第3話

 


 


頼忠に約束した日の前夜。晴明は屋敷にていくつかの書物を広げ、翌日の為に夜半まで調べものをしていた。

式盤(ちょくばん)―卜占(ぼくせん)をする為の道具である―を回していた細い指先が、ふと止まる。

「・・・・・・。」

険しい顔をして、さも間違いであったかのように再び式盤を回した。

だが結果は同じ。

「・・・・・・どうして、」どこを見るわけでもなく虚ろな目で晴明は独り言をつぶやいた。

部屋にひとつふたつ灯っている明かりが壁に晴明の影を長く落としている。

その影の肩辺りが震えた。

「何故だ・・・・・・」

月の光だけが、音もなく晴明の傍らに振り注いでいる。座敷には他に誰もいない。

「私は、例え命を落としてもかまわないのだ。それが誰かに本当に必要とされた仕事であるならば。なのに、」

指先で顔を覆う。震えている声が指の間から漏れた。

「何故、陰りの原因が、梨花・・・・・・そなたなのだ・・・・・・」

月が叢雲(むらくも)の中へ入り、辺りに暗がりが広がっていった。

晴明は外に目をやると、やがて一条戻り橋まででかけてゆく。かすかな月の光が、晴明の狩衣を青白く照らしている。晴明は橋の欄干に手をかけて、ひっそりと流れている川底を覗き込み、しばしそこに立ち尽くしていた。


翌日。

頼忠は、首を長くして晴明を待っていたと、出会い頭に告げてから笑った。

「これが済んだら、ようやっと安心して眠れるようになるのだな。こんなに嬉しいことはそう無いぞ?」

聞いている晴明の表情がいつにも増して暗いので、頼忠はまた失言したかと思う。

「晴明殿。俺はまた何か失礼なことでも言ってしまったかな?」

「・・・・・・いえ、そうではありませぬ。

考え事をしておりましたので話しを聞いておりませんでした。申しわけありません。」

「よいよい、謝らなくとも。しかしお顔の色がすぐれぬようじゃ。どこか具合でも、悪いのですかな」

頼忠は晴明の顔をしげしげと覗き込んだ。

「晴明殿は、実力はともかく見た目はか弱き姿よのう。遠くから以前見た時も、これが噂に轟くあの陰陽師かと、驚いたものだ。

そうしておると、俺が守られるというよりも、立場をむしろ逆にした方がいいような気さえ、してくるわ。いや、また怒られそうな発言をしてしもうた。失礼失礼」

頼忠は、自分の顔を叩いてみせる。

「頼忠様は、お守り申すのが私では、こころもとなく思われまするか。」

「いやいや、そのような意味ではない。晴明殿のお噂、つねづね耳にしておる。他に代わりが務まる者など、おそらくおらんであろう。」

「たとえこの度の件、仕事上の取り決めであるにせよ、約束したからには確かに頼忠様をお守り通すこと誓いまする。自らの命と、たとえ引き換えにしても。」

「おお、それは頼もしき言葉じゃ。よろしゅうお願い致すぞ。」


藤原の屋敷内にある別邸へ再び案内して、頼忠は着座した。

「この奥の間が比較的広々しておるでな、ここに決めた。三日間の間のとりあえずの食うものや酒は適当に用意させてある。特に何か入用なものは?」

「特に無いでしょう。」

座敷の中を見回してから、晴明は霊符を取り出した。

「それでは頼忠様、これより物忌みとしていっさいの他者との接触を控えさせてもらいます。この札を、全ての方角―子、丑、寅、卯、辰、巳、午、未、申、酉、戌、亥、そして艮、巽、坤、乾―と、順に貼り、全ての扉に守護の札を。これはひとつとして、破ったりしてはなりませぬ。そして頼忠様と私には、これを」

晴明はふたつの霊符のうち、ひとつを頼忠に手渡した。

「怨霊に襲われるようなことがあった際のために、ふところへお仕舞い下さい。絶対に肌身離さないように。万が一、落したりすれば怨霊に憑かれてしまいますので。よくよくお気をつけて。」

そして全ての扉は閉ざされ、晴明と頼忠はふたりきり座敷内にこもることとなった。


 


夕闇が訪れてしだいに辺りが暗く静まっていった。

晴明は頼忠にとってはおおよそ興味の無いような書物に先ほどからずっと目を落としたままである。脇ですることもなく頼忠は退屈そうに寝そべったり酒を口にしたりしていた。

そうこうするうちに、夜も深まりちょうど丑の刻ほどであったろうか。

ふと、書から目を上げて晴明はささやくような声で祈祷をはじめた。―そして。

扉を叩く音と共に、声が聞こえる。

「もうし、お聞きしたいことがありまする。藤原頼忠様はどこぞへおでかけで?・・・・・・」

聞こえないくらい小さな声で、頼忠は晴明に問う。

「晴明、いかが致す」

「答えてはなりませぬ」声を低めて晴明は頼忠を制した。

「私はどうしても、今宵頼忠様にお会いしたいのでございまする。夜毎、頼忠様と言葉を交わし、睦みおうておらねば、この魂保つことできぬのです。例え姿形が醜きものになっても、・・・・・・こちらへ来ている限り、頼忠様のおそばにさえ、いられたら・・・・・・」

ひしひしと悲しく、それでいて優しい響きを持つ声である。

「今宵のような晩が続けば、私は耐え切れませぬ、どうぞこの閉ざされた扉を開けて私をお助けくだされ。頼忠様にお会いできないと、私の魂は恋焦がれいつしか炎に焼かれてしまいまする。どうか・・・・・・どうか・・・・・・・・・・・・」

一刻ほど続いたであろうか。やがて声がやがてしなくなり気配が遠くなった。再び夜の風の音だけになり、辺りが静寂に包まれる。


「晴明殿、思ったほど恐ろしきものかな、あれは。もともと優しき女子であったはずなのだが」

頼忠は、晴明に問うた。

「頼忠様、はじめに申し上げた通りでございまする。

決してお心を動かされてはなりませぬ。もし頼忠様が間違いを犯すと、私もお守り通すことが出来なくなります」

「分かった。晴明殿の言う通りだな。つくづく俺もいい加減なもので、ついあやつの優しい声など聞くと以前のことが思い出されて睦みおうてみたくなってしまう。いかんいかん」

頼忠は、起き上がると酒瓶を手にした。

「晴明殿と酒でも飲んで気をまぎらわしたく思うのだが、つき会うてくれるか」

「そのようなことで、気が休まるのであれば」

書から目をそらすと、晴明は頼忠の方へ振り返った。


頼忠は、酒瓶を持ちふたりぶんの盃に注いでいる。

「もうあやつのことを考えるのはよそう。

ところで晴明殿は、どこぞに好いておる女子などはおるのか?」

「いえ。所帯を持っておりますので」

以前と同じく一息で飲みほしている晴明に、頼忠は笑みを浮かべ2杯目を注いだ。

「そのような堅苦しきこと、理由にはならぬよ。特に誰ぞいるなら遠慮なく口にしてみよ。」

「真に誰もおりませぬ。」

再び盃が空になる。

「それでは、親しき付き合いのある友はおるか」

頼忠は自分が飲むのを忘れるほど晴明の盃に注ぐのに忙しくなる。

「おりませぬ。」

すでに三杯目だ。

「親ご殿は?」

顔色ひとつ変えずにいる晴明を見て頼忠はようやく自らの酒に口をつける。

「おりませぬ。」

また盃が空となった。

どうやら言葉数よりも盃に注いでいる回数の方が多い。

淡々と晴明が答えるので、頼忠は続く言葉に困ってしまう。

「俺ばかりが話しているようですまないが、晴明殿。そのう、もしお嫌でなくばもう少し、ちと・・・・・・言葉を交わしてはくれまいか」

「お相手になっておりませぬか。一応、きちんとお話しを聞いているつもりなのですが」

ふと、俯いた晴明の顔を見ると頼忠は言った。

「そうだのう。ではこれでどうだ。せめて顔をあげて俺の目をきちんと見て話しをしてくれ。

その、晴明殿は、今思い起こせばよくよく俯き加減でおられるが、どうして目をそらされるのだ。」

「・・・・・・目をあわせると、余計な口を聞かねばならなくなりまする。」

「それが何か?」

頼忠は不思議そうな顔をする。

「頼忠様、お仕事上のお話しでは私も何なりとお話しできましょう。ですが、私自身の話しを求められても、・・・・・・。特にお話しできるようなことなど、何も思い浮かびませぬので。」

「それでは俺が考えよう。ちまたに耳にする、晴明殿が白狐の子であるというのは真のことなのか」

苦しげな顔をして晴明は口を閉ざした。

頼忠はそんな晴明を見やると強い口調で切り出す。

「俺は以前から気になっていた。もし真であるのなら、それも良かろう。俺は気にはせん。だが、もしもだ・・・・・・誰かが晴明殿のまれに見る才能を妬み、貶めようと言い広めた噂であったなら?

可能性は、無きにしもあらん。現にこの噂を信じておる者は多くいるし、その為に晴明殿も孤立しておる。

何よりそちの手柄が、人外の者―化生の者だから出来て当たり前だ―という理由で、簡単に片付けられるのも気に食わん。」

「ならば、私を貶めようとした者は。父ということになりましょうか・・・・・・。」

ぽつんと、晴明はつぶやいた。

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