第三十八話 「キングファイル」


 父が苦手だった。

 我が父は厳格で、マナーに厳しく、それこそ一挙手一投足に気を配らなければ何を咎められるのかわからない。

 その苦手意識を持ったまま、生まれてこの方16年の歳月が経っている。

 本来ならば、母が優しく宥めてくれる立場にいるのだが、その母は今いない。

 母は仕事で忙しく海外を飛び回っており、ここ数年家を留守にしていた。

 別に働かなくとも金には困っていないのに、と言いたいところだが、柳家の資産を増やすことに生きがいを感じているらしい。

 厳格な父は、僕が中学生になった頃から母を自由にさせていた。

 同時に――僕に対しては厳しくあたっている。

 母が不在だからこそ、厳しい躾を行わなければならぬといった具合だ。


「――もう三太夫から渡された資料は読んだか、達也?」


 その父が、僕に問いかける。

 これには正直な返事をしなければならぬ。


「まだです」


 嘘をつけば、後が怖いからだ。

 僕はまだあの少年の過去を知らぬ。

 一ページ目から衝撃的な始まりであり、僕が未だに橘さんに固執していることを父が知った以上。

 正直、ここから始まる叱責を覚悟していたのだが。


「そうか」


 父の感情は凪だっている。

 怒るのではなく、悲しむのでもなく、何も感じていないかのように。

 ただ、沈痛な感情を漂わせていた。


「――食事を続けながら聞け」


 食事を促される。

 僕はそれに素直に従って、焦りを見せないようにステーキにナイフを入れた。

 すでに食事の殆どを終えていたらしい父は、黙ってそれを見つめている。


「……達也。私の若い頃の話はまだしたことがなかったな」

「はい」


 素直に返事をする。

 聞いたことはない。

 ここから説教が始まるのだろうと緊張を走らせる。

 厳格な父が歩いてきた上流階級としてのエリートコースと照らし合わせて、如何に僕がふざけた真似をしているか叱責――を試みているのだと推測したが。


「私はかつて貧乏人だった。このような豪勢な食事などは夢に見るほどのな。マッチ売りの少女が死に際に夢見るぐらいの幻影のようなものだった」

「はい?」


 豪勢な夕食を、睨みつけながらに言う。

 父が口にしたのは、全く違う言葉だった。

 文字通りに父が若い頃の話ではあるが、僕が想定していたものとは違う。


「こうして今は超富裕層なんて優に超え、使用人を複数携える立場にいるが……そうだな、ハッキリ教えてやるが私は貧困層の生まれから成り上がったものだ」


 僕は顔を歪ませる。

 突然に何を言っているのだ、父は。

 僕は横で立っている家令たる三太夫を見つめるが、全て知ってのことだとばかりに動こうとしない。

 ただ、給仕に務めて空いた皿を片付けている。

 だが、父の発言が本当だとすると通らないことがある。


「その……当家は、柳家は社交界でも上流階級の方々と普通に交流しておりますが?」


 首を傾げる。

 もし、父がその――成金だとすればだ。

 色々と通らない話がある。

 僕は母に色んな社交場に連れて行ってもらったことがあるが、成金の子として見られた覚えはない。


「それは妻が旧華族の家柄だからだ。成り上がりの私と、妻の息子であるお前では扱いが違う」

「はあ……」


 確かに、よく考えれば父が社交界に同行したことはない。

 母はたまに促していたようだが、それを父は嫌がって頑として断っていた。

 社交界でマトモに相手をされないから嫌がっていたのであれば、筋は通る。

 

「念のため言っておくが、妻とは恋愛結婚なので、窮に瀕した旧華族の家を家柄ごと買い取ったとかそういう下品な話ではない」


 父がウイスキーを嗜みながらに口にする。

 母は確かに父を愛しているようなので、そこのところは疑う必要もないが。


「そこは理解できました。ですが、急に何故そのような話を?」

「……若い頃にもし、この少年のような人間が」


 テーブルの席は遠い。

 父が酒気混じりの息を吐いていると察することはできるが、その匂いは嗅ぎ取れない。


「私の友人であったならば、もっとマシな人生を歩んでいたのだろうか?」


 ただ、酔っているだろうことは理解できた。

 父は何を言いたいのだ?


「……昭和後期の醜い時代における貧困層に産まれ、社会福祉も足らず、手近なインターネットすらなく、自分が自分に注げる教育リソースは図書館ぐらいのものだった。柳の奴は靴下に穴が開いていると公立学校の愚かな脳足らずの餓鬼どもにバカにされ、舐められ、アイツの家は貧乏なのだから愚弄しても良い存在なのだと弄られ、そんな環境を覆すために必死で人生を努力してきた」


 父は明らかに酔っている。

 よくよく見れば顔は赤ら顔である。

 今思えば父はすでに僕が来る前にダイニングで着席しており、ウイスキー瓶の残量は明らかに前回の食事の時より目減りしている。

 僕が来る前から、ずっと飲んでいたのだ。


「私が信じられるものはといえば、ずっと金と学歴だけだった。それ以外の道はなかった。小中高と友人などおらず、ずっと虐められ続けて。何もかもを憎み続けて。それでも学校に通うことと、勉学への努力だけは絶対に続けて、その力を注ぎ続けて得られたのが奨学金を得ての最高学府への入学だった」


 父は明らかに泥酔していた。

 僕は父が要するに何を言いたいのかも掴めずに、動揺している。

 父が僕にこのような弱い姿を見せるのは初めてであったからだ。


「私の人生で二つだけ良かったことがあるとすれば、私が死に物狂いで富を積み上げる過程で、妻と出会えたこと。そしてお前が生まれたことぐらいだ」


 父は泥酔している。

 もはや視線さえ定まらず、僕を見つめているのか。

 それとも後ろの壁を眺めているのかさえ判らない。

 酒気が眠気を誘っているのか、瞼さえ閉じようとしていた。


「……だが、もし、もしだ。このような少年がかつて私の学校にいればだ」


 父が、ウイスキーグラスでテーブル上のキングファイルを叩いた。

 僕に渡された資料と同じ物。

 少年についての資料だった。


「もうすこし、私の人生も華やかになっただろうか? そう思ってしまった」


 父の言っていることが曖昧で、よくわからない。

 父は何を言っているのだ?

 僕が渡されたのと同じ少年の資料に、いったい何が詰まっている?

 父は悔恨とも、羨望とも区別がつかない口調で少年について語っている。


「あのような酷い苛めを受けることもなく救済の手を伸ばされ、私は生涯の友人を得て、なおかつ今のような人生における成功に手を伸ばす事ができていたのではないか? より素晴らしい何かを得られたのではないか? そう考えてしまう」


 繰り返す。

 父は泥酔している。

 中身のないウイスキーグラスはそのまま横転している。

 父は自分の人生における「もしも」を語り、資料の上に右手を置いている。

 その言葉一つ一つに、悔しさのようなものを滲ませていたのは、おそらく僕の勘違いではない。

 

「……このような少年が、私の友人であればよかった。私にはもう望んでも得られないが」


 キングファイルの表紙を撫でさすり。

 その後に手を離して、父は眠たげな眼を見開いて。

 

「達也。お前の魂胆はわかっている。以前に迷惑をかけた橘さんに近づく不逞の輩を断罪してやるとばかりに、この少年の事を調べたのだろう。お前は愚かだ。反省もできないと見える」

「……はい」


 素直に返事をする。

 父に嘘はつけないし、通じない。

 この期に及んで言い訳を出来ようはずもなかった。


「だが、お前は愚かでいて同時に賢くもある。人を正しく裁定できる視点をもっている。おそらく、この少年についての全てを知れば、もはや彼を傷つけることはできまい」


 父が立ち上がる。

 僕に近づくためではなく、自室のベッドに戻るつもりなのだろう。 

 僅かによろめいて三太夫を心配させるが、それを手合図で退けて。

 最後に僕に告げた。


「達也よ。資料を読め。そして知れ。世の中には夏目漱石の『坊ちゃん』じみた快男子がいて、どのような偏屈な人間に出くわそうとも、その生き方を変えられぬ愛おしい馬鹿者がいるということを」


 父はそれだけを告げて、僕に折檻を加えることもなく、言葉で窘めることもなく。

 ただ資料を読むことだけを促して、去っていった。

 いったい、あの少年に何がある?

 確かに両親を失った出自に関しては同情を寄せるが、この父の反応はそれだけではあるまい。

 僕は自分のベッドに放り投げているキングファイルの資料に対し、興味と同時にいささかの恐怖を覚え始めていた。

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身長190cmある女の子の話 道造 @mitizou

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