下 手紙


 夜中の十二時近くになると、流石に港に人影がなく、海の上にも船はない。町の光も反射していない海面は、境界線も分からなくて、見ているだけで吸い込まれそうだ。背筋がぞっとする。

 五月の半ばになったけれど、夜になったらまだ肌寒く感じる。港からまっすぐに伸びた道に、容赦なく潮風が吹きつけてくるのもその一因だろう。


 そんな潮風に当たり続けて、私の隣に立つ筒形のポストは、確かに錆びだらけだった。あの女の子に言われなかったら、ただの使われていないポストとして、見逃していただろう。

 手紙の投稿口は、音もなくあっさり開いた。そこに、母へ書いた手紙を一通、差し込む。底に落ちる音が静かに響いた。


 手紙と一緒に、重たいものも手放したような気持ちになった。このまま帰ろうと思った時、きこきこと、自転車を漕ぐ音が商店街側から聞こえてきた。

 ポストの影からそちらを見てみると、喪服の男性が、ライトの点いた自転車を頼りなく進めている。その自転車がポストのすぐそばに止まって、あれ、と気付いた。昼間に見た、ことよ商店街の郵便局の局長さんだった。


「手紙か?」

「あ、はい。もう出しました」


 そうか、と口の中で呟いて、自転車のスタンドを立てた局長さんは、屈んでポストの後ろの扉を、スーツの前ポケットから取り出した小さな鍵で開ける。

 こんな風に近くで見ると、局長さんは黒い髪と黒い瞳だけど、欧米風の顔立ちをしているのに気付いた。ポストの中を覗いた局長さんは、その顔を少し顰める。


「今日もたくさん来ているな。全く、どっから聞きつけているんだが」

「あ、私は、局長さんと話していた女の子から聞きました」

由々菜ゆゆなか」


 背中側に回していた黒い肩掛け鞄をこちらに回しながら、局長さんは諦めたように溜息を吐いた。ポストの中に突っ込んだ手に、私の出した手紙が握られているのを見て、魔法が解けたようにはっとした。


「あの、局長さんはどうして亡くなった人に手紙を届けるのですか?」

「俺が死神だから、あの世と自由に行き来できるんだよ」

「へ?」


 目だけを上げて、局長さんが何でもないように返答する。あまりに自然だったから、一瞬何のことだか分からなかった。


「ええと、局長さんで、死神さん、何ですか?」

「正確には、死神だが、局長をやっているだけだな」

「何でですか?」

「ちょっとこの辺りでイレギュラーな出来事が起きたから、二年前から監視をするために、居座っている」


 そのことすら不本意だと言いたげに、局長さんは首を振る。なんだか人間臭くて、死神には見えないとか考えていると、局長さんが立ち上がった。


「こちらとしては、聖者と死者が関わりすぎるのはあまり推奨していなんだが、集まった手紙はちゃんと届けるから、安心してくれ」

「ありがとうございます。でも、これって局長さんからの提案じゃないのですね」

「俺は反対なんだが、‐‐にどうしてもと頼まれて、仕方なくだ」

「すみません。お願いします」


 誰に頼まれたのかはよく聞こえなかったけれど、私はそのまま頭を下げた。

 局長さんは、最後までしかめっ面を崩さずに、再び自転車に乗ってから漕ぎ始める。今度は港側に向かって、先程よりも固い表情で。


 遠くなっていく背中を眺めて、あの手紙が母に届くまでを思い描いていた。






   ○






お母さんへ


 母の日が近いから、改めて、お母さんに伝えたいことがあって、筆を執りました。

 最初にごめんなさい。私はピアノを辞めました。

 お母さんのピアノ教室を再開させるという約束を破ってしまった罪悪感と、もう怒られながら辛い思いをしながらピアノを続けなくていいんだという、ほっとした気持ちと、半分半分でした。きっと、ほっとした気持ちの方が、少し大きいと思う。


 私はピアノがとても下手だったから。お母さんも気付いていたかもしれないけれど、教えてくれなかった。ただ、誰のどんな演奏だって、お母さんは褒めてくれたから、そんなことしないと分かっていたけれど。

 下手なのは私だけど、お母さんがちゃんと厳しく教えてくれなかったから、と恨んだこともありました。あまりにひどい逆恨みだよね。ごめんなさい。


 だけど、ピアノを辞めてから、コンクールとか関係なく、ただの遊びのつもりで演奏している私の映像を見て、やっと気付いたの。私は、ピアノを弾くのが何よりも好きだってことに。

 それは、お母さんがピアノを教えてくれたから。お母さん以外の先生だったら、こんなに楽しくピアノを弾くなんてできなかったと、確信している。


 お母さんが亡くなって、もう八年経つね。だけどお母さんの遺してくれたこと、教えてくれたことは、夜空の星のように、いつまでも輝いている。

 あまりに光が強すぎて、何にも見えなくなったこともあったけれど、今までも、これからも、お母さんに向かって、私は進んでいるんだと感じているよ。


 ピアノをまた弾くのは、正直まだ怖い。

 それでも、いつか、いつかは必ず、ピアノを弾けるようになるよ。その時は、聞いててほしいな。


                         奏より



















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いつまでも輝く母へ 夢月七海 @yumetuki-773

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