マッチョの恩返し

来栖もよもよ

◇  ◇  ◇

「……え? すみませんけどどなたですか?」

 配達が一通り片付いて会社に戻り、近くの公園のベンチに座る。

 いつものように帰宅前の缶コーヒー休憩を取っていた俺は、いきなりやたらとガタイのいい二十代のマッチョなお兄さんから親し気に話しかけられ、少々失礼な返事を返した。

 知人だったなら本当に申し訳ないが、全く記憶にない。

「あ、何年もお会いしてませんから覚えてないですよね。僕、北沢真一(きたざわしんいち)です」

「きたざわしんいち……さん?」

 さて困った。三十一歳で俺はもうボケたんだろうか。名前を聞いてもさっぱりだ。でも、向こうはかなり嬉しそうで、全然覚えてませんとも言いづらい。

 俺の困惑した顔を見て、少し残念そうな顔をしたが、ニコニコと話を続ける。

「七年前、交通事故に遭った高校生を助けた覚え、ありませんか?」

「……交通事故……」

 そう言われた途端、思わずあっと声が出た。

 仕事から原チャリで家に帰るときに、車に轢き逃げされたのか、道の端っこで学生服を来た男の子が自転車のそばに倒れているのを発見した。

 残業した日だったのでその時は夜十時を回っていただろうか。都内とはいえ結構夜は人通りが少ない地域だったので、辺りは暗いし人や車もその時は見当たらなかった。

 自転車はぐにゃりと曲がっていたし、男の子の頭の方から血が見えたので一瞬、え、死んでる? と思って慌ててバイクを止めて確認したら、うめき声と体を動かすような仕草をしていたので、スマホを取り出し急いで救急車を呼んだ。

 一緒になぜか警察も来て、何度も事情を聞かれたりしてアパートに帰った時には深夜だった。

 明らかに現場には車の黒いタイヤ痕が残っていたので、原チャリの俺は犯人と疑われなかったのは幸いだったが、その男の子が頭を打ったのでまだ意識が戻らないと聞いて心配になった。

 初めて人命救助と呼べることをしたので、自分が誰かの手助けが出来たのが素直に嬉しかったし、実に身勝手な話なのだが、せっかく善い行いをしたのに相手に亡くなられたら後味が悪い。

 それでどうにも気になってしまい、警察から教えてもらった病院にお見舞いに行ったりもした。

 包帯を巻いた男の子が、心電図を置いた病室で鼻から管を通されてたり点滴している姿を見るのも辛かったが、ご両親が涙を流しながら感謝の言葉を繰り返したり、お礼といってお金を渡して来ようとするのが居たたまれなくて、もう命の危険はなくなったと言われたこともあり、二回行っただけであとは心の中で無事を祈るだけにした。

 ただ善意でやった行動なのに、モノやお金で感謝を強要しているようになってしまったのが少し悲しかったからだ。純粋な感謝の気持ちだけで俺は十分満足だったのだ。

 そっか。でも元気になったのか、良かったなあ。

「──覚えてるよ、真一くんってあの時の子か! ……いやでもこういったら失礼だけど、あの時の細くて小柄な男の子と、今のムキムキの君と一緒だって言われても分かんないって」

「ああ、それはそうですよねえ。僕、事故の後、元気になってから筋トレにはまっちゃって。体を鍛えておけば、また事故に遭いそうな時にもビビらなくて済むかなあって」

 トラウマなのか、退院してもしばらくは怖くて自転車にも乗れなかったらしい。

「そりゃそうだよ、あんな大ケガしたんだもんなあ」

「ええ。それで、ずっと波多野さんにお礼を言いたかったんですが、両親も当時は気が動転してて、『波多野貴広(はたのたかひろ)さん』って名前しか聞いてなかったし、警察の人も『大した事してないから連絡先は伝えないでいい』と言われたとのことで、ご連絡しようがなかったんです」

 確かにまたお金がどうとか言われたら困るので、警察にはそんなことを言ってた記憶がある。

「僕はそれでも粘って粘って、警察の人から運送会社のドライバーをしているという話だけは聞き出せたんですが、運送会社って大小含めて沢山あるし、しらみつぶしに当たるしかなくて……こんな時間がかかってしまって申し訳ないです」

「いや、本当に気にしなくて良かったのに」

 わざわざお礼を言うために俺を捜したのか、という嬉しい思いと、あれだけのことで七年も捜してたのか、という熱量に何だか圧倒される思いがあり、俺は複雑な気持ちだった。

「うん。まあ、元気になって何よりだよ。それが何よりのお礼かな」

 俺は空になった缶コーヒーをゴミ箱に捨てると、んじゃ元気でね、とそのまま原チャリに向かおうとして彼に呼び止められた。

「ちょっ、待って下さいって。お礼の言葉だけで済ませるなんて僕の気持ちが収まりませんよ!」

「いや、俺は全然収まるし。気にしないで」

「そんなこと言わずに、お時間あるならせめて食事でもご馳走させて下さい。ね? ね?」

「気を遣わないでいいんだってば本当に」

 一七〇センチで細身の俺と、一八〇センチは超えているであろう年下のマッチョ、真一との押し問答は、何があっても引かないぞという彼の熱意(と肉体の圧)に俺が根負けした。

 独り身だし、自炊が面倒な日は家に帰る前に外食して帰るのはよくある話だ。

 彼の様子だと断っても何度もやって来そうだし、自分が助けた子と飯を食うってのも、ま、滅多にない経験だしな。

 俺が食事に付き合ってくれると聞いて、どこかに電話していた真一は、

「波多野さん、お酒はイケるくちですか?」

 と聞いて来た。

「別に嫌いじゃないけど、俺は今日原チャリだからね」

「もちろんご自宅まで車で送迎しますよ。あ、家はお近くですか?」

「あ、ええと、原チャリで十分ぐらいかな?」

「じゃあ、バイクだけご自宅に止めていただいて、改めて僕の車で移動しましょうか。焼肉とかお好きですか? 家族でよく行く店があるんですが」

「焼肉か、いいね。大好きだよ」

 一人ではなかなか焼き肉屋に行く機会もないので、少し楽しくなってきた。

 明日は休みだし、焼き肉つついて彼の話を聞くのも面白そうだ。

 俺は家から近いコンビニで待ち合わせをして、原チャリでいったん自宅アパートに戻ると、徒歩でコンビニへ向かった。

「ああ、波多野さんこっちこっち」

 真一が声を上げた方を見て俺はビビった。

 彼が運転席から手を振っているのはト●タの高級車、シルバーの輝きを放つレグルスである。……あれ、確か新車で一千万以上するんじゃなかったっけ? 確か今は二十三、四歳だろう男が簡単に買える金額の車ではない。

 (親のかも知れんけど……いやまて、こいつもしやお金持ちの息子か?)

 助手席に乗り込みながらも、俺こんな格好で乗っていいんだろうかと内心ドキドキである。

 普段履きのジーンズに長袖Tシャツ、何年も愛用している黒の少しくたびれたジャンパー。

 焼肉っていうから、臭いがついたり汚れてもいいやと思って着替えても来ていないのに、良かったのだろうかと心配になる。

「ちょうど家族も連絡ついたんで、良かったら一緒にご挨拶させて下さいと。申し訳ありませんがお付き合い下さい」

「──ああ、でもそんなに気を遣わなくていいんだけどなあ本当に」

 運転しなれているといった感じのスムーズなハンドリングで車を走らせる真一に、てっきり二人だと思っていた俺は戸惑ったが、まあ日を改めてとか言われても面倒だ。一度で済ませた方がいいよな、と考え直した。律儀な家族だよなマジで。


 十五分ほど雑談しながら走った後、真一が車を駐車し案内されたのは、淡々亭という超高級焼肉店である。実家もごく普通の中流家庭だし、俺だって高給取りってわけじゃない。そりゃ極貧ってほどじゃないから、焼肉屋ぐらいは時々家族や仕事仲間と行ったことはあるけど、こんな一回の食事でっ軽く数万円はしそうな店なんて入ったことない。

 俺としては、普通の焼肉屋でカルビとかロースとかちょろっと焼きながら、キムチつまんでビールでも軽く飲む、みたいなお手軽感覚だったのに、政治家でも利用しそうな料亭風の佇まいに気おくれしていた。服装もこんなだし。

 だがそんな俺の気持ちとは裏腹に、真一は何でもないように入口から入り、

「予約していた北沢ですが」

 と慣れた様子で受付に声をかけている。

「北沢様、いらっしゃいませ。もうご家族様は先に到着されてお待ちですよ」

 店員の態度といい、これはもう明らかに常連客、しかも上得意である。

 靴を脱ぎ、日本庭園のような美しい中庭を眺めながら奥の部屋まで案内される。ああ靴下に穴が開いてなくて良かった。マジで良かった。

「北沢様、息子様とご友人様がお見えになられました」

「ああ、入ってもらえるかい」

 正座した和服の女性がそっとふすまを開けると、どうぞと促される。

(なんだか未知の世界過ぎて、飯が喉を通りそうにないんだけど)

「失礼します」

 ──ええい、もう来ちまったんだからしょうがない。何とか失礼のないように無難にこなすぞ、と俺は覚悟を決めて個室に足を踏み入れた。

「波多野さん、ようこそ! 本当にお久しぶりですね。もうあれから七年になりますか」

 掘りごたつ式の黒檀のテーブルの向こうに座っていた北沢の両親が頭を下げ笑みを浮かべた。

 何故か見覚えのない、二十代半ばぐらいのこげ茶色でサラサラしたショートボブの、目のぱっちりした綺麗な女性も並んで座っている。

「お久しぶりです。真一くんもですが、ご家族皆さまお元気そうで何よりです」

 俺も頭を下げて、勧められるまま座布団に腰を下ろす。隣に真一も座り、まずは飲み物でもと皆に注文を聞き、呼び鈴を鳴らして店員に注文してくれた。

 さりげなく気配りのできる男で男前でマッチョで尊大な態度も見せないお金持ちの息子。車もレグルスで運転も上手い。昔の恩を律儀に返そうと俺を探すような義理堅いところもある。

 こいつモテそうな要素しかねえな、と俺は感心する。

 ラーメン屋で頼む全部のせセットみたいなもんだ。ここまで行くと、羨ましいとか憎たらしいなんて感情は一切湧かない。ただただ良いものを見てるなあとしか思わない。

「波多野さん、何かアレルギーとか好き嫌いはありますか?」

「いや、特にないよ」

「それじゃ、メニューは任せてもらえますか? 僕のおススメを食べて欲しいので……あ、父さんたちもそれでいい?」

「ああ。もう味は分かっているからね。私たちも構わないよ。な?」

 左右に同意を求めた北沢の父親が頷く。

 真一が肉などの注文をしている時に、真一の母が思い出したように綺麗な女性を紹介した。

「あ、そういえば会ったことなかったですわね。この子は真一の姉の由香里です。事故の頃は実家から離れて、大学の近くで一人暮らしをしていたもので……真一の容体が落ち着いてから連絡したもので、帰ってきた時には波多野さんとは入れ違いになってしまいましてね」

「北沢由香里です。事故の時は弟が大変お世話になりまして、命の恩人でもある波多野さんにお礼も出来ず、大変申し訳ありませんでした」

「いやいやこちらこそ、変に恩着せがましくなるのも嫌だと思って、警察の方にもこちらの情報開示は断っていたもので」

 男の多い職場なので、女性にはこの数年とんとご縁がない。しかもこんな美人と話す機会など、配達先の会社の受付の女性ぐらいだ。緊張で声が上ずったりしないかヒヤヒヤした。

 だが真一だって目鼻立ちは整っているし、ご両親も昔は美男美女だったんだろうなと思うような顔立ちをしている。お姉さんもそりゃ美人になるDNAはあるよな。

 そんなことを考えつつも、運ばれたビールで乾杯し雑談を交わしながら、厚みがあるのにすごく柔らかいタン塩だの、芸術的な美しいサシの入ったカルビやサーロイン、ニンニクの効いたドレッシングがかかったサラダなど、運ばれてくるものを勧められるまま食べているうちに、ようやく俺の緊張もほぐれてきた。

 もうこんなにご馳走になってしまってるんだし、今さら気が引けるだの、この肉は一切れいくらなんだろうとか無粋なことは考えないで、ありがたく堪能させてもらおう。そうでないとお店の人にも北沢一家の人たちにも申し訳ない。

 人生でこんな機会はもうないかもしれないもんな。

 それにしても赤身でもこんなに柔らかいとかすげーなー。タレもピリ辛なのがまた箸が進むったらないわ。日本の食に対するこだわりは尊敬しかないね。あとネクタイってどこの部位なんだろ、自宅に帰ったら調べてみよ。


「──それでまあ、轢き逃げ犯がすぐに逮捕されたのは良かったんですが、なんとまだ二十歳すぎの大学生でね。しかも医大生ですよ医大生。その上真一を助けずに逃げた理由が、飲酒運転がバレたら自分の免許が取り消しになるからって。免許のために救護義務違反に報告義務違反、飲酒運転に危険運転致死傷罪ってもう役満ですよ。医学生っていっても、勉強が出来ようがバカってのはいるもんだなあと思いましたね」

「うわあ……それはひどい」

 真一の父親から事故のその後の話を詳しく聞くことが出来たが、犯人がそんな若い男だったとは。これから命を預かる仕事に就こうかって人間が轢き逃げとか、まったく情けない。

「向こうの親御さんも事業をされてて、そこそこお金があったんでしょうね。息子の将来を潰したくないだの反省しているだの言って、かなりの高額の示談を申し出て来たんですが、どうせ車の保険から出すんだろうし、交渉の場に弁護士しか顔を見せない時点で、舐めてるにもほどがあるでしょう? 相手に詫びる気持ちがないと全部突っぱねまして示談決裂。大学は退学に、本人にはしっかり実刑を受けていただきました」

「うちの真一の将来はどうでもいいのか、って怒りをこらえるのが大変だったわ私も。まあ初犯だったせいか、実刑が四年半にしかならなかったのは残念だったけど、罪は償ってもらわないとね」

 おっとりしたマダムといった感じの北沢の母親は、梅酒一杯で頬を赤くしつつ、当時を思い出したのか眉をひそめた。

「まあ僕の場合は頭が頑丈だったのか、見た目は派手な出血してたりしたわりには、大きな問題もなかったのが幸いでした。ただ太ももを骨折しちゃってたので、予想より長く入院はしましたが」

「高二でこれから大学受験に向けて準備をなんて時期だったし、母から連絡を受けて驚いて戻ってきた時も、真一が目を覚ますまで気が気じゃなかったわ。頭に障害でも残ったらどうしようとか」

 由香里はお酒がまったくダメらしく、ウーロン茶を飲みながら、手早くお肉を焼いては家族や俺の皿にも載せ、自分でもモリモリと食べていた。見ていて気持ちのいい食べっぷりだ。

 俺は自分がけっこう食べるせいか、少しずつついばむような食べ方をする少食の女性が苦手だった。一緒に食べていても飯が旨くないのだ。

 以前付き合っていた女性もダイエットを常に意識しているような人で、本当にサラダを少し、とかご飯はお茶碗半分も食べず、おかずもちょっと食べたら後は残す、とかそんな感じだった。

 食べ物を無駄にすると母親にものすごく怒られるような家で育ったので、食べられないならお店の人に少なめに、とか事前に言えばいいと注意したりもした。

 でも、言うのが恥ずかしいとか、どうせ減らしたって同じお金払うんだからいいでしょう、彼氏のあなたが食べてくれたっていいじゃないの、と逆切れされたりもした。

 生活スタイルの違いによるストレスはけっこう大きなもので、正直俺はちょっと太ってしまおうが普通に食べてくれて、美味しいものは美味しいねとか笑いながら楽しく食事をする女性の方が好きなのである。もちろんダイエットして綺麗になりたい、体型を維持したいって女性の気持ちも分かるので、自分の考えを押しつけるのも悪いと思って言えないが。

 結局それからすぐ別れてしまったが、趣味嗜好が違うのは問題なくても、物事の価値観が違い過ぎるのは、どちらかがより多くの我慢を強いられる。なかなかうまくいかないもんだよな、と実感したものだった。

 由香里はどこに食べた物が収まっているんだろうかと思うぐらい細身なのに、肉のお代わりは頼んでいるわ冷麺や抹茶アイスまで追加している。

 支払いが俺だったら、慌ててコンビニに飛び込んでお金を下ろして来なければと考えるぐらい食べているが、決して意地汚くがっつく感じではなく、気がつけば皿が空になっている。食べ方が丁寧で所作が美しいのも見ていて感心した。

 やはり育ちの良い資産家のお嬢さんってのは出来が違うなと思う。

 隣の真一も、

「本当はいい筋肉作りには高脂質の肉って良くないんですけど、まあ今日は特別な日ですからね」

 などと言いながら、姉以上の旺盛な食欲で肉を平らげている。そして彼の箸の使い方も美しく自然で品がある。

 俺もそこまでひどい食事作法ではないと思うが、やはり相手を不快にさせない食事の作法ってのはあるよな、と自分も気をつけねばと自省する。

 とはいっても、親は遠方で一人暮らしだし、彼女もいないからぼっち飯ばっかだから、誰も指摘してくれる人はいないのが辛いところだ。

 男友だちも結婚して子供が産まれたりして、会う機会も激減してるし。

 そう考えると少し不安になってしまい、俺は北沢家の皆さんに、

「あの……自分は、食べ方とかマナーとか、皆さんに何か失礼をしてないでしょうか?」

 とバカ正直に尋ねていた。

 三人は一瞬え? という顔になったが、真一の父が笑みを深め口を開いた。

「失礼なことは何もありませんよ。しかし波多野さんは以前も思いましたけど、本当に気遣いの細やかな方ですよねえ」

「えっ、そんなことないですよ。恥ずかしながら、ただのガサツで大雑把な宅配ドライバーです」

 真一の母がビールのお代わりどうぞ、と瓶を持つので頭を下げてグラスを差し出し呟いた。

「……それに、転職されたのも私どもが関係しているのに、未だに責めるような言葉を何も仰いませんものね」

「え?」

 俺が何を言い出すのかと驚いていたら、真一が「本当に驚きましたよ」と続ける。

「事情を聞いた当時の会社のチーフマネージャーが、金くれるってんだからもらっとけよ、要らないなら俺が代わりにぱあっと使ってやるからとか言って、本当に両親のところに代理だってお金を受け取りに行ったのを知って、大ゲンカになったそうですね。それで仕事もしづらくなって職場に居られなくなったとか」

「いや、それはその」

 俺は何で知ってるんだよこの人たちとテンパったが、そりゃ七年かけて捜してたんだから、興信所とかでそんな周辺情報を入手することもあるか、と思い至る。

「まあ私たちは、波多野さんがあれだけ固辞されたのに、いきなり翻意するとも考えにくかったので、言葉は悪いですが便乗したたかり行為みたいなもんだと最初から思ってましてね」

 真一の父が苦笑した。

「その件はご本人に確認して直接対応させていただきますので、って追い返しましたけれどもね。最近になって経緯を知ったとはいえ、私どものせいでそんなことになっていたとは夢にも思いませんで……本当にご迷惑をかけっぱなしで」

 深く頭を下げる真一の父にあわあわしていたら、真一まで、

「僕のせいで余計な揉め事になって……本当に申し訳ありませんでした」

 と掘りごたつから出て土下座する。

 由香里も真一の母も頭を下げる。

「ちょ、やめて下さい。本当にもう過去のことだし、気にしてませんよ。今の職場はいい人ばっかりなんで、むしろ転職して良かったなー、なんて思ってるんですから! 美味しいもの沢山ご馳走になってますし、これでチャラってことにしましょうよ! ね? ね?」

 こんな贅沢な飯をおごってもらってるのに一家総出で土下座させるとか、俺ひどい奴じゃん。

 俺は必死で、こっちは珍しく人助けなんていいことが出来たぞ、って自分では過去の良い思い出の一つになってるんだし、本当に謝んなくていいんだってば。かえってこっちの方が申し訳なく思っちゃうから、というような本音を説明し、なんとか頭を上げてもらった。

「また波多野さんに気遣いさせてしまうわけにはいかないわ。父さんも母さんも、食事は楽しくしましょうよ。ね? 私だってまだ食べたりないし」

 由香里が明るい口調でおどけると、真一も、

「そうだよね。そういえばまだ僕食べて欲しいものがあったんですよ波多野さんに。このまるしんってお肉、軽く炙ってワサビ醤油で食べると抜群に美味しくて」

 と土下座から席に座り直すと、さっきのように明るい好青年に戻った。

 両親ともまた穏やかな感じで話を切り替えてくれたので、俺は心底ホッとした。

 そうそう、豪勢な食事は楽しく穏やかな気持ちで食べるもんだ。

 その後なにごともなく楽しく食事を済ませ、真一に家の近くのコンビニまで送ってもらい別れた時には、一期一会ってのもいいもんだなあ、などと心温まる気持ちで帰路についた。

 正直、これで終わりだと思っていたのだ。

 まさか昔ちょっと人助けしただけのご縁が続くなんて誰が思うだろう。



「波多野さーん、ツーリング行きましょうよー」

「波多野さーん、うちの姉貴もバイク乗りなんで、ご一緒していいですかー?」

 多分使うこともほぼないと思いつつ連絡先交換をしていた俺は、次の週からも休みに合わせて真一から頻繁に連絡が来るようになっていた。

 俺が週末何をしているか聞かれた際に、のんびりソロでツーリングに行ったり釣りをしていると答えたのだが、真一も由香里も実はバイク乗りだったらしい。

「是非一度ご一緒に!」

 などと言われてたが、社交辞令だと思っていた。

 本当に誘いの電話が掛かってきた時にはマジか、と思ったほどだ。

 しかも当日。

 お金持ちの家だし、ドゥカ●ィだの●ーレーだの、海外メーカーの高そうなバイクに乗って来るんだろうなあと思っていたら、それぞれ国産メーカーのスタンダードな価格の二五〇CCに乗って現れた。シートの変更やサイドバッグなども自分で取り付けたり、定期的に自分たちでメンテナンスもしていると聞いて、本気で驚いた。

 確かにバイクの話でやたらと二人のテンションが上がったのは感じたが、メンテナンスなどどう気をつけても手はオイルで真っ黒になるし、パーツの取り付けでケガをしたり服だってあちこち汚れる。でも疎かにすると事故につながりかねないので、やらない訳には行かない。

 彼らならお金を払って業者に頼むなど簡単だろうに、自分でやるというところにバイクへの愛情を感じた。

 姉の由香里も嬉々としてバイクについて語る姿は、初めて会った時のよく食べる美人、という少々近寄りがたい印象から、趣味の合う友人といるような話しやすい女性に変わった。

 真一も使い込んでいるのが分かる革ジャンとジーンズで、いかにもそこらの普通の兄ちゃんで、お金持ち感ゼロである。

 最初は戸惑いも多かったが、今はツーリング仲間が出来て楽しい。

 まあ年齢も違うし住む世界だって違う。

 この付き合いも一時的なものだと思うが、ウマが合うというか、二人とも人柄がよくて話していて不快になることがない。そして姉弟そろってよく食べるのも変わらなくて、見ていて気持ちがいいし三人であーだこーだ言いながらツーリング先の店で食べるのも楽しい。

 あと半年や一年ぐらいはこんな時間が続くといいなあ、と穏やかな気持ちで俺は青空を見上げていた。


 □  □  □


「本当に……」

「本当にびっくりするぐらい、いい人よねえ……」

 真一と由香里は、馴染みのカフェでまったりと過ごしながら波多野の話をしていた。

「私が大食いなの知ってても、みっともないとか恥ずかしいじゃなくて、気持ちのいい食べっぷりだねとか褒めるし、バイク好きでも引かないし」

「親が今度こそは、と何とか受け取らせようとしたお礼も断るしね。別にあって困るもんじゃないと思うけどね僕は。すごくゆとりのある暮らしをしているようには思えないし」

「自分の厚意がお金目的みたいになるのが嫌だったんでしょう多分。心が清らかすぎて逆に驚くわ。両親も私たちもなまじ急に会社がうまくいってお金が入るようになったら、ろくでもない人たちの遭遇率高すぎて心が荒みがちだったけど、波多野さん見てると心が洗われる気持ちになるわね」

 由香里はアップルパイを食べながら笑みを浮かべる。

「あー、姉さんの前の彼氏、今思い出してもモラハラ野郎でムカつく人だったよね」

「ああ、岩田さん? ほら、あそこは代々続く名家ってことだけが売りの、家族そろってプライド高い人たちだったものね」

「何が『岩田家の妻となる人間が、そんな犬のようにガツガツ食べるような真似しないでくれ。よそ様に恥ずかしいじゃないか』だよ。『バイクなんて女性が乗るものじゃない』だっつーの」

「そんな偉そうなこと言って、よく嫌われないと思ったわよね。職場ではあんな女性蔑視するようなタイプじゃなかったんだけど」

 真一は思い出したように笑った。

「婚約すらしてないのに何が岩田家の嫁だよ。別れ話大変だったんじゃないの?」

「まさか自分が振られるとは思ってもなかったんじゃない? しかも家がお金に困っていたらしくて、結婚したら湯水のようにお金引っ張れる奴隷ゲットとでも勘違いしてたんでしょ。ほら、私は見た目は一見清楚で物静かな人だから。その場ではプライドがあったのか綺麗に別れたんだけど、その後何かと『やり直して上げてもいい』とか『もう二十八なんだから行き遅れるよ』とか上から目線でグダグダ言われてイライラしたたけど、父さんに別部署に異動してもらったからすっきりしたわ」

「まあ普通に働いてるっていっても、働いている社長の娘にそんなこと言ったらどうなるかぐらい、少し考えたら分かるだろうにね」

「仕事は出来るのに本当にバカだったわね、そういうとこ」

 由香里はウェイトレスを呼んでミルクティーとフルーツタルトを追加すると、それにしても、とため息をこぼした。

「波多野さんって割とポンコツな部分あると思うのよ。私がこんなにアプローチしているのに、まったく気づいていないってどういうこと?」

「波多野さんでなくても、新しいバイクのパーツ見に行くの付き合って欲しいとか、美味しいかつ丼屋見つけたから一緒に行かないか、って言われてデートのお誘いだとは思わないんじゃないかな」

「そうかしら? でもほらニュアンスで感じないもの?」

「そういう人じゃないよ波多野さんは。ただ姉さんが好きなのはいいけど、僕も波多野さんが人として好きだし、何とか恩返しする機会を模索中なんだから、変に空気を乱すような真似はしないでよ。せっかく仲良くさせてもらうようになったんだから」

「……そうよね。私も節度を持って接するわ。──でも、もしも上手く行きそうだったら、頑張ってもいいわよね? 彼が押しに流されて他の女性と付き合われたりされたら後悔するもん」

 すがるような眼差しの由香里を見て、真一は頷いた。

「まあ父さんたちも波多野さん気に入ってるからね。『転職したいとか、そんな話してないか』とか色々探り入れて来るよ。多分波多野さんに直接聞いたら逃げられそうだと感じるんだろうね」

「彼の場合、負担に思わないぐらいのスタンスで行かないと難しいのよね」

「僕らだって、徐々に徐々に、だもんね」

「三年計画ぐらいでいかないと厳しいわね。三十路越えるけどいいかしら」

「義理の兄としては理想的な人だから、頑張って欲しいけどね僕も」


 そんな話が交わされているとはつゆ知らず、呑気な波多野はせっせと由香里のバイクに取りつけるお勧めのパーツをネットで検索しているのであった。




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マッチョの恩返し 来栖もよもよ @moyozou777

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