さよならシザーデイズ

もも

さよならシザーデイズ

 長い前髪が好きだと言った人がいた。

 油分が少なくて右にも左にも流れず、真っすぐおろすことしか出来ない頑な前髪が愛おしいと彼は言った。黒く重い髪の間から時折覗く目がいいんだと僕の耳に囁いた。

「目にかかって前が見えにくいんだけど」

 そう訴えると、彼はハサミで僕の前髪を切った。

 右手にハサミを持った彼と、僕は真正面から向かい合う。彼の目はじっと、僕の前髪の先を見ている。長さは変えずに量だけ減らすのか、数ミリ切ったところで縦にハサミを入れて梳くのか。この間、僕はただただ彼の判断を待つ。目を閉じることは禁じられていた。

「目を開けた状態でないと、正しい前髪がわからなくなるから」

 正しい前髪とは何なのか、僕にはわからなかった。でも、彼の右手にあるハサミが今から僕の前髪に触れて、挟んで、いらない部分を容赦なく切り落として正しい有り様に作り替えていくんだと思うと、腹の底に鈍い熱さが湧いた。

 目を逸らすことも出来ずにじっとしていると、不意に彼の視線が緩み、カットが始まる。


 しょきん。しょきん。


 頭の中の紙に描いた完成形から逆算するように、彼はハサミを動かす。人差し指と中指でスッと髪を挟み、長さを確認しながら切る。切っては時折前髪をならして全体のバランスを見る。


 しょきん。しょきん。

 

 彼にとって不要と判断された髪が、次々と床に落ちてたまる。

 体温のように熱のある息が彼の指にかかるのがたまらなく恥ずかしくて、僕は出来るだけ静かに細く呼吸をした。

 微調整を終え、顔に張りついていた髪を一本ずつそっと取り除くと、彼は鏡を取り出した。

「出来たよ」

 ほんの少しだけ短くなった前髪の間から覗く目が、こちら側の僕を見ている。

「これじゃまたすぐに伸びちゃうよ」

 口を尖らせてわざと不満気にそう言うと、彼は僕の前髪にそっと唇を添えて「その時はまた俺が切るよ」と優しく笑った。

 

 そんな風に僕の前髪に触れる人がいたことを、僕は知っている。

 そしてこの先、その人が僕のためにハサミを取らないことも分かっている。


 僕は鏡の前に立つ。

 目の前には、ハサミを手にした僕がいた。

 もう僕の前髪の長さにこだわる人などいない。邪魔者がいなくなったとばかりに、前髪はすっかり伸びて僕の目を覆い隠し、鼻にかかりそうになっている。

 切らなくちゃ。

 ハサミを構えて、刃と刃の間に前髪を挟む。額にあたる冷たい感触にハッとした。

 彼の指にはあんなにも温度があったのに。


 ねぇ、こんなに伸びたんだよ。

 俺が切るって言ったのに。

 どうして。


 僕は前髪を掴むと、一気にハサミを入れた。

 

 じゃぎん。


 開ける視界。

 ガタガタになった前髪。

 左手に髪の束を掴んだ、鏡の中の僕。

 この手を開いて捨てないと、次を切ることが出来ない。

 そう理解しているのに、目が、指が、握りしめた髪から離れない。

 彼が口付けた髪。

 彼が慈しんだ、僕の前髪。

 心を切り裂くような激しい後悔が一瞬で全身を貫いた。

「ふ……ぐぅ……」

 ハサミを振り落とし、右手で口元を抑えたが堪え切れずに声が漏れる。

 

 ごめん。ごめんね。

 あんなに大切にしてくれたのに。

 僕は君みたいに器用じゃないから、こうでもしないと忘れることなんて出来ないんだ。


 良好になったはずの視界が滲んでぼやけている。

 さようなら。

 僕は呼吸を整えながら、硬く握りしめていた左手をゴミ箱の上でゆっくりと開いた。


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