いつまでも輝く母へ
夢月七海
上 独白
二年ぶりに訪れた、ことよ商店街だけど、ここは変わらない。いや、お店の変化はあるけれど、地層のように、過去は積み重なった現在の下から顔を出す。
例えば、私の目の前にある
あれはかつて、ことよピアノ教室が入っていた名残。私の母が、ピアノの先生として皆に慕われていた時代の痕跡だ。
十年前、母が白血病で入院する直前の最後の授業に、当時の生徒全員だけでなく、卒業生も詰め掛けて教室に入り切れず、この楽器店前まで人が集まっていた。もう、授業どころではなくなったので、母がみんなからリクエストを募る時間になった。
クラシックにジャズの定番ナンバーはもちろん、当時流行っている歌に最近のアニソン、アメリカのロックナンバー、さらには演歌に民謡と、リクエストの幅は広くて脈略もなかったけれど、母は嫌な顔一つせず、軽やかにピアノを弾いた。絶対音感を持つ母は、耳コピと即興演奏が得意だった。
見物客は曲が変わるたびに盛り上がり、ボルテージはどんどん上がっていった。母を中心に、温かい光が広がっていくかのようだ。私は、その姿を誰よりも近くで見れたのが何よりも誇らしかった。
それから二年、母は病気と闘った。私たち家族も母の病室に足繫く通ったが、母の友人、教え子と元教え子もほぼ途切れずに訪問してくれた。病室はいつも明るい笑顔と話し声で溢れていた。
いや、そうしたかったのかもしれない。母の病気は、着実に進行していて、見るに堪えないほど痩せ衰えて行ったから。私は、母の命の終わりを意識して辛かったが、それとは別の悩みがあった。
幼少期から、私も母のもとでピアノを習っていたのだが、母の教室が閉まったのをきっかけに、他の教室に通うようになった。ピアノの腕を磨いて、音大に入って、ゆくゆくはピアノの先生として、ことよピアノ教室を再開させたい。そんな夢を抱いていたのに……。
私の演奏は、とても下手だと、新しい教室の先生に言われた。こんな幼稚なレベルで音大に入ろうなんて、信じられないと。始めて突き付けられた現実に、私は心を折られてしまったが、母の前ではそれを必死に隠した。病気のこと以外で、母を心配させたくなかったからだ。
ポロンと、キーボードの音が聞こえて、私の意識は八年前から、現在の、天分楽器店の前のベンチへと戻ってきた。音のした方に顔を向けると、小さな男の子が、店先のキーボードを叩いている。
演奏していたのは、「きらきら星」だった。そのすぐ隣りには、母親らしき人が立っていて、最も愛おしいものに対する目線を向けている。男の子は拙くとも一曲弾き終わり、得意そうに母親を見上げた。
私の母も、ああだったのかなと、手を繋いで歩いていく親子を見ながら思う。母は、決して私に対して厳しい言葉を言わなかった。いつも演奏を褒めてくれたから、勘違いしていたところはあっただろうけど。
でも、それは母の贔屓ではなく、ピアノの先生としての方針だった。教え子の要望を第一に優先して、どんなに難しい曲を弾きたいと言っても、根気強く覚えるまで付き合ってくれる。技術的な事よりも、まずは音楽を楽しむことを知ってほしかったのだろう。
他の先生と比べると、母の教え方はかなり異色だった。しかし、そんな母の方針を肯定したくて、私は何と言われようとも、ピアノを続けていた。
そして、母の前では、ピアノを楽しく練習しているのだと、嘘をついていた。私の話をこけた頬に笑みを浮かべて聞く母に、本当のことなど何一つ言えなかった。
「ピアノ、頑張ってね」
それが、私に対する母の最期の言葉だった。ここでピアノを辞めるわけにはいかない、とめどなく涙を流しながら、そう思ったのも生々しく心に刻まれている。
だが、現実は甘くなかった。少しずつ腕を上げて、音大も合格圏内に入ってきた時、軽めの腱鞘炎が出来た。
「もう、無理しなくてもいい」
まだ程度の軽いので、ケアをしながらピアノを続けるという選択肢もあったが、父の一言で、私はやっと肩の荷が下りた。私の悔し涙もたくさん見てきた父だからこその言葉が、ボロボロだった心身に沁みていく。
今の私は大学生。音楽とは全く関係の無い言語学部で、英語を専攻している。そうして、母やピアノからは距離をとったはずなのに――
……今にも倒れそうなほど、ふらふらで進む自転車が目の前を通りかかった。乗っているのは郵便局員の男性らしいけれど、危なっかしくて心配になる。
「あれ? 局長さん、こんにちは」
そんな彼に、ランドセルを背負った小学高学年らしき女の子が、擦れ違いざまに話しかける。局長さんと呼ばれた彼は、その子の横を少し過ぎてから、きゅっと自転車のブレーキを握った。
地面に足を下ろした局長さんは、心なしか安堵の表情になっていた。さっきまで、自転車を漕いでいる時の真剣な顔とは大違いだ。
「ああ、
「うん。局長さんが配達って珍しいね」
「池端の奴がぎっくり腰になってな。今日は臨時だ」
「大変だね。でも、自転車練習していて良かったね」
「そうだな。じゃあ、気を付けて帰れよ」
「はーい。局長さんも気を付けて」
女の子に手を振られながら、これ以上どう気を付けるんだろうってくらいに慎重に、局長さんは自転車を漕いでいる。振り返ったり、片手を振り返したりしないのは、多分そんな余裕がないからだと思う。
そんなやりとりを見て、人との距離が近いっていいなとほっこりしていたら、私の目の前で立ち止まったその女の子と、ばっちり目が合った。何事かと、ベンチの上で仰け反ってしまった私へ、女の子がずいずいやってくる。
「あの、この前、あそこでキーボード弾いていましたよね?」
「えっ? この前?」
「あ、この前って言っても、二年前のことですけど」
「二年前……ああ!」
二年前、と言われて、落雷に遭ったかのように突然思い出した。まだ音大を目指していたあの頃、買い物でこの商店街を訪ねてふと、目に入った楽器店前のキーボードで、好きなジャズの曲を弾いた。
その時、小学生の女の子が飛び入りで、タップダンスを披露してくれた。その子が、身長も伸びた今、私に話しかけている。
「待ち合わせ中でしたか?」
「ううん。あそこ、亡くなった母のピアノ教室だったから、なんだか懐かしくって、見ていたの」
女の子の話に合わせることも出来たが、私は自然と真島税理士事務所を指さして、本当のことを言っていた。自分で自分の一言を信じられずに戸惑う中、女の子は納得したように頷いている。
「ことよピアノ教室ですよね? 懐かしいなぁ」
「え、ええ……」
教室が閉まった十年前、この子はまだ一歳か二歳くらいのはずなのに、目を細めてそう言うので、不思議に思った。でも、きっと兄か姉やご近所さんとかが、通っていたとかで、よく話を聞いていたのかもしれない。
そう納得した私の前で、女の子は急に悲しそうに、目を伏せる。
「
「うん。八年前に、白血病で」
「変わっていくのは寂しいけれど、しょうがないことですよね」
「そ、そうね」
なんだか年の割に達観している子だ。二年前にタップダンスした時や、さっき郵便局長さんと話していた時とは全然雰囲気が違くて、また戸惑う。すると、女の子は無邪気そのものという表情で、こちらを見据えた。
「お姉さんは、ピアノを今もやっているのですか?」
「あー……、ううん……この前、辞めちゃったんだ」
真っ直ぐな瞳に耐え切れず、私は目を逸らして、首の後ろを搔く。別に、その子は責めているわけじゃない。ただこちらの事情で、座りが悪い。
「ね、お姉さん」
「なあに?」
優しい声に、思わず女の子を見上げる。……その子の瞳の中に、一瞬だけ、鳥が過ぎ去って行ったかのような暗い影が見えた。なんだろうと思う間もなく、彼女はまた明るい笑顔に変わる。
「南口からこの商店街を出た先の道を真っ直ぐに進んだら、港を臨む位置にポストがあります。それはもう古くて、錆びだらけだから使われていないけれど、あそこに手紙を入れたら、亡くなった人に届くんですよ?」
「亡くなった人に、手紙が?」
「うん。もうすぐ母の日だから、お母さんにお手紙を書いてもいいと思いますよ?」
「……そうね」
私がそっと微笑むと、安心したように女の子は頷いて、「じゃあね!」と手を振って去って行った。小走りで北口側に向かう女の子の背中を見る。
あの子はあの子なりに、私を励まそうとしていたのかもしれない。それは素直に嬉しいけれど、今、私が母に手紙を書くのは、逆効果のような気がする。
私と生前の母は、とても仲が良かった。大好きだから、母の教室に通って、家でもピアノの曲を教えて貰って、一緒に弾くことも楽しかった。
だけど、母が亡くなってから、ピアノを辞める今まで、苦しくて、辛い思いでしか出てこない。もしも、母が私にピアノを教えていなかったら……とか、どうしても考えてしまう。だから、私が手紙に綴るのは母への感謝ではなくて――。
「奏さん?」
誰かに声を掛けられて、はっと顔を上げた。近くの高校のブレザーを着て、背中にギターケースを背負った少年が、私を顔を覗き込んでいる。
「あ、弦介くん……」
今度は名前がすぐ分かった。天分楽器店の息子の弦介くんだ。ピアノ教室の生徒ではなかったけれど、たまに遊びに来ていたので、教室最後の日も、母のお見舞いやお葬式にも来てくれた。
彼と会うのも、二年ぶりだ。私の二つ下だから、今は十六歳。高校に行ったら軽音部でギターをしたいと言っていたから、その通りにしたのだろう。
「どうしたんですか? うちに何か用事でも?」
「ううん。何となく、通りかかっただけで」
思えば、特に理由もなく商店街を訪ねて、大分長い時間このベンチに座っていた。小学生や高校生が帰宅するくらいなんだから。
そろそろ帰ろうと思って、腰を浮かせた私を、弦介くんは、「ちょっと待ってください」と手で制した。
「あの、奏さんが来たら、見せようと思っていたものがあるんです!」
「それって?」
「待っててくださいね!」
私の質問には答えずに、弦介くんは通行人にぶつからないように気をつけながら、自分の家に駆けて戻っていく。
五分近く経ってから、弦介くんがベンチに戻ってきた。手には、家庭用のビデオカメラが握られている。
「二年前、奏さんがうちの前でキーボード弾いてくれたことがありましたよね? その演奏を、撮っていたんです」
「あー、そう言えば、カメラ回していたような……」
小首を傾げてみせたけれど、正直覚えていない。あの後も色々あって、二年前のちょっとした出来事など、あっさり塗り潰してしまったのだろう。
何も知らない弦介くんは、私に肩を寄せながら、カメラの画面をこちらに向けて、再生ボタンを押す。小さな画面の中に、店の中から撮った映像が見えた。
キーボードの位置の関係で、私は店の中に顔を向けている。映像とともに、音楽も流れ出す。その曲を聴いて、私は思わず噴き出してしまった。
「相変わらず、下手ね」
真横で弦介くんが、「え」と驚いた声を上げて、こちらを凝視している気配がする。それでも、私が言っているのは事実だ。ジャズをやっている人なら、聞くに堪えないような演奏技術だろう。
「でも、とても楽しそう」
ただ、画面の中の私は、満面の笑顔だった。テンポが安定しなくて、音の間違いがあっても、全く気にせずに、音を奏でることを楽しんでいる。
さっきの女の子が、タップダンスで乱入しても、私は驚かずに、彼女の足さばきに合わせて、演奏を続けている。どんなハプニングにも驚かない様子は、いつかの母に似ていた。
何かが腑に落ちる感覚がした。そして、母に手紙を出そうと、自然に、でも強く思った。
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