お気に入りの水平線
大隅 スミヲ
第1話
空は澄み渡っていた。風は凪いでおり、波の音だけが聞こえている。
シーズン前の海水浴場の砂浜は、犬の散歩をするにはちょうどいい空間だった。
時おり、ウエットスーツに身を包んだサーファーたちが波間に浮かんでいる姿が見えるが、きょうの天気では彼らの待っているような良い波は来ないだろう。
周りに人がいないことを確認してから、私はウラからリードを外してやった。ウラはサモエドというロシア原産の大型犬であり、白いフワフワでモコモコな毛が特徴だった。ウラはオスで3歳という年齢の立派な成犬だ。ロシアの犬ということもあり、寒さには強いが夏の暑さには弱かった。だから、昼間暑くなるこの時期は日が昇る前に散歩に出掛けるようにしている。
リードから解き放たれたウラは波打ち際のギリギリのところを攻めるように走り回っている。自分が濡れるか濡れないか。そんな遊びをしているのだ。
ウラは私が声を掛けるまでは、ひとりで海岸を走り回って遊んでいる。それがいつものことだった。私も一緒に走り回ったりしてやりたいが、そこまでの元気はない。ウラの散歩を終えた後、シャワーを浴びて仕事をはじめなければならないのだ。体力は残しておきたい。そういう気持ちもあるし、ずっと座り仕事で衰えた足腰で走り回れるほどの若さもないのだ。
いまの仕事は四十代になってから、はじめたものだった。それまでは会社勤めのサラリーマンで、早朝の満員電車で揉まれながら出社し、終電ギリギリまで残業して帰宅するという毎日を送っていた。家にいる間にするのはシャワーを浴びて、寝るだけ。そんな生活をしていたせいで、妻とも離婚した。このままではいけないと思ったのが三十代半ばになってからだった。気づくのが遅すぎたということはわかっている。だが、気づいたところでどうにもならないと思っていたのだ。
しかし、それがどうにかなってしまった。会社は在宅ワークをするように社員に通達し、出勤はしないでほしいとまで言ってきた。そう、新型コロナの世界的な大流行のせいだ。この大流行をきっかけに、私の生活はすべてが真逆となった。
一日のほとんどを過ごしていたはずの会社には行かなくなり、一日中家の中で過ごした。密着するほどの満員電車に毎朝乗っていたのに、大勢の人がいる場所を避けるようになった。会議室でバチバチに討論して企画の検討をするのがメイン業務だったのに、パソコンのカメラに向かいオンラインで画面越しに静かな口調でデータを見せ合うスタイルになった。
もう、会社は自分のことを求めていないのではないか。そう思った瞬間に、私の張り詰めていた糸は切れてしまった。
なにもやる気が起きなかった。会社も私のような人材は必要としていないのではないかという気持ちになっていた。
そんな折に大学時代の友人から連絡が来た。直接会うことはできないが、リモート会議のように画面上でお互いの顔を見ながら話せるというのは、ある意味コロナのお陰ともいえることかもしれない。もしも、コロナが流行らなければ、私はこのような技術が世の中にあるのだということを知らないままだった。
お互いの近況を話したりしているうちに、昔一緒にやっていた活動の話となった。
そういえばさ、まだ書いているの。
彼女のそのひと言に、私はハッとなった。大学時代、私は小説を書いていた。彼女と数人の友人たちと一緒に小説同人誌を出したこともあった。そして、とある文学賞で佳作をもらったこともあったのだ。
彼女との通信を切った後、私は何の気なしにパソコンのテキストエディタ―ソフトを立ち上げて文章を書きはじめた。最初はブランクもあったせいで上手く書くことができなかった。しかし、書いていくうちに書くことが楽しくなっていき、どんどんと書き進めるようになった。
そして、およそ10万文字の小説が一本仕上がった。
何度も推敲し、人に見せても大丈夫だと確信を持ってから、彼女に見てもらうことにした。
面白いじゃん。わたしに見せるだけなんて勿体ないよ。何かの公募に出してみなよ。
私は彼女の勧めに乗るまま、とある文学賞にその小説を応募した。
結果は落選だったが、その後で編集者から連絡があった。
その編集者は私が以前、とある文学賞で佳作を取ったことを知っていたのだ。
そして、話は良い方へと転んだ。
いまは会社を辞め、この海岸沿いの町に移り住んで仕事をしている。
とある作家は芥川賞を受賞した時に「そろそろ風俗にでも行こうかなと思っていた」といったコメントをして話題となった。
私はどうしようか。
このお気に入りの水平線を見ながら受賞の連絡を待つのもいいかもしれない。
そんなことを思いながら、朝日が顔を覗かせはじめた水平線を見つめていた。
お気に入りの水平線 大隅 スミヲ @smee
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