第1話
西方大陸と、東方大陸のちょうど中間にあたる交易路の上に位置するエナトリア帝国は近世世界に輝く明星であっただろう。が、実際の明星と違い、エナトリアはある時から衰亡していくのは歴史の必然であったと言える。
かつて西はヴァンボドナから東はダンラブーまでの五千キロ、南はタランから北はノヴェンドロゴまでの四千キロを有していた帝国はここ百年、1908年までの間に領土の60%を失うに至った。西方大陸における領土はボラキア半島南部に限定され、南方大陸に存在する古代からの大国エルキンティアを連合王国に奪取された。北方ではヴラディ帝国の皇帝イワンが南下し、我々の領土を虎視眈々と狙っている。東方ではウィンディカ地方は連合王国の一企業に乗っ取られているという。我が国は正に四面楚歌と言える状況とあっては、士官学校の入学式で校長が語った「ひとえに、諸君らによって帝国の生存は決まる」という批判された言葉も、その切実さを増すという物だ。
「エイレーン!!」
俺の名を呼ぶ声が聞こえる。先述の校長の演説を聞いたのは、ほかでもない新入生の俺自身だ。つまり、ここは士官学校である。ここで学んだことが、実戦でどれ程生かせようか俺はせせら笑っている。軍人というのは、戦い方を学べばよいというものでは無い。その後ろに存在する経済を理解できぬ軍人は無能極まれりだ。
御託はさておき、授業ばかりさぼる物だからこうして俺を呼びに来る人間が時たまいるのだ。
「また君か、セレン」
彼女の名はセレン・シトワイヤン。名前が既にエナトリアと苗字と名前が逆なあたり、明らかに西方の血筋を感じるブラウンの長髪に、白い肌。そして柔らかい表情以外を見たことがないその顔は見慣れたものだ。しかし、なぜ、士官学校に居るのかは一切が不明である。
「また、じゃないよ。教授がすぐ研究室に来るようにって」
中庭のベンチで寝っ転がっていたので、セレンは俺の顔を覗き込んできた。その緑色の瞳で見つめられると、なんとなく末恐ろしくなって俺は反応をごまかした。
「ふぅん」
そう言って俺は数時間ぶりにベンチから立った。
……何故俺は、椅子に縄で縛り付けられているのだろうか。ここは北教棟の三階、廊下を西に進んだところの突き当りにある「ベルク大佐の戦略的要衝研究室」と呼ばれる部屋だ。俺の目の前には体格に優れ、知的に感じる妙齢の男が机に向かって座っていた。
「イルカイ・エイレーン君、君を呼んだのは他でもない」
彼はこの部屋の管理者、オデュマンド・ベルク大佐である。
ベルクのよく響く声が耳に入ってくる。どうやらめんどくさそうなので逃げたい。決して、縛り付ける縄を解けないわけではないが後背にはセレンがいる。女子生徒と言っても侮ることなかれ、何しろ俺は士官学校一運動テストの点数が低いからだ。
「……しかし、ベルク大佐何の真似ですか?」
俺はベルクに聞いた。
「何、とは?」
「先日ヴラディ大使館が襲撃されたのは記憶に新しいだろう」
どうやら、縛り付けていることに関してはスルーの様だ。
「ヴラディは数年前に最北の要塞ノヴェンドロゴを陥落させるなど、着実に我が国を侵略している……当然、民の心象としてヴラディがよく映るわけがない」
つまり、我が国の国民が犯行を行ったとして疑う余地はあまりないわけだ。大義名分も当然あるし、ベルクの言う通り国民が持つヴラディに対する心象は最悪だ。しかし、この蛮行は……
「まぁ、当然報復として軍事侵攻が予想されますよね」
俺は堪えることなく、言葉を紡いだ。
「そして、当然ながら現在のエナトリアにこれを防御、ましてや反抗する能力はありません。なんなら予算不足で防衛戦闘すらままならないのではないかと……」
「エイレーン君、どうしようか」
ベルクは諦めたような表情で尋ねてきた。
「亡命しましょうよ、共和国とかに」
冗談交じりでこう言うが、ベルクには戦争を嫌がる理由があった。と、いうのも、彼は士官学校の師範でありながら本来は軍人である。戦時になれば、生徒ともども戦場へ動員されるのは免れない。
そう、彼は死にたくないのだ。
「共和国は、ちょっといやね……」
それまで黙っていたセレンが、初めて口にしたのは俺の上段に対するヘイトだった。俺だって怒っちゃうぞ。
「西方か新大陸のどこかにでも行けばいいさ」
「まぁ、今日来てもらったのは君の単位不足を補う究極の方法だ」
ああ、またか。また無理難題を要求してくるのか。
「『ヴラディをいい感じで宥め透かしてほしいな☆』と、皇女殿下が申し上げている。」
ベルクは書類を掲げて「ご指名だ、良かったな」と煽ってくる、30代とは思えない親近感だ。俺はどうも動くことができないから、口だけで応じた。
「微力ながら、」
戦略家、病人を看護する 同志書記長 @poriesuten5
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