後編

 足を踏み入れた部屋は床も壁も白かった。クロノスの言った通り、最奥にそれとわかる扉があるだけで、それ以外には何もない。そして部屋の中央には椅子——いや、電動車椅子に座る女性がいた。


「リン?」


 音もなく滑らかに車輪が回転し、女性がこちらを向く。想像とかけ離れたその姿に、カケルは密やかに息を呑んだ。


 かつて背中まで伸びていた美しい黒髪は、肩で切りそろえられた白髪に。紅玉のように輝いていた頬は、痩せこけた土気色に。長身の彼女が凛と背筋を伸ばしているとカケルが少し見上げていたはずなのに、今や彼女は小さな車椅子に収まっている。


 カケルが地球を離れていた間に六十年の歳月が過ぎた。目の前にいる彼女はさらにその先の時代まで進んでいる。彼女も年を取っていて然るべきだ。そんなことは頭では理解していたはずだったが、少なからず衝撃を受けていることもまた事実だった。


「カケル……」


 彼女はやつれた腕を弱々しく伸ばす。その掠れた声にカケルは胸を締めつけられた。喜びと懐かしさと罪悪感で涙があふれ、それがこぼれ落ちそうになるのをぐっとこらえる。


 ああ、リンだ。変わり果てた外見の中で、あの強い意志のこもった、宇宙のように吸いこまれそうな瞳だけは変わっていなかった。


 ブラックホールに引き寄せられるように少しずつ、そして徐々に足早に、駆けるようにリンに近づいた。それと呼応するかのように、白かったはずの壁が、部屋だったはずのその場所が、かつてリンとともに訪れた夜の高原へと変わっていく。

 今にも落ちてきそうな星々は手を伸ばせばつかめそうだ。風が髪を撫で、虫が鳴く。


 僕はここにいる。地球に帰ってきた。ただいま。


 カケルのあふれる思いが伝わるよう、枯れ枝のようなリンを強く抱く。車椅子の前に膝をつき、頭を抱え込むように抱きしめる。カケルが何も言わずに髪を撫でていると、リンは静かに泣いていた。


 そっと離れてリンの顔を見る。皺だらけのその顔で、リンは静かにカケルの目をまっすぐ見た。


「ごめんなさい。私、カケルのことを待てなかった」


 涼やかな風がリンの髪を揺らす。カケルは彼女の唇が震えていることに気がついて立ち上がった。リンの車椅子のハンドルを軽く握り、彼女の言葉に耳を傾けながら満天の星を見上げる。


「最初はカケルの帰りを待つつもりだった」


 リンとの交際が始まったのは研究機関に在学中のことだった。飛び級で進学したカケルよりもリンは年上だったが、お互いの優秀さゆえ研究者としては互角のライバルだった。しかしリンとやり取りするにつれ、カケルがその闊達さに惹かれていったのは自然なことだった。望遠鏡を介さずに星を見に行こう、と提案したのはリンだった。そしてこの場所でカケルが秘めたる思いを告げるとリンは珍しく真っ赤になって頷いた。


 結婚はしない。子供は要らない。一緒に研究を続けよう。そう話し合って決めていたとき、カケルが宇宙探査隊のメンバーに選ばれた。何十年も前から人類の移住計画は水面下で進んでいる。国家の枠組みを超えた機密プロジェクトだったが、各国の優秀な研究者や業種を超えた人材が選抜された。


 ミッションの内容は、人類が移住可能と目される星の現地調査を行うことだった。探査船に乗れば地球と交信することも不可能なほど遠い場所へ行くことになる。人類の未来のため、そしてこれまでの研究のため、自分の知的好奇心のためとはいえ、愛するリンと離れたくはなかった。その正直な思いをリンに告げると、リンはカケルにほほ笑んだ。


「じゃあ、もし選ばれたのがカケルじゃなくて私だったとしたら、カケルはどうしていた?」

「そりゃあ『ずっと待ってるから行ってこい』って言うよ」

「私もよ」


 かくしてカケルは終わりの見えない探査へと飛び立った。計画は遅れに遅れ、その間に地球では六十年もの歳月が過ぎた。それは人類の歴史の中ではほんの僅かな時間にすぎない。星々の寿命からすれば、一瞬にも満たないだろう。しかし人間の寿命からすれば、それは重すぎるほどに長い。


「五年ならまだ待てるって思った。十年経った頃、無性に寂しくなった。周りが結婚をしたり子供を産んだりしていたからじゃない。私はただカケルに会いたかった。でも、研究に没頭することで、必死に寂しさを紛らわせた」


 カケルの知らない、空白の時間についてリンは訥々と語る。カケルはそれをただ黙って聞いていた。


「そして十五年が経った頃、私は体を壊した」

「もう……大丈夫なのか」


 驚いてリンの顔を見ると、リンはやつれた顔で笑う。


「そのときは単に過労というか研究のやり過ぎね。今は末期の癌」


 事もなげに言い放ったリンに対し、かける言葉は見つからなかった。そのとき側にいられなかったカケルには「大変だったな」と言う資格などないだろう。「回復して良かった」とも、病魔に侵されているリンを前にして言えることではない。黙りこんだカケルに、リンは懐かしむように目を細めた。


「こうやって言葉に詰まるカケルを見るのも久しぶりね。いつも頭の回転に口が追いついていないんだから」


 揶揄うように言ったあと、リンは思い詰めたような表情に戻る。


「体を壊して、全身にチューブを繋がれて、整備されるロボットみたいに病室に寝かされて、私思ったの。なんで生きているんだろうって。あれだけ自分が情熱を注いでいたはずの研究にも興味が持てなくなって、プロジェクトも全部放り出して、当然仕事は首になるし、死にたくなっちゃった」


 でも、生きていてくれた。カケルの呟きが聞こえたのか、リンはちらりと振り返ってまた前を向いた。


「でも死ぬ勇気なんてやっぱりなくて、死ねなかった。そんなとき、ううん、ずっと、側で支えてくれたのが彼だった」


 リンが口にした名前はカケルたちの一つ下の後輩だった。忘れるはずもない。カケルの親友だったからだ。


「ひどい裏切りだってことはわかっていたの。カケルのことが好きだったのは本当。でも、もう、疲れたの。誰かに縋(すが)りたかった。研究者として評価されなくてもいい。ただ、誰かに愛されたかった!」


 それまで静かに語っていたリンが少し声を荒げ、叫ぶように思いを吐き出した。息が上がったリンの背中を優しく撫でる。しばらくして落ち着くと、リンはまた口を開いた。


「彼と結婚した私は三人の子供を作った。あなたとは結婚も子供も作らないと誓ったのに」


 リンは自嘲的に笑うも、痛みをこらえるように顔をしかめた。


「カケルも知っているかもしれないけど、地球では世界大戦が起きた。時待町で出会った二十世紀の方も驚いていたわ。人類はまだそんなことをしているのかってね」


 歴史は繰り返す、という。他者を、他国を支配しようとする人間の愚かさは前時代から何も変わってはいない。では、時間はどうだろう。


「私たち家族は何とか生き延びて、子供たちも手を離れた。それで安心したのか彼は病で帰らぬ人となり、私はまた一人になった。とても自分勝手だと思う。でも、癌でもうすぐ死ぬとわかって、すごく寂しくなった。そして会いたくなった、カケルに」


 リンは黄味がかった手を膝の上で震わせる。


「許してほしいわけじゃない。でも、知っていてほしかった。本当にごめんなさい」


 カケルは木々の揺れる音を聞きながら夜空を見上げた。リンに思いを伝えたあの晩と変わらないその風景を、一度たりとも忘れたことはない。そしてここが運命の分岐点だった。


 本当であれば怒ってなじるべきなのかもしれない。どうして待っていてくれなかった、と責めるべきなのかもしれない。でもカケルにはできなかった。


 カケルの十年とリンの六十年、いや六十九年は、その重みがあまりにも違いすぎた。時間でリンを縛っていたのは、むしろカケルの方だ。愛でリンを縛り、彼女の自由な人生を奪った自分には、後悔と罪悪感に苛まれたリンを糾弾することなどできはしない。


 カケルができることはただ一つ。リンを解放することだけだった。


「すまなかった。愛していたよ」


 満天の星のもと、カケルはリンの震える体を優しく抱きしめた。


「僕のことを待っていてくれて、ありがとう」




 リンが電動車椅子を操作して部屋の奥の扉から出て行くと、木々や夜空は消え去り真っ白な部屋へと戻った。


 迷っていたリンの背中を押したのは他でもないカケルだった。彼女の配偶者はもう亡くなったとはいえ、彼女には子供たちもいる。カケルがいない間に出会った大切な人たちもいる。最期のときを幸せに過ごしてほしい、とカケルが告げるとリンは穏やかに笑みを浮かべた。


 若かれし頃のリン。六十九年ぶりのリン。その両方が重なり合い、カケルは真っ白な部屋で一人涙を流した。


 リンには告げなかったが、カケルたちの探査は失敗に終わっている。移住可能性のある星は見つかったものの、技術的課題から現時点での移住は不可能だ。


 宇宙に行かなければ良かったのだろうか。リンと地球で過ごしていれば、彼女と人生をともに歩むこともできたかもしれない。


 だが、これはどうしようもなかったことだ。彼女は彼女の人生があり、そしてそこにカケルはいない。また、カケルの親族は大戦で全滅したと聞いていた。つまり二一二五年に戻ったところで、カケルには帰る場所などないのだ。


 カケルは目元を拭って立ち上がると、扉のドアノブを回した。時が回るような感覚とともに懐かしい光景が目に飛び込んでくる。


「カケルさん、リンさんとはお会いになりましたか」


 目の前にいるクロノスは相変わらず微笑を浮かべている。しかし若干の驚きが含まれているように感じられるのは気のせいだろうか。


 カケルが開いた扉は、リンの出て行った扉ではない。元々カケルが入ってきたときに用いた扉だ。特に説明はされていなかったものの、カケルの予想通り時待町に戻れる仕様だったらしい。


「時待町に帰るって、不思議な感覚だね」


 ずいぶん前から知っているような居心地の良さに軽い口調で話しかけると、クロノスは今度こそ目を見開いた。


「リンさんの裏切りにも関わらず、ずいぶん穏やかなようですね」


 カケルは苦笑する。完全なロボットのように見えるクロノスには、まだインプットすべきことがあるらしい。


「まだ何か御用でしょうか」


 クロノスは少しいぶかしげにカケルを見る。


「ここで君の手伝いをさせてほしい」


 クロノスの動きが一瞬止まり、ゆるやかに首を横に振る。


「我々ロボットの仕事を手伝っていただくというのは、いささか変ではないでしょうか」


 明らかに笑いを含んだクロノスの声に、カケルは首をすくめる。


「そんなこと言い始めたらこの時待町自体が変な空間だよ。重力が変なんだろうね。とても興味があるよ」


 茶化すように言うと、急に涙があふれてきた。吹っ切れたつもりでいたが、やはりそう簡単なことではなかったらしい。クロノスはそっとハンカチを差し出した。カケルは軽く頭を下げてそれを受け取る。


 カケルは鼻をすすり、窓際へと歩み寄る。窓を開け放つと、風とともに時待町の雑踏が流れ込んできた。


 この町にいる人間は、皆何かを待っている。その架け橋を担うクロノスが人間の感情を理解できないというのであれば、カケルがその手伝いをすればいい。立場も時代も異なる人間を理解することなんて不可能かもしれない。でも、側で見守ることはできる。ともに時を待つことはできる。


 表のドアベルが鳴り、すりガラスの向こうに人影が見えた。カケルは時待町の空気を胸いっぱいに吸い込んだ。


「いらっしゃいませ」

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時待町の交差点 藍﨑藍 @ravenclaw

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