3話

 天眼の儀が迫るほど、天子は目に見えて憔悴していった。もうすべて暗記出来ているというのに、鬼気迫った様子で札をめくり、ぶつぶつと数をかぞえている。

「もう覚えただろうに、何がそんなに不安なんだ」

 天子は目をさまよわせ、手のうちに視線を落とした。また少し肌が、明るくなった気がする。影の濃さがそう見せるのだろうか。

「神威ある天眼を持たぬのに、玉座について本当によいのだろうか」

 神を騙すことになるのではないか、と天子はふるえていた。今更何をいうのかと思えば。

統貴すめらきになりたいんじゃないのか」

「私は天眼なんだ。天子でなければいけないんだ。そうでなければ、この国は終えてしまう」

 嫡子に天眼の生まれぬ世は乱れる。天眼が生まれながら、統貴にならなかった世も乱れる。天眼は統貴となってこそ、天眼なのだ。そう、心底怯えたように涙声で語る天子に、おれは呆れた。

 馬鹿馬鹿しい。

 素直にそう思った。たかが瞳の色で、見えているもので、神だの、国だの。中身はただ人に過ぎないのに。

 生まれ持ったものだけで決められる。

 ――ああ、本当に、どうにもならないことばかりだ。

 誰にも、どうにもしてやれん、と叩かれた背の温かみを今、痛いほど思い出す。

「もし天眼を持つお前に光が見えないというなら、神がそう望んだんだろう。見えなくていい、と言った。それでいいじゃないか」

 そんなこと、と天子は言葉をつまらせた。そして唇を噛み、おれを睨んだ。

「君は見えるからそう言えるんだ。ずるいよ」

「何がずるい。それを言うなら、お前は色が見えるなんてずるい」

「私は! 光がみたかった!」

「なら見ればいいだろう!」

 天子が癇癪を起こしたように甲高く叫び、おれは怒鳴り返した。

「お前はおれの瞳を同じ色だと言った。おれにわからないものを、お前が見つけて、お前が与えた」

 庭の橘を、木々の葉に埋もれてわからなかったまだ色づいていない実を、天子はもいでおれによこした。手のひらに乗せられて、そしてそこに爪を立てるまで、おれはその存在に気づきもしなかった。

 その香りは甘酸っぱく、華やかに広がり、目の前を明るく色づかせるようだった。

 これが橘だ。この色は十一、自由の色。どうだ、ふさわしい色だろう、華やかで、嬉しくなる。

 秘密を明かすようにそう笑った天子を見たとき、おれはたしかに色を見た気がした。

 それはあおだ。おれにはわからないあお。この国では草も、葉も、山も、空も、海もあおと呼ぶ。あれが、青だったのだろう。甘酸っぱく、華やかで、喜びに彩られたいろ。おれが焦がれた、色。

 おれは光の数を教えた。それでお前は、王になれると思ったのに。

「お前はこれだけの道を整えられて、たったひとつの資質が足りないだけであきらめるのか。甘ったれるなよ」

 低く呟いた言葉は、すべて自分自身に返ってくる。瞳のいろがなんだ。東より来たる嵐の獣、それがなんだ。おれは自由になりたかったんじゃない。人に、なりたかったんじゃない。

 どうにもならないことばかりだが、誰にも、どうにも出来ない望みがあった。見ることすらあきらめていた光があった。

「自由という数はおれの国にはない。あるのは十と一を合わせた、ただの十一だ。十二だって十三だって関係ない。手に入らないものなんて、決められていない。全部手に入るんだ」

「それは、私の国では通じない」

 天子は雨粒のように涙をぽろぽろこぼしながら、立ち上がったおれを見上げた。

「知るか。統貴にならないなら、全部捨てて魚になっちまえ」



 外はまだ土砂降りだった。

 それでもおれはしばらくの間ともに暮らした天子の宮を出て、客室として残されていた自分の部屋へ戻った。

 天眼の儀の前に、国を出ることを決めた。


 もし天子が天眼の儀を失したら今度こそ種馬かもしれん、と言うと従者は、それもいいんじゃないですかね、と血迷ったので蹴り飛ばして旅支度をさせた。

「まさか本当に嵐の目となってしまわれるとは……」

「うまいこといったつもりか?」

「でも天子さまのことはいいんですか? せっかく仲良くなられたのでは?」

 教えられることは教えたし、言うことは言ったのだ。これ以上、おれにはどうしようもない。

「それに国を出るって、何処へ行くつもりなんです? 風任せの自由旅ってわけには、さすがにいきませんよ」

「たしかに自由は手に余るな」

 首を傾げた従者に、十を超える数の話をしてやる。

「自由が十一とはまた、歯がゆいですね」

「ああ。だからお前の手を貸せ」

 従者は目を丸くして、それから笑った。

「どうぞ、お使いください。あなたの手からこぼれおつすべてを、俺は受け止めてみせましょう」

「二十一は、まあ行儀は悪いが足を踏み出せば取れると思う」

「二十一って、なんなんです?」

「玉座」

 神が治める、あの国らしい言葉だ。




 龍紋の椅子に深く腰掛けて、おれは使者からの報告を受けた。

 国統一の兆しなく、天眼は失われて久しい、娘をもらい受けたい、そんな馬鹿げた手紙が先日送られてきたので、遣わせた調査の報告だ。

 案の定、統一の兆しもなにも王朝はもはや有名無実、小競り合いをするだけの豪華な鳥かごで、実際に治めているのは各地で任じられた将だ。民衆は将の政によってそこそこ平和に暮らしている。

 おれが訪れた頃からあそこはそうだったのだ。今更新たに天眼の統貴が立っても、王制の復古などかなうわけがない。寝言は寝て言え、というやつだ。

「本当に荒れていたらおれが治めてやるのもよいかと思ったのにな」

「そんな余裕がおありで?」

「ないなあ」

 昔は暇に飽かせて糸巻をカラコロ織ったものを、あれから三寸も進んでいない。織りかけは埃をかぶったまま。それでも糸を外すのが癪で、いくら邪魔だと言われようとそのまま置いてある。

「久々の船旅は骨が折れましたよ。あっちについたら懐かしい豆と豆と根っこと草の食事で、でも歳をとったからですかね、ああいうのもいいですね。おかげでこっちに戻ってきてからすべてが脂っこく感じられます」

「昔もそうだっただろ」

 何を年寄りぶっているのか。ヒヒ、と笑う顔は昔から変わらず、それでも皺もしみも増えた。たしかにいつの間にか、ずいぶん年は取った。

「そうそう、お土産です」

 渡されたのは組紐より少し幅の広い織物だった。髪紐だろうか。なぜこんなものを、と思ったのは一瞬で、おれは受け取ったその布をまじまじと見つめた。

「髪紐ですが、糸巻織に似ているでしょう?」

 久しく手に取っていないが、間違いない。たしかに似ている、というよりそのものだ。

 おれが織ったものは資金源にとすべて売り払ってしまったから、今は織りかけの一枚しか手元にない。売り払ったものは何処へ行ったのかなどわからず、だからこそ本当に久しぶりの手触りだった。そしておれが織ったものにしては、新しすぎる。これは別人の手によるものだ。手触りも羊毛ではなく、おそらく絹か、麻だろう。

「南海の小さな島に補給で寄ったんですが、女たちが歌いながら糸車をカラカラ、コロコロ鳴らしてましてねえ。思わず懐かしくて、買ってしまいましたよ。いや、あるところにはあるもんですね、似たような工芸って」

 そうかもしれない。似たものかもしれない、そう思いつつも、おれは唇を湿らせて問うた。

「どんな唄だ?」

「こどもの数え唄みたいなもんでしたね。おそらく糸巻の順番を唄であらわしているんでしょう、それにしてはちょっとふしぎな唄でしたけど」

 耳に残ってしまったので、歌えますよ。そういって、彼はうたう。

 雨音が聞こえる。木と黴と、潮と花の匂いがよみがえる。そして白く細い指がつまみ上げた、丸い果実。

 唄は同じ節をくりかえし、そして最後に、こう締めくくられた。



 ――空はたちばな、何ぞと問えば、龍に伝える数と答えよ

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自由を示す数を答えよ @highkyo

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