邂逅夜話

 悪夢だ。単なる悪夢。

 きっとちょっと頭を打ったりしたから。きっとあの時に変な夢を見てしまったから。悪夢の続きを見ているだけなのだ。


 見慣れた顔が笑っている。

 赫い瞳を細めながら笑う、幼い頃の片割れの姿が覚醒とともにゆっくりとひび割れて、さらさらと指の隙間から零れて───








「ぱぱ……」


 アーリィの声で完全に目が覚める。寝つきは良かったのにどうも眠りは浅かったみたいで、いつものように目覚めに苦労することはなかった。



 窓から覗く空はまだ暗く、漏れ入る都市の灯りもすっかり弱くなっている。夜も更けて、あとは日の出を待つだけという頃合いだろうか。いかんせん、アーリィの部屋には時計がないのでシリスには時刻を確認する術はない。


「のど、渇いたな……」


 発作もあったからか、妙に渇きが強い。残念ながら荷物も水筒もリビングに置かせてもらっていて手元にない。目を瞑ってもこのままでは、さしものシリスも再び眠れそうにはなかった。


「ちょ、っと失礼……っと」


 人肌が恋しいのか腕に絡みついて寝息を立てるアーリィをそっと引き剥がして、シリスは音を立てないようにリビングへ向かった。







 家の中はしん、と静まり返っていた。


 静寂の中に佇んでいると、世界からひとり取り残されたみたいでほんの少し寂しくて、怖い。

 極力足音を殺しながら、足早に廊下を通り抜ける。



「わ、クロってばこんな所で寝てんの?」


 リビングではクロスタが窮屈そうにソファに身を横たえていた。

 アーリィ父ヴィクターの部屋からも気配がしていたので、多分、ベッドはディクシアに譲ったのだろう。


 体が大きい分、ソファだと狭くて寝づらそうだが……どこでもおやすみ3秒のクロスタには大した事でもないのかもしれない。その証拠に、アイマスクをつけて静かに深い呼吸を続ける彼はシリスが顔を覗き込んでも微動だにしなかった。


 水筒に残っていた水で渇きを潤し、一息ついたところで窓から覗く夜空をもう一度見上げる。







 ───いつかの眠れない夜に、ヴェルと2人で星座の話をしながら空を眺めていた事がある。あれはいつの話だったっけ?







「なんか調子狂うなぁ」


 リンデンベルグの時からそうだ。妙に気持ちがざわついて、落ち着かない事が増えた気がする。

 呟いた途端、クロスタが僅かに身じろぎをした。慌ててリビングから抜け出して、すぐ傍にある玄関扉から家の外に出る。今更ベッドに戻って眠れる気はしなかった。



 アーリィの家は、ルフトヘイヴンの中でも高い位置にある。金鷲人ハーピィなので当然だ。

 地面に近い、低い建物は人間や無翼種たちの家が大半を占めているのだろう。


 故に、風通りがよく肌寒い。


「さむ……」


 ついつい少し薄手の、アーリィに借りた寝巻きのまま出てきてしまった。腕がそのまま羽でもある金鷲人ハーピィ用なので、腕の露出面積が大きい。寝るまでは制服を羽織っていたのだが、ベッドに入る直前には流石に脱いでしまっていた。


 普段はこんな短い袖の服を着る機会なんて殆どなくて、シリスは小さく身震いする。勢いで外に出てきたは良いものの、失敗だったかと部屋に戻ろうかと踵を返しかけたときだ。






「あぁ、起きたんだ」



 頭上から声がかけられた。そう、頭上だ。


 聞いたことのある声に思わずバッと顔を上げると、くつくつと肩を揺らすカインと目が合った。


「こんばんわ」

「……や、なんでそんなとこにいるのさ」


 彼はアーリィの家のルーフバルコニーに腰掛けてシリスを見下ろしていた。


「なんでだと思う?」

「ごめん、寝起きすぎてぜんっぜん頭回んない」

「ははっ!だろうね。だってまだこんなしっかり寝癖がついてる」


 吹き出して笑ったかと思えば、カインは躊躇いなく宙へ体を投げ出した。


 あ、と思う間もなく危なげない動作で着地をすると、彼が降りたのはシリスの目と鼻の先。急激に詰められた距離に身構えるより早く、カインの伸ばした腕がシリスの頭頂部で跳ねている髪を撫で付けた。


「直らないね。寝起きなのに元気がいいみたいで」

「っ〜〜〜!!いい!自分でやるから!」


 シリスはこれでも、つい最近成人した大人だ。子どものように扱われると流石に恥ずかしい。

 腕で寝癖を守るなんて、側から見れば馬鹿らしいことをしながらカインと距離を取れば、彼は残念そうに肩をすくめる。


「そんなに警戒しなくても」

「デリカシーないって言われたことない?」

「会って早々に投げる言葉としては、結構辛辣だと思うんだけど?俺たち今日会ったばかりなのに」

「会って早々の相手の髪に触るのも十分おかしい事っしょ」

「それもそうだ」


 怒ることもなく、かといって別に反省しているわけでもない。

 楽しそうに言葉の応酬をしたかと思えば、彼は不意に肩にかけていた外套を外した。


「わ」

「これはセーフでいいよね。触ってないから」


 寒いんでしょ?と言う彼は当たり前のようにその外套をシリスの頭から被せる。分厚くて風をよく防ぐ。被ったその瞬間から、肌を刺す冷たい風は感じなくなっていた。


「あ……あり、がとう?」

「どういたしまして。俺がここにいるのは、君たちの身の安全のためさ」

「身の安全?だって鏡像は倒しちゃったし、祭司長はもう───」


 レッセのこともディランのことも、それから祭司長のことも。気になることはまだあるけれど、ひとまず鏡像の脅威は去った。

 だから自分たちも安心して明日には帰還することができる、そのはずだ。


 シリスが疑念を込めてカインの顔を見れば、凪いだ夕日色は穏やかに細められた。

 彼は身体を反転させるとシリスの横へ並ぶように壁に背を預ける。


「君たちにとって危険なのは、鏡像だけじゃないって分かっていると思ったけど」

「……どういうこと?」

「有翼と無翼の水面下の衝突が今回の騒動に少なからず関係しているなら、君たちが問題解決した事を面白くないと思う輩も少なからず居ると言うことだよ。むしろ、俺は鏡像よりそっちのほうが面倒だと思うけどね。ヒトの根本が善によらないってことは、今回よくよく分かっただろう?」


 諭すような、少し呆れたような、そんな声音。


 その意図するところが分からないほどシリスは愚かなつもりでもないが、素直に受け止められるものでもなかった。


「あたしたちに、報復するってこと……?」

「ないとは思うけどね。大半が君たちの働きに喜んでるし、守護者に手を出すほど愚かなヒトなんてそうそういない。ただ、念のためだよ。念のため」


 朝まで起きないくらいにはぐっすりだと思ったから。と、彼は笑った。


 複雑な気分だった。アーリィや浮石車エアモーバーの男やゲルダ───ここに住む彼女らのためにやった事が、誰かにとっては好ましい事ではない、なんて思いたくはなかった。けれど、カインが言っていることもまた理解ができてしまうのも事実で。


 何故ならその絶妙な関係と感情のぶつかり合いがヒトの心に澱みを生み出し、それが果ては鏡像を生み出す要因となるのだから。


「……ありがとう。守ってくれてたんだ」

「どういたしまして」


 謙遜も何もなく素直に礼を受け止められる。それが逆に心地よくて、シリスは思わず口元を緩めた。


 精悍な顔がほんの少し強張る。

 瞳が、俄かに揺れた。


「カイン?」


 それが何故だか妙に気になって、彼の名を呼ぶ。その瞬間、カインは静かに息を吐いてゆっくりと瞬きをする。再度開いたその瞳は、変わらず穏やかな色を灯していた。


「……もう一回寝るなら、そろそろベッドに行ったほうがいいよ。あんまり夜更かししてると朝が辛いだろうし」


 確かにまだ空は暗く、白み始める素振りすら見せない。朝はまだ、遠かった。

 眠気はもうどこかへ行ってしまったけれど、あまり寝るのが遅くなれば明日の朝に散々迷惑をかけることは火を見るより明らかだった。


「そう、かも」

「でしょ?マントは明日返してくれればそれでいいから」


 カインをひとり置いていくのは気掛かりではあるのだが───誰かさんの小言を聞くのも嫌で、シリスは素直に頷いた。


「……うん、おやすみなさい。カイン」

「おやすみ、シリス。───良い夢を」


 踵を返せば、後方からはずっと視線が注がれていた。玄関の扉が閉まるまで、ずっと。



 部屋に戻ってアーリィの横へ静かに身を滑らせる。彼女は眠りが深いほうなのか、ベッドを抜け出した時と変わらず寝息を立てたままだ。

 忘れないように頭元に置いた外套をぼんやりと眺めていると、どこかに去っていったはずの眠気が再び戻ってくる。




 不思議と、次は悪夢を見ることはなかった。

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モノクロメモリィ 常葉㮈枯 @Tokiwa_Nagare

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