第4話
二日目。
夜風がしきりにごうと吹き荒れている。
月も雲に隠れてしまっているのか、灯りが無ければ一寸先も見えぬほどだ。
頼忠と晴明の影だけが灯りの中でぼんやりと浮かび上がっている。
再び閉ざされた扉を叩く者はやってきた。
「頼忠様、ここにいらっしゃるのは分っております・・・・・・どうか出てきて下され。でなくば、恐ろしいことになりますぞ」
昨晩とは違い、どこか声に凄みがある。
「どうしても出てこられないのですな。それでは無理にでも押し入って頼忠様のお命ごと持って帰りますぞ・・・・・・」
外でごうと風が吹き荒れている。座敷におかれた灯りがかすかに揺れた。
「!」
頼忠は思わず声をあげそうになる。座敷がぐらぐらと揺れ始めた。
晴明は厳しい顔のまま、先ほどから祈祷している。頼忠に振り返り、口を休めずにただ首を横に振った。
「おのれ、ここに札があってどうしても入れぬなあ・・・別の場所から入るか・・・・・・」
しだいに揺れは大きくなっていく。
「ええい、ここにも札がある・・・もうひとつ裏へ回るぞ・・・・・・」
頼忠の背後から、どんどんと土壁を殴る音が響いてくる。天井から壁の粉がぱらぱらと落ちて頼忠にかかった。
「・・・どこまでも札があるなあ・・・・・・ひとつくらい、破れぬだろうか・・・・・・もう少し力を加えてみよう・・・」
大きな手が建物ごと揺さぶり続けているように頼忠には感じられた。
「頼忠様・・・・・・ええい、くやしきことよ。捕りて食うのを指折り楽しみに、騙し騙し優しき言葉などかけておったが。憎き漢じゃ。この後に及んで、我を拒むとは・・・・・・いずれはと思ったが、早う連れてゆけば良かったわ・・・・・・」
外では嵐のような風が吹き荒れ、座敷内の灯りも今にも消え入りそうになっている。
それが一刻程続いた。やがて前日と同じように再び気配が消え、静寂が訪れる。
「やはり晴明の言った通り、あれは恐ろしき者になっていたな。もしあのままにしていたら命を持っていかれる所であった。」
頼忠は、さすがに青ざめた顔になっていた。
晴明は動揺する頼忠の声を聞いて振り返る。
「今晩はもう大丈夫でしょう。明日までの辛抱ですので、どうぞいつもの頼忠様のように気をしっかりとお持ちになって下され。」
「晴明殿は、さすがに頼りになる。いやはや、俺は情けない。手の震えが止まらん。」
頼忠は身をすくめたままだ。
晴明はそばへ寄ると頼忠の目を見つめてささやいた。
「私がお守り申した中でも、頼忠様は大変気丈なお方です。ふつうの者なら、もっと取り乱しておられることでしょう。安心して明日もやり過ごしてくだれれば、良いのですよ。そうすれば二度とあの者が現れることは無くなります。」
「晴明殿、悪いがしばし俺の手を押さえていてくれ。震えが止まるまで。」
「はい。」
頼忠の固く閉じられた両手を晴明が手の平で包むと、人の手のぬくもりがようやく頼忠に安堵のため息をつかせた。
「落ちつかれましたか。」
「ああ・・・・・・。晴明殿のおかげだ。全く情けないところを見られて恥ずかしい。
つくづく俺は頼ってばかりだな。」
頼忠は苦笑してから、力強く晴明の手を握りしめた。
「俺は謝らんといかん。昨晩は、白狐の子なのかと失礼きまわり無い質問を投げかけてしまった。
狐がこのような、ぬくもりのある手を持つはずがないではないか。そうであろう?」
頼忠はつくづく間近で晴明を見つめて言う。
「実はな、この度お願いした際にはじめから、興味があったのだ。その、晴明殿の後ろのこの辺に尻尾など見え隠れしておったらどうしてくれようかと・・・・・・ちょいと掴まえてみようかな。とかな。何、ほんの冗談でござるよ。」
頼忠はさり気なく晴明の腰へ手を回して、確かめるように狩衣の内側をさぐってみる。驚いて頼忠の手を振り解くと晴明はやや力を込めて頼忠を突き放した。
「何を・・・・・・なさるのです」
めずらしく動揺した晴明の様子を見て頼忠は笑いをこらえている。
「ははあ、やはりそこに尻尾があるのだな。尻尾を握られるのは困ると見える。・・・・・・くく、晴明殿はやはり狐であるとな。はは・・・・・・」
頼忠は我慢できずに笑い出した。晴明は少し怒ったような顔をすると書を胸にかかえて少々離れた場所へ着座する。
「ご機嫌を損ねてしまわれたか。すまぬ、謝るからそのように離れないでくれ。のう、晴明殿?」
「謝れば全て許されると、頼忠様は思うておられる。それを一番改めなければいけないのでは?」
冷たく突き放すように言うと晴明はしばらく頼忠と口を聞かなかった。
最終夜。三日目の晩になった。
丑の刻になり、いよいよかと頼忠は身を心持ち固くして動かないでいる。
一刻、一刻と何事もなく夜はふけていった。
昨晩まではしきりに、外で風がごうごうと吹き荒れたりしていたのだが、今宵はそれすらも無い。
「どうしたのだろう。妙な具合だ・・・・・・もはや俺のことを諦めたのだろうか?」
頼忠は待ちくたびれて布団の中へもぐりこんだ。
「俺はくたびれてしまった。このままでは何事もなく夜が明けてしまいそうだし、眠くてたまらない。先に休んでいても良いかな?」
「かまいませぬ。私が起きておりますゆえ、・・・・・・」
晴明が振り返ると、すでに頼忠は布団にもぐり込み夢の中へ誘われようとしている。
晴明がささやくような声で絶え間なく祈祷しているのを耳に心地よく思いながら、頼忠は深い眠りに落ちていった。
ふと頼忠が辺りのまぶしさに目をこすれば、障子の隙間より朝日が差し込んできているようだ。
「・・・・・・?」
本当に何事もなく夜が明けてしまったのかと、しばし疑っていると、廊下の向こう側から家の者がとんとんと歩いてくる音と共に聞きなれた使いの者の声がした。
「頼忠様、晴明様。夜が明けましたのでこちらへ来てどうぞお休みなされませ。大変長い物忌み、さぞお疲れになられたことでしょう。」
頼忠はあまりの嬉しさに、布団から這い出ると、いまだに祈祷しつづけている晴明に声をかける前に、障子の方へかけ寄る。
その時、眠っていた間に乱れた着物の前から札が畳の上に落ちたのだが、寝ぼけていた頼忠が気づくはずもなかった。
「お迎え、ごくろうであった。今開けるぞぉ・・・・・・!」
「いけません、頼忠様!」
晴明が振り向きざまに叫び、頼忠の元へかけ寄る。畳の上に落ちている札に気づいたが、拾う間が無く、とっさに自分のふところから同じ札を取り出すと晴明は頼忠の着物の中へ放り込む。
その瞬間に、頼忠の手によって障子に貼られた札が破られた。
てっきり朝日が輝いていると思った外は、まだ夜明け前のうす暗がりであった。
「頼忠様。ずいぶん長いことお待ち申しましたぞ・・・・・・」
目の前に黒い雲のようなものがとぐろを巻いて立ち込めている。
死体が腐敗しているのをそのまま放置しておいたような鼻をつく臭気。
もやもやとした黒い雲の中央にはじんわりと刹姫の変わり果てた形相が浮かんで、頼忠を地獄の底から覗き込むかのように睨んでいた・・・・・・。
血みどろの目をかっと見開き、顔は半分すでに爛れている。
呆然とする頼忠の前へ回ると、晴明は両手を広げて頼忠を庇うように、立ち尽くす。刹姫を鋭く見つめて呪を唱えた。
「おのれ、わらわと頼忠の間に立ちはだかる邪魔な陰陽師よ・・・・・・いっそ貴様も、巻き添えにしてくれるわ!!」
晴明は祈祷呪符である、桔梗印である五芒星(ごぼうせい)を切ろうと腕を頭上へかざす。
同時に刹姫の目がかっと見開かれ、光が走った。
「うわ・・・・・・っ!」頼忠が叫ぶと同時に、二人もろとも座敷奥までものすごい風に飛ばされていた。
「頼忠様。・・・・・・頼忠様。目を、早う開けてくだされ・・・・・・。」
頼忠が、したたかに打った頭をさすりつつ目を開けると、真青な顔をして覗き込む晴明の顔があった。
「俺は、どうなった?刹姫はどこへ・・・・・・」
その瞬間、刹姫が晴明の背後に黒々とした姿形で見え、頼忠はひっと叫ぶ。
「おのれ・・・・・・頼忠、貴様にとり憑けたなら、今ごろその首締めておれたものを・・・・・・!」
「ふところへ入れた札がお守りしておるゆえ、頼忠様へ憑くことは今のところ出来ませぬが、おそばにいるのは危うく思われます。早う、お逃げくだされ。」
晴明は息をするのも苦しいのか、畳の上に両手をついて立ち上がれずにいる。
「しかし、晴明殿に憑いてしまっているのでは・・・・・・」
「私は大丈夫でございまする。これを背負ってどこか安全な場所まで離れればそこで対処できるゆえ。
もうすぐ夜が明けることでしょう。頼忠様が朝日を浴びれば、最後までお守り通すことができまする。早う。私から離れて朝日の差す場所へ・・・お逃げ下され・・・・・・っ」
「そうはさせぬ!」
刹姫が背後で悔しげにうなった。話しの邪魔をするかのように、晴明の喉元に黒いもやがかかる。
晴明は息苦しさから激しく咳き込んだ。頼忠が立ち上がり、とりあえずの距離をおくと、転がっている中身の入ったままの酒瓶を晴明は手に取る。
「清めに使いますので、これだけ頂きまする・・・・・・では、私は、これで・・・・・・。」
「晴明殿、おひとりで平気か。」
「ご心配なきよう。私は、・・・・・・慣れております・・・・・・!」
晴明は厳しい面持ちで立ち上がると、足どり重く屋敷を出ていった。
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