不完全なふたり

槙野 光

不完全なふたり

「ねえ良二。海に行こう」

 肌を這う汗と乱れたシーツ。寝台の上で彼女を見下ろし息を整えていると、彼女が言った。

「……うみ?」

「そう、海。朝陽を見に行こうよ」

「……あさひ?」

 数十秒前までの怠惰で妖艶な空気にそぐわない彼女の誘いに惑う俺は、きっと悪くない。

 海、朝陽。爽やかさを纏う言葉が情事を終えた恋人の間にのぼる話として相応しいのか真剣に自問自答するが、考えてもしょうのないことだと瞬時に切り替える。このまま二回戦に縺れこもうとしていた下半身を宥め、彼女の上から退いた。身体を横にし彼女と向かい合うと、彼女の頬は淡く上気していた。情事の名残に未練がましい眼差しを向けると、彼女が再び言う。

「行こうよ、良二」

 甘えるでもない、確かな口調。

「……分かったよ」

 惚れた弱みにため息を漏らしてしぶしぶ顎を引くと、彼女が嬉しそうに笑う。

 寝台から起き上がり、淀みない足取りで風呂場に向かう彼女を見送ると、鼻歌が聞こえた。彼女の中でその気が一切ないことを改めて悟り、観念して起き上がる。

 脱ぎ散らかした服を拾い、白濁とした記憶をゴミ箱に捨て去り、身なりを整え彼女とふたり、夜も明けない内から車を走らせた。

 彼女のスマホのBluetoothを繋げると、助手席に座る彼女が両手でスマホを弄る。車中に、ポップな曲が流れた。

 歌と、赤の軽自動車と、二十代半ばの男女。

 一見どこにでもいるような恋人同士。順風満帆だと胸を張って言いたいし、そうであって欲しいと願っているが、スマホを弄る彼女の左手がそれを否定する。 

 彼女の左薬指で、嘗ての恋人から貰った銀色の指輪が鈍く光っている。

 それを見る度、俺は幾度となく妬心に駆られ、胃の腑が煮えたぎりそうになる。いつもは必死に押しとどめていても、情事のときばかりは箍が外れてしまう。けれど彼女は何も言わない。情事を終え、寝台に腰掛ける俺の背中に額を預け、傷口を癒すように口付けを落とす。静寂な空気に響くリップ音はひどく痛々しく、時折耳を覆いたくなる。

 どうしてこうなってしまったのか、考えても分からない。

 恋人を亡くし、目も当てられないほどやせ細っていく彼女を見ていられなかった。彼女をこの世界に繋ぎ止めたくて必死に慰めた。側にいる内、秘めていた想いが這いずり出て欲張りになった。彼を忘れなくてもいいから寄りかかって欲しいと、叫ぶように望んだ。

 時間は掛かったが、彼女は徐々にそれを受け入れてくれた。けれど、彼女から愛の言葉が返ってくることはない。この関係が歪だと分かってはいるが、今更止めることはできなかった。だから、朝陽を見に海に行こうだなんて不健全な営みの直後に言われるとは思ってもみなかった。

 被った恋人の皮がいつ脱げてしまうのか怯えている俺の心を慰めるためか、はたまた嘗ての恋人との思い出が恋しくなったのか。考えを巡らせる俺をよそに、隣にいる彼女は楽しげに口端を緩ませる。時折憎らしくなるが、結局は惚れた弱みに負けてしまう。

 俺と彼女の不完全な関係を一旦閉じ込め、言い聞かせる。

 今ここにいるのは、健全な恋人同士だ。


♦︎


 海岸沿いにある駐車場に車を停め砂浜に足を踏み入れると、翳りを帯びた紫紺の空が消え去ろうとしていた。水平線をぼかすように朝陽が昇る。夜の星が朝を迎え海に移り住んだのか、橙色に染められた海は光を散らしていた。

「……綺麗」

 風に靡く髪を手で押さえながら、彼女が陶然と呟く。見ると、頬を染めた彼女の眸に海の輝きが映り込んでいた。

 車を走らせ時間を掛けて辿り着いた先で、実物ではなく、彼女の眸に映り込んだ水平線のほうが綺麗だと思い、自嘲する。

 もう、引き戻せない場所まで来てしまった。

「綺麗だね……。良二」

 彼女がこっちを向く。緩んだ眼差しの中に俺が映る。

「……ああ、綺麗だな」

 前を向き、海を見る。橙色が引いていき、空色に移り変わっていく。どこまでも続く水平線に、捻じ曲がったこの気持ちも真っ直ぐに凪いでいけばいいのにと、そう思った。


 帰りの車中で、しっとりとしたピアノの曲を掛けた彼女が言う。

「綺麗だったね。今日の水平線は間違いなく私のお気に入り景色ナンバースリーに入ったよ」

「何だそれ」

 思わず苦笑すると、彼女がふと淡い笑みを浮かべて言う。

「空と海が一体となってどこまでも伸びる姿を見ているとさ、人間てなんてちっぽけなんだろうって思わない? この世界からしてみたら私たちの苦悩なんてあってないようなものなんだよね、きっと……」

 遠い眼差しに何を映し出しているのか、彼女に訊くことはできなかった。けれど、いつか。彼女と見た水平線が、いつか俺の中でもお気に入りになるだろうか。まっさらな心で笑って、綺麗だったねって彼女に言える日が来るのだろうか。

 考えたが、やはり分からない。

 今はただ、彼女の言葉を受け止めハンドルを握りしめる。そして、彼女がお気に入りだと言った水平線を遠ざけるように車を走らせた。

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不完全なふたり 槙野 光 @makino_hikari

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