々の用で呼ばれたとかで、内容はよく分りませぬが今朝までの仕事と聞いております。もう夜も明けたことですし、屋敷に戻っていると思われますが・・・・・・。」
「わしがはるばるやって来たのはな。晴明に不吉な相が現れたので、泰山府君の神に問うたところ、やはり死相が出ていたのだ。何か、晴明の身の上に最近変わったことなど、ありはせぬか?」
保憲は首をひねっている。
「さあて。・・・・・・迫道上人には分りかねるでしょうが、何しろ晴明は幾年私と付き合うていても、打ち解けてくれないというか。私はあいつに師として教えたこともありますし、かわいがって今の地位にまで後押ししてやってもみたのですが、どうもなつかなくて・・・・・・。嫌われているのかなあ?」
ふ、と困ったような顔をした後保憲は笑顔を見せた。
「とにかく、晴明の屋敷には私が案内致しましょう。」
「そのようにしてもらえると、ありがたい。」
そしてふたりは、連れ立って出かけることとなった。
「晴明には唐にて秘伝を相伝致した。その際に、わしはこう伝えたのだ。
酒と女子(おなご)に、くれぐれも気をつけよ、と。晴明にとって命を落す可能性があるものだからだ。」
「はあ、酒、女子・・・ですか?酒はまだしも、女子との噂など、晴明に限ってはとんと聞きませぬが・・・・・・。酒については、まあよく飲む方かな。しかし強くて。私など全くかなわない。」
道を急ぎつつ保憲はとめどもなく話しを続ける。
「晴明は、どうも回り全てに対し心を閉ざしておるように思えます。私はどうすることも出来なくて、ほとほと困っているくらいですよ。迫道上人ともなれば、晴明にとっては師の中でも大きな存在でしょう。ひとつ、あいつに言ってやってくれませぬか。」
保憲は足を早めた。
「あと少しで、晴明の屋敷ですよ。あの一条戻り橋を渡れば。」
その時。往来から突然走りこむ者がいて、保憲は危なくその者にぶつかりそうになった。
「これ、危ないではないか。・・・・・・おや、その顔は。藤原頼忠様では?」
汗だくになり、息も切れ切れになっている頼忠がいた。
「すまぬ。先を急いでいたのだ。晴明殿の屋敷は・・・・・・この辺りと聞いていたが、知らぬかな?」
迫道上人と保憲は、思わず顔を見合わせる。
「わしらはちょうど晴明の元へ行くところだが・・・・・。一体何があったのだ?」
おぼつかない足取りで屋敷に戻った晴明を、声がとらえた。
「晴明殿、お待ち申し上げておりましたぞ・・・・・。」
立ちはだかるのは、蘆屋道満であった。
その背後の暗がりに隠れて梨花が立っている。そして梨花の隣には、吉房という名の法師。
「晴明殿に、ぜひとも聞いてもらいたい話しがあるでな。
実は昨晩わしの夢にて神が現れ、陰陽道秘伝の奥義書―金烏玉兎集―を授けようと言われた。そしてわしは夢の中で、聞くがままに書き写したのじゃ。わしの師として、晴明殿、これをどう思う?判断してもらいたい。」
晴明はふらつく頭を支えるようにして柱に寄りかかると、つぶやくように言った。
「・・・・・・そんなことはあるはずがなかろう。金烏玉兎集は本来唐の国に渡らないと相伝できるものでない。」
「では、わしの申すこと嘘であると言われるのだな。わしは嘘はついておらん。」
「しかし・・・・・・そのようなことがあるはずが・・・・・・。」
晴明は、思考が止まり意識が遠のいてしまいそうになるのを必死にこらえている。
「ははあ、晴明殿はこのわしを愚弄なさるのだな。嘘つきと申された。わしもこのままおめおめとは引き下がりたくない。ではこうしよう。
わしは命をかけてこの真実を証明するつもりだ。もしも、わしが間違っていたら晴明殿にわしの命をくれよう。だが、もしもそちが言うことが間違いであれば、そのお命頂く。かけてみるか?」
晴明は朦朧とした状態で考える間もないままうなづく。
「ではこれから、わしが晴明殿の前にて書き写したこの書物を読み上げる。」
すらすらと、凛とした声で道満は金烏玉兎集を読み上げていく。
晴明は崩れ落ちそうになる身体を両手できつく抱き、しだいに首をきつく振った。
「そのようなはずなかろう・・・・・・、金烏玉兎集は私が所有し梨花に預けてある・・・・・・」
ふっ、と梨花と全く知らない漢(おとこ)―以前梨花から感じた気配の人物―がいるのに晴明は気づく。
梨花が金烏玉兎集を手にしているのが分かった。
「何故だ。何故・・・・・・」
私を裏切るのだ。道満まで味方につけ、私を亡き者にし、その漢と結ばれようなどと・・・・・・。
それほど自分が邪魔なのか。かつて父も同じように自分を遠ざけた。
殺したい程にこの自分を憎むのであれば、梨花、そなたの手でこの胸に太刀を突き立てれば良いではないか。
晴明は顔を両手で覆った。
「もう、何もかもどうでも良い・・・・・・。」
「お命、頂こう。」
道満は、大きな声で呪を唱えると抜き身の太刀をふるった。
瞬間黒い風が舞い上がり、空へ消えて行く。
鮮血が辺りに飛び散り白い狩衣を真赤に染めた。
晴明はその場に膝をつき崩れ落ちるようにして倒れた。
ゆっくりと、背後から梨花と法師が現れた。
「でかしたぞ、道満殿。約束の金烏玉兎集じゃ。」
道満はゆっくりと、ふたりの方へ振り向いた。
「・・・・・・血の匂いに穢れがないぞ。」
「?」
「晴明殿の、身体の血からは女子(おなご)の匂いがしないと言うたのだ。
・・・・・・さては、おぬしら、わしをたばかりおったな?」
「そのようなことはどうでも良いではないか。」
「良くはない。穢れのない者を斬るのは、わしの尊厳にかかわることぞ。おぬしらには、罪を肩代わりしてもらわねばならん。」
道満が血に濡れた太刀を手にしたままにじり寄ると、梨花は吉房法師の影に隠れた。
「その方、吉房と申したか。ははあ、梨花殿は晴明殿とのお子にそちの名と同じ字をつけておるな。
さては、以前より梨花と通じておったのか。」
「子の親は確かに晴明であるよ。だが、この梨花は俺との契りを忘れられなかった。それだけのこと」
「ならば何故晴明に近づいた」
梨花は醜悪な笑い顔をつくり、道満に言い放った。
「全ては生活の為。わらわの家は傾いておったのでな、朝廷内に出入りする晴明のような人が必要であっただけよ。この吉房法師、実は太刀の腕は見事なもの。お見せしようぞ」
吉房は、太刀を抜くと道満と睨みあった。
「つくづく、わしもなめられたものだ。おぬしら、わしを誰と思うておる。
この晴明にこそかなわないものの、わしは播磨隋一の強き者と恐れられた漢(おとこ)じゃ。打てるならば、打ってみよ!」
吉房が閃かせた太刀が、瞬時にして吹き飛ばされた。
叫ぶ間も無く二人とも斬り倒される。道満の太刀が、二人の鮮血に染まった。ちょうどその時、飛び込んで来た三人の者達がいる。
「晴明!」
頼忠と賀茂保憲、そして迫道上人であった。
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