肆
「……怒んないの?」
少女が、表情に戸惑いを滲ませた。
「何を? 頭と素行の悪い者から身を守ったことをでしょうか。あなたの師として褒めることはあれ、責める理由はありません。その後の行いにしろ、結果として今あなたに従う者がいるのであれば、ひと暴れも悪くはなかったのでしょう。あなたは気が晴れ、服従すべき者として認められたのですから。よくやりました」
大きな目を数回瞬かせた少女は、恥じらうように笑った。
「……そっか。そうかも。へへ、なんか、怒られると思ってた。――ね、やっぱさ、おれ、
青年の袖を、白い指が摘んだ。青年の振り解くべきだと思考し、実際にそうすることにはためらいが生じた。
「なあ老師、聞いてくれよ。おれガキの頃さ、花嫁さんになりたかったんだ。どぶさらいしながら、クソにまみれて、たまたま見た行列のさ、女の人が世界で一番幸せだ、みたいなツラしてた。いいなあ、って思ったんだ。絶対おれには無理だと思ったけど、羨ましかった。憧れ、ってやつ」
その機会を奪ったのは、少女の生まれだろうか。この国だろうか。それとも、身勝手に宮廷へと連れて行った青年だろうか。
「おれも、ああなりたい」
少女は粗暴な口調で、夢を見る少女のように微笑んだ。
青年は目を逸らさなかった。逸らすことができなかった。
「どうせ結婚しなきゃいけないんならさ、おれをどぶさらいと馬鹿にしない奴がいんだ。だからおれは
無垢な少女のように、強かな女のように、その尊い首を傾げ青年に問う。
「……私は、あなたに玉座を押し付けて、一人隠遁し、静かに余生を過ごしたいなどと勝手なことを望む人間です」
「知ってるよ。ほんと勝手だよな」
「人を駒としか見ていません」
「それも知ってる」
「あなたも例外ではない」
「うん。知ってるよ」
「生まれであなたを馬鹿にすることはありませんが、特別な感情を抱くこともないかもしれません」
「しょうがねえな。その分もおれが特別に想ってやるよ」
「……妻を得る気はないのですよ」
「おれも、帝になる気なんてなかったよ」
「世界で一番幸せな花嫁にしてやるなどと、大それたことは申せません。せいぜいが皇都で一番ぐらいでしょう」
「それ、大それてねえの?」
「誰に言っているのです。私は腐敗の蔓延した先帝の支配下にあって、隣国の侵略を退け、内乱を鎮め、民に寄り添う宮廷の最後の良心と謳われた稀代の智慧者です」
少女が声を上げて笑う。色々な感情が複雑に混じる笑顔だと、青年には思えた。
「いいね。すげえ自信じゃん。なら、待遇も相応のものにしねえとな。一日三食、飲茶昼寝付き。宮廷の書庫に隣接した離れを
「……話がいささか変わったようですね。離れに隔離される参謀に、権威は必要ありません」
「あー……、えっと、いや、もちろん表に出てくれんなら、それが一番ありがたいんだけど」
「出なくてもいいと?」
「そういう条件でもいい」
「それならば、やはり権威は必要ありませんね。帝の客人で十分です」
「あー……うー……いや、でも子どもが、必要で」
「私はあなたに知恵と策を授けましょう。種は他を当たりなさい」
「でも」
「あえて一挙両得を狙わずとも良い場合もあります」
「そう、なんだけど」
「軍部ならば心身ともに健康な男子が揃っているはずです。そしてあなたに従っている。掌握している、と仰いましたね。私でなければならない理由はないかと」
「……あ、うん……そっか……そうだよな……」
「……そう、とは?」
「……嫌、ってことだろ?」
「面倒事は嫌ですね」
青年の言葉に、少女はどこか途方に暮れたような笑顔を見せた。
「だよな。うん。ごめん。なんでもねえわ。参謀だけやってくれれば十分だった」
「……相変わらず、お前は大馬鹿者ですね」
「ごめん……」
「その上乱暴者で粗忽者かと思えばすぐに卑屈になり自身を矮小化する愚か者です。……誰を口説いているつもりですか。その程度で諦めてどうするのです」
少女が、大きな目を瞬かせた。
「自信を持ちなさい。あなたは美しい娘です。そして、あなたがしたように条件を並べ提示するのは、それが見合いの場合です」
「……あ? ……う、うん?」
「悪くない文句はありましたが、男を口説くには全体的にいささか問題があります。その上、救いようもないほど鈍い。あなたに男女の心の機微というものを教えてこなかった私の落ち度かもしれません」
「……そんなん教えれんの?」
黙り込んだ青年に、何もわかっていない少女は肩を落としたまま力なく笑った。
青年は、諦めたように溜息を吐いた。
平穏を享受した。身に余る時間を過ごした。
その返礼は、必要だ。
などともっともらしいことを並べた思考の中で、自覚していることがある。
不快感があった。
一体誰の差し金で、この娘の褥にどこの馬のものとも知れぬ男を放り込んだのかと。
「肩書は参謀で。もちろん表に立ちます。隠される趣味はありません。離れは先ほどの案で構いませんが、金魚は不要です。あれはすぐ死ぬ。池に放すなら鯉になさい」
少女が首を傾げた。
金魚なら色が鮮やかで池で泳ぐ姿は目に楽しい。しかし鯉は、食材としては優れているし不味い魚ではないという利点はあるが、色も姿も地味な普通の魚である。観賞には向かない。そんなことを考えたのだろう。
「観賞用としちゃ地味だな。食べんの?」
「観賞用にも食用にもなります」
らしい、と苦笑する女帝に、後に参謀兼女帝の伴侶として歴史に名を残す青年は告げる。
口にしてしまえば、存外それも悪くない。そんなことを思いながら。
「薬にもなる優れた魚です。……妊婦にとって」
最後に小さく付け足されたそれの意味が、少女はすぐには理解できなかったらしい。少し考える素振りを見せ、時間をかけその意味を呑み込んだ少女は、しばらくして目を見開いた。
その後に交わされたやり取りは、史書に記されることのない秘匿事項である。
恋する女帝と池の鯉 ヨシコ @yoshiko-s
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