猫のお迎え

蟹場たらば

「猫が来る」

 今日は、僕の祖父について話をしようと思う。


 僕の父方の祖父は――いや、そんな呼び方はしていなかったから、この文章でもおじいちゃんと呼ばせてもらおう。おじいちゃんは、いわゆる地元の名士というやつだったらしい。自慢みたいになってしまうけれど、僕の実家はとても裕福だった。


 そのことに気づいたのは、確か友達の家に遊びに行くような歳になった頃だったと思う。友達の家は部屋数が少なく、また部屋面積も狭かった。庭も狭いか、そもそも存在していなかった。さすがに錦鯉はいないとはいえ、僕の家の庭には大きな池まであったのに。


 当時はよく分かっていなかったけれど、僕の家はあちこちに土地や物件を持つ地主の家系で、不動産収入だけでもかなりのものになっていたらしい。さらに、おじいちゃんはその物理的な地盤を、選挙の地盤(組織力)に変えて政界に進出。一時は県議会議長を務めたことまであったそうだ。


 僕がまだ子供だった頃の話なので、おじいちゃんが議員や議長として、具体的にどんな仕事をしていたのかはほとんど記憶にない。ただ家にいる時、「もっと世間に目を向けろ」とか、「挨拶一つろくにできないのか」とか、息子(つまり僕の父だ)をしょっちゅう怒鳴りつけていたことはよく覚えている。


 あの頃は「おじいちゃんはどうしてあんなに怒るんだろうか」と、不思議に思っていた。「もしかして、お父さんのことが嫌いなんだろうか」と。しかし、今考えてみれば、あれは父を後継者にするための教育だったんだろう。おじいちゃんの指導と影響力のおかげで、父は今ではすっかり有力な二世議員になっていた。


 もっとも、おじいちゃんの叱責の相手は、いつも父ばかりというわけではなかった。服の用意を忘れたとか、お茶を出すのが遅れたとかで、妻(祖母)にも怒鳴り散らしていた。また、秘書やお手伝いさんにも、仕事が雑だとかなんとかで大声を上げていた。そもそも怒りっぽい人だったのかもしれない。


 ただ、おじいちゃんが単なる小うるさい癇癪持ちだったかというと、それは違うだろう。他人に優しく接するような一面もあったからだ。特に僕ら孫たちに対しては、甘いと言ってもいいくらいだった。


 キャッチボール中にうっかり車に傷をつけたり、いたずらで掛け軸に落書きしたりしても、まったく怒られることはなかった。父や祖母への説教だって、僕たちがそばにいると分かると、子供に聞かせるものではないとばかりに、すぐに切り上げていたくらいである。


 その上、僕たちが親から毎月もらっているのを知りながら、おじいちゃんはそれとは別にお小遣いをくれた。さらには、おもちゃやゲームを買ってきてくれることまであった。おじいちゃんのセンスが気に入らなくて、恩知らずにも文句を言ってしまったこともあったけれど、それでもおじいちゃんは謝るばかりで決して怒ったりしなかった。


 ただし、おじいちゃんが一番可愛がっていたのは僕ではなかった。他の兄妹きょうだいたちでもなかった。


 おじいちゃんが一番可愛がっていたのは、猫だった。


 子供の頃、実家には何十匹もの飼い猫がいたが、僕たち一家が特別猫好きだったというわけではない。むしろ僕たちの知らない内に、おじいちゃんの一存で次々に新しい猫を飼うことが決められていたのだ。


 貰い手がつかない子猫、怪我や病気で弱っている野良猫、飼い主に遺棄されてしまった捨て猫…… そういう訳ありの猫がいると聞くと、おじいちゃんは必ず引き取りを申し出ていたようだ。そのせいで、我が家のことを猫屋敷、おじいちゃんのことを猫ジジイと、陰で馬鹿にする人までいたくらいである。


 また、おじいちゃんの猫好きぶりは、単なる多頭飼いに留まらなかった。一匹一匹にきちんと名前をつけて、「ユキ」「モモ」と普段からは考えられないような甘ったるい声で呼んでいた。「チョコは美人だねえ」と頭をなでたり、「お腹減ったか、チロ?」と手ずから餌をやったりしていた。


 その餌についても、おじいちゃんは随分こだわっていたようだ。僕が生まれる以前――ペットに残飯を与えるのが普通だった時代から、必ずペットフードをあげるようにしていたらしい。同じフードに飽きて食欲の落ちた猫のために、わざわざ餌を自作することまであったという。もしかすると、庭の池に鯉がいなかったのも、猫が変なものを食べないようにするためだったのかもしれない。


 おじいちゃんの愛猫家エピソードは、これ以外にもまだまだ書ききれないくらいたくさんある。母や妹なんかも猫は好きだったようだけれど、おじいちゃんのそれは明らかに度を越えていた。まさに猫可愛がりという様相だった。


 おじいちゃんがどうしてそんなに猫を可愛がっていたのか、当時はよく分からなかった。本人に聞いてみても「好きな理由を説明するのは難しいなぁ」としか言わなかったし、祖母たちも「まあねえ」と曖昧な返答をするだけだった。でも、社会人になった今なら、おじいちゃんの気持ちも分かる気がする。


 地主かつ議員で地元の名士だったおじいちゃんは、僕みたいな一般人の何倍も何十倍も、裏工作や腹芸などの駆け引きに巻き込まれてきた。時には犯罪すれすれの、いや犯罪そのものの行為に遭遇したこともあっただろう。いや、自身が手を染めたこともあったかもしれない。そんなことを繰り返す内に、おじいちゃんはだんだんと周りの人間のことを信じられなくなってしまったのではないだろうか。


 今は無邪気に自分を慕ってくる孫たちだって、いずれは大人になって金や権力の重要性を知る時が来るだろう。その結果、遺産や跡目を巡って、骨肉の争いを起こすようになる可能性だって否定はできない。


 そうして人間不信に陥る中で、おじいちゃんが唯一心を許せる相手として見つけたのが、猫だったのではないだろうか。人間と違って、動物には野心もなければ裏表もない、と考えたのではないか。思い返してみれば、散歩中の知人の飼い犬をなでたり、庭に来た野鳥を眺めたり、おじいちゃんは動物全般が好きそうなそぶりを見せることがあった。


 もっとも、数ある動物の中で、特に猫を贔屓して可愛がっていたのである。心の安らぎを求めていた面もあったとはいえ、やはりそもそも猫が好きだったことも確かなのだろう。


 そんなおじいちゃんの愛情に応えるように、猫たちも随分なついていたようだった。飼い主のいない野良猫や飼い主に裏切られた捨て猫は、人間に対して警戒心を持つことが少なくない。実際、うちにも何匹か、僕たちのことを避けようとする猫がいた。


 けれど、そういう猫でさえ、おじいちゃんだけは別だった。餌やおもちゃを持っているわけでもないのに、おじいちゃんの姿を見かけただけで嬉しそうに駆け寄っていったのだ。


 こうしたおじいちゃんと飼い猫たちの信頼関係にまつわるエピソードも、書ききれないくらいたくさんあるけれど、一つどうしても欠かせないものが存在する。最後にそれを紹介しよう。


 僕が中学に上がったばかりの春、おじいちゃんが病気で倒れてしまった。すぐに緊急搬送されたものの、その時点でもう病状はかなり進行していたようだ。いつ亡くなってもおかしくないからと、親族が病室に集められることになった。


 ベッドに横たわるおじいちゃんは、すでに意識が朦朧としていて、僕たちが声を掛けても何を言っているか分からない様子だった。しかし、それでも僕たちがいること自体は認識しているようで、祖母に今までのことを謝ったり、父にあとのことを頼んだりするような意味合いのことを呟いていた。


 そして、意識が完全になくなる直前、最後の最後におじいちゃんはこう言った。


「猫が来る」


 きっと昔飼っていた猫たちが迎えにきてくれたんだろう。通夜や葬儀の席で、祖母や父たちは何度となくそう語った。長生きはできなかったが、いい最期だった、と。


 僕もおじいちゃんが死んだことは悲しかった。もっと甘えたかったし、甘えた分だけ孝行もしたかった。けれど、幸せな死に方ができたと思えば、少しは心の慰めになったのだった。




 ……知人に祖父のことを説明する時は、以上で締めくくるのが僕の、というか我が家のお約束になっている。ただ今日は、顔も名前も知らないあなたが相手なのだ。普段は誰にも、それこそ親や兄妹たちにも話したことのない、このエピソードの続きを話そう。


 おじいちゃんが死んだばかりの頃は、あの世から飼い猫たちが迎えにきたという解釈に僕も納得していた。むしろ、それしかありえないとまで思っていた。ただしばらくして、気持ちが落ち着いてくると、違和感を覚えるようになった。


 多頭飼いをしたりペットフードを自作したりするほど、おじいちゃんは猫を可愛がっていたのである。それなのに、猫が迎えにきた時、どうして浮かない表情をしていたのだろうか。


 まだ死にたくなかったから、素直にお迎えを喜べなかっただけかもしれない。あるいは病気で苦しかったから、喜ぶ余裕がなかっただけかもしれない。しかし、そうだとしてもまだおかしなことはある。


 飼っている猫がどれだけ増えても、おじいちゃんは一匹一匹を見分けて、「ナナ」「ミイ」と必ず名前で呼んでいた。それなのに、あの時だけどうしてそうしなかったのだろうか。


 これに関しても、説明がまったくつかないというわけではない。たとえば、迎えにきてくれた猫の数があまりに多くて、とても全員の名前を呼ぶことができなかっただけだとも考えられる。


 ただ別の説明をつけることもできる。高校の時、図書室で偶然開いた本で僕はそれに気づいた。


 本によれば、妖怪の一種に、猫の姿をした『火車かしゃ』なるものがいるらしい。この火車にはさまざまな伝承が残されているが、中には仏教で語られる牛頭ごず馬頭めずの役割の一部を、代わりに担っているという説も存在するようだ。


 つまり、燃え盛る火の車に乗せて、のだという。


 おかげで、あれから十年以上が経った今でも、僕はときどき考え込んでしまうことがある。あの時おじいちゃんを迎えにきたのは、一体どっちの猫だったんだろうか、と。






(了)

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