第2話 この関係に終止符を

 仕事が一段落したところで、梓は晩御飯の準備を始めた。

 家事分担制の為、平日の晩御飯は梓が担当なのだ。

 慎太郎が通常の時間通りに帰宅すれば一緒に食事をとり、帰宅が遅ければ一人で食事をとる。

 帰宅時間が分からない慎太郎の分まで作るのは、慎太郎が残さずに次の日の朝までにはしっかり完食してくれるからだろう。

 料理があまり得意ではない梓からすれば、文句を言われずに食べてくれるのはありがたい事だった。


「痛っ…」

 どうやら、野菜を切っている途中で手を滑らせてしまったらしい。

 人差し指にうっすらと血が滲んでいた。

 食品に血がつかないように注意しながら、急いで絆創膏を貼った。

 絆創膏を探している途中で慎太郎が帰ってきたらしく、慌てている梓に声をかけた。

「ケガ?」

「そう、切っただけ」

 梓はなんともないと言った様子で答えたつもりだったが、気まぐれに慎太郎は質問を重ねた。

「あー…、だいじょ」

「心配なんてしないで、ルール忘れたの?」

 梓は慎太郎を見据えながらしっかりとした口調で続けた。

「気まぐれの優しさなんていらない。そういう約束でしょ?」

「…わかってる、悪かったよ」

 善意は時に人を傷つける、それをわかっているからこそ、慎太郎は自身の非礼を詫びた。

 忘れる所だった…。

 俺たちにそんな生易しいモノなんて必要ないのにな…。 

 

「なぁ、俺、昇進する事になったから」

「…ふーん」

 食事中、慎太郎が話しかけてくるのは珍しい事では無いがその声色が思ったよりも真剣なものであったのに梓は少しだけ驚いた。

「だから、東京の本部に配属される事になった」

「ふーん…?」

 梓と慎太郎は宮城県に賃貸マンションを借りて住んでいる。

 慎太郎の昇進が決まり、東京に配属されるという事は、もうここには住めないという事だ。

 この生活も、もう終わりか…。

「いつあっちに行くの?」

「次の企画から入って欲しいって言われてるから3ヶ月後の9月末頃かな」

「ふーん…」

「梓はどうすんの?お前だけだとここ払えないだろうし…」

 慎太郎が少し申し訳無さそうに聞く。

「仕事はどこでもできるから、久しぶりに地元の青森に帰ろうかなー」

「そっか」

 2人はなんでもないように装っていたが、その日はそれ以上、会話を交わすことはなかった。 


 慎太郎の転勤が決まってからの数ヶ月間も、2人はなんでもないように、気まぐれに身体を重ね、互いに必要以上に干渉しない生活を繰り返した。


 引っ越しの前日、それぞれで荷物の整理をし、明日乗る新幹線のチケットの確認をする。

 部屋はガランとしているのに、ダブルベッドとソファだけがゴロンと置かれている。

 梓が必用としなかったので、慎太郎が引き取る事となった物だが、この2つは慎太郎が改めて取りに戻るらしい。


 最後の夜は2人で早めにベッドに入った。

 背中合わせのまま、慎太郎が話しかける。

「明日でこの生活も終わりだな」

「何か言い残したい事ある?」

 予想外の梓の言葉に慎太郎は少し考えてから「俺たちの関係に残すところなんてあったか?」と返すと、梓も軽く笑って「確かに、それもそうね」と返した。

 その後もまだ眠そうではない梓と会話を交わし続けた。

 会話と言っても、慎太郎が聞き、梓が答えるだけのものだが。

「なぁ、俺たち何年一緒に暮らした?」

「3年」

「ベッドとソファほんとにいらないのか?」

「いらない」

「…梓は誰とでもこういう関係持つのか?」

 これまで端的に返ってきた梓の返事が突然、途絶えた。

 慎太郎自身もなぜこんな事を聞いたのか、自分が分からなかった。

 ただ、最後にきいて置きたかったというがあったのかもしれない。

「…今日はよく回る口だね。そっくりそのまま返すから、自分の胸に聞いてみたら?」

 フッと笑いながら慎太郎は「それもそうか」と答えた。

 なんだか長い夜になりそうな気がしてそっと寝返りを打った。

 すると、梓もすでに寝返りをしていたらしく、向き合う形となってしまった。

 お互いの瞳を正面から見据えると、どちらからともなく唇を重ねた。

 そして、ふと梓が言った。

「私、あんたのこと嫌いだよ」

「俺だって嫌いさ」

 こういう時、普段は幼く見える梓の顔が急に大人の顔に見えるから不思議だ。

 2人は嫌いな者同士、互いの欲にまみれ、最後の長い夜を過ごした。


「じゃあね、忘れ物あっても捨てていいから」

 広々とした駅の改札前で梓が言った。

「まぁ、そもそも渡せねぇけどな」

 LINEも電話番号も知らない2人の関係は離れる最後の瞬間ときまで変わらない。

 人が行き交う駅の中、どちらからともなく互いの瞳をしばしの間見つめ合うが、そこに悲しさはない。

「…じゃあ、もう会うこともないと思うけど、元気でね」

「そうだな、梓も身体に気をつけろよ」

 そして、互いに背を向けた。

「じゃあね、慎太郎」

「じゃあな、梓」

 手を振る事も、別れを惜しむように振り返る事もなくそれぞれ別の改札を通る。

 1人で歩く駅は他の人のキャリーケースを引く音がやけに大きく聞こえた。


 慎太郎が死んだのはその半年後で、梓がその事を知ったのは、その日から2年後の事だった。

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愛なんていらない umi @umi3

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