第9話 俺たちの戦える相手じゃない
鳴り響くサイレン、そして囚人と刑務官たちの怒号。東京拘置所は、完全に混乱状態に陥っていた。
その頃、死刑執行施設を出た片桐は、喧騒の止まない拘置所の通路を手当たり次第、突き進んでいた。その中で、彼は慌ただしく考えていた。
力の使い方はだいたい分かった。要するに、やりたいことを心の中にイメージすればいい。相手の首を斬るイメージをすれば、その通り斬れる。真っ二つにするイメージができれば、その通りになる。それはモノが相手でも変わらない。執行施設にあった分厚い鉄の扉も、裂け目ができるとイメージするだけで、裂け目ができた。
だが、何でも思い通りになるかというと、そうではない。思うに任せないのは移動手段だ。足は動くので歩ける。だが、生まれつき障害のある彼の足が治るわけではないらしい。歩くのでは遅すぎる。
とりあえず地上から10センチほど足を浮かせて飛ぶことにした。歩くよりは速いが、普通の人が走る速度とあまり変わらない。生前、彼が動かしたことのある最速の乗り物は、オンボロのママチャリだ。時速30キロを超えて自分が移動することは、うまくイメージできない。
それに、この力について、まだ分からないことがある。この力は無限に使えるのか?それとも有限か?もし有限なら、一番殺したい奴が目の前にいるのに「弾切れ」ということも起こりえる。これだけは絶対に避けたい。分からない以上、力は節約して使うしかない。執行施設でやったような手当たり次第の殺戮は、二度としない。やりたいのは復讐だ。
たが、今すぐ考えて、決めなければならないことがある。
「自分を攻撃してくる相手はどうする?」
自分の腕の皮膚を触ってみる。生きている時のように柔らかい。とても弾丸をはじき返す装甲になるとは思えない。だから攻撃してくる相手には、反撃をするしかない。こっちが撃たれる前に、殺すしかない。
しかし、「人を殺す」という行為が、どこまで許されるのか…?彼らには、子供だっているかもしれない…片桐の脳裏に、逮捕されてからの地獄の日々が蘇る。そして、思い直した。
「逃げる奴までは追わない!だが、俺を殺そうとするからには、俺に殺される覚悟もすべきだ!」
東京拘置所の通路は、脱走を防ぐために、迷路のように曲がりくねっている。建物全体の構造を把握しない限り、自分が東西南北、どちらの方向に進んでいるのか分からない。
「とりあえず建物の外に出よう…」
片桐は手当たり次第、進めそうな通路を進む。
行く先々で、ところどころ扉が開いている。たしかに4年間、片桐はずっと東京拘置所にいた。だが、所内を自由に歩けたわけではない。自分の入れられた房以外のことは分からない。開いている扉が普段から開いているのか、それとも閉まっているのか、見当もつかない。
この時の片桐は、
「力は節約して使わなければ…」
という思いにとらわれていた。力を使って周囲の壁を手当たり次第ぶっ壊す、という選択肢はない。迷わず開いた扉に入っていく。
ふいに晩夏の青い空が、片桐の頭上いっぱいに広がった。陽光を全身に浴びたのは、何年ぶりか。前方に、東京拘置所を囲む高い外壁が見えてきた。自由と牢獄。2つの世界を隔てる5メートルの灰色の塀。その先には、8年間ずっと恋焦がれた自由な世界が広がっている。
しかし、感慨に浸る暇はなかった。壁の手前では、鎧のような防弾装備に身を固めた20人ぐらいの集団が、拳銃を構えている。
「邪魔だ!!どけ!!」
そう叫ぶと、片桐は顔に絡みつく蜘蛛の巣を振り払うかように、右手を大きく振った。
9月4日09時40分
執務室にいた近藤副所長が、連絡を受けて中央管理室に駆け付けた。近藤副所長の到着でmパニック状態にあった中央管理室が秩序を取り戻す。
竹中所長と違い、近藤副所長は一刑務官からのたたき上げだ。現場を知り尽くし、勇敢に決断し、的確な指示を出す。部下からの人望はすこぶる厚い。
「こちら死刑執行施設、現状を報告します。」
調査に行かせた部下から内線が入る。
「石岡、生存者はいるか?」
お飾りの所長と違い、近藤副所長は800人近い部下の名前を全て覚えている。
「所長以下、刑務官は全員死亡。岩木検察官の死亡も確認されました…、なお、女性事務官の1名のみ生存を確認…」
「事情は聞けそうか?」
「無理です。ひどい錯乱状態で…会話ができる状態にありません。」
近藤副所長の厚い人望が、恐怖でバラバラになりそうだった刑務官たちの心を一つにまとめ上げていく。
「片桐はどうなっている?遺体は確認できるか?」
「いえ胸の識別章から、遺体は全て刑務官と検察官ものと考えられます。片桐の遺体は…確認できません。」
「逃走の形跡はあるか…」
「いいえ…いや、ええと、信じられません…隔壁に縦150センチ、横40センチの裂け目を確認!」
「厚さ5センチの鋼鉄板だぞ?ダイナマイトでも使ったのか?」
「分かりません。硝煙臭などはありません。爆発の跡も一切確認できません。」
「一体、何があった?」
近藤副所長は、首をひねる。
もし執行施設内で監視カメラが作動していたら、中央管理室も何が起こったのか把握できただろう。だが、死刑執行時の映像は一切残せない。死刑に反対する団体が、執行の様子を公開するよう、執念深く裁判闘争を繰り広げている。万一、変わり者の裁判官が公開を命じでもしたら…とても国民に見せられるような映像ではない。
現状は、何もかも分からないに等しい。35人が斬首され、1人が体を2等分された、そして死刑囚が逃走した。分かっているのは、それだけだ。
しかし、迷っている暇はない。近藤が頭に乗せた制帽の位置を直す。
「ヤツが殺しを
キッと強く拳を握る。相手は正体不明の強力な兵器を持っている。こちらの最大戦力をぶつけない限り、さらに犠牲が増えるだけだ。
「完全装備の特機隊を出せ!見つけ次第、射殺せよ!」
特機隊(SeRT)、正式名は特別機動隊。東京拘置所内での大規模な暴動に対処する重装備の刑務官部隊だ。分厚い防弾装備に身を包み、拳銃を携帯して出動する。
「そっ、それは東京管区長(=関東地方の刑務所を管轄する法務省高官)どころか…次官や大臣の決済が必要な案件かと…」
驚いた警備責任者が、世槍を入れた。
「もう、36人も殺されてんだぞ!そんな暇があるか!」
近藤が一喝する。もう、一切異論は出なかった。
「上からの処分は全部俺が引き受ける!俺たちの誇りにかけて、奴を絶対に外に出すな!」
この決意に満ちた近藤の言葉に、刑務官たちは奮い立った。真っ黒なヘルメットと防弾服に身を包んだ屈強な男たちが、武器庫へ走る。
「総員、装備確認、弾倉改め!」
そこに、武器庫の内線が鳴った。
「近藤だ!改めて指示を伝える。コンクリートの構造物内での発砲は避けよ。跳弾で二次被害が出る!」
もっとも安全に、片桐を葬れる場所…それは、
「北西の角にある運動場にヤツをおびき出せ!射程に入り次第、発砲!射殺せよ!」
「こちら特機隊長、黒田、了解!」
黒づくめの男たちが、勢いよく武器庫を駆け出して行った。
片桐は、知らず知らずに近藤の張る罠に近づいて行った。気が付いた時には、もう20人もの刑務官に拳銃で狙われていた。
10時15分。
「こちら特機第二小隊長、吉岡。片桐を視認。距離60メートル。こちらに向かってきます。」
「こちら管理室。20メートルまで近づいた時点で、直ちに発砲せよ!」
「第二小隊、了解!」
「頼んだぞ!」
近藤は固く拳を握ったまま、運動場を映すモニターを睨む。
片桐が40メートルまで近づいた、片桐が蜘蛛の巣を振り払うようなしぐさをした。その時!銃を構えていた隊員たちが、いきなり突風に煽られた木の葉のように吹っ飛ばされる。
バン!
バン!
バン!
隊員の背中が、北側に
「早く…救護班を編成しろ…」
その言葉を最後に、近藤はモニターの前で呆然と立ち尽くした。中央管理室の刑務官も石像のように凍り付く。そのまま数秒が過ぎた。
「あっ!」
刑務官の一人が、モニターの端を指さした。倒れていた27と書かれたヘルメットの隊員の手が…かすかに動いた。
「若松だ!生きていたぞ!」
灰色になった近藤の眼が、少しずつ光を取り戻していく。だが、動いているのは手だ。足は…全く動かない。近藤は、床に崩れ落ちた…
「…腰椎を…やられたんだ…」
特機隊は全国から、武術や体力に秀でた刑務官を選抜して組織される。毎日厳しい訓練に耐え抜いた者だけが、「SeRT」の記章を胸に付ける。若松は、配属されたばかりの26歳だった。長年鍛え上げられた彼の両脚は、今日、その主を歩かせることすらできなくなった。
誰も見ることのなくなったモニターは、タンポポの綿毛のように、フワリ、フワリと体を浮かせて壁を飛び越えていく片桐を映していた。
そのとき、管理室に無線が入る。
「こちら第六小隊長、小野田。西側から第二小隊の応援のため運動場へ接近中。現着まで、およそ1分。交戦許可願います…」
「い、行くな!今すぐ引き返せ!」
近藤が叫んだ。一瞬、間があって、無線から応答があった。
「こちら第六小隊…近藤副所長、命令の意味が…分かりません。」
「アイツは化け物だ!俺たちの戦える相手じゃない!すぐに引き返せ!」
「し、しかし…」
「頼む!行くな!無駄死にするな!」
近藤はマイクに絶叫した。涙声だった。
「り…了解!第六小隊、直ちに追跡を中止。帰還します。」
近藤副所長は、よろめきながら立ち上がる。そして、床に落とした制帽の塵を静かに払い、もう一度頭にのせた。
「本省と…警視庁に連絡…死刑囚が逃走した…」
怨霊無双 嫁内妻無 @2024050714
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