生首曼荼羅

蛙鳴未明

生首曼荼羅

 大英博物館には世界の全てが折り畳まれている。その一角に喋る生首が展示されている。彼はひょんなことから首以外の肉体を失ってしまい、生活の糧を得るためにここでアルバイトをしているのだ。彼から直接聞いたので間違いない。疑わしいと思えば、誰でも彼に質問してみればいい。彼はなんでも答えてくれる。人生相談、太陽の温度、ナンセンスジョーク。しかし「ひょんなこと」については、日に三度しか語ってくれない。時間になると彼の周囲は衝立で仕切られる。奇想天外人生譚を聞けるのはほんの三十人ほどだ。私は何日も小部屋に通い詰めたが、毎回運悪く定員からあぶれ、彼の聴衆にはなれなかった。しかし夏の終わり、閉館間際の展示室でぐずぐずしていると、彼が声をかけてきた。


「君、いつも俺の話を聞けていないね。毎日のように来てくれるけど。聞きたいかい」


 私は一も二もなく頷いた。彼は満足げにゆらゆら揺れ、首のつるんと丸い断面を強調する。白浜に打ち寄せる波のように、彼は静かに語り始めた。


※※※


「なあ君、理想の人生ってのはどういうもんだと思うね」


 ビッグ・ベンが午前二時を告げていた。彼は無二の友人と、宵の口から飲み続けていた。酔いが彼の口をセンチメンタルに滑らせていた。どうした君らしくもない、と笑う友人には答えず、彼は独り言のように声を張り上げた。


「完璧で、唯一であること、これだよ君」


 それは誰もが望むことだな、と友人は答えた。彼は不意に眉間に皺をよせ、ジョッキを荒々しく机にたたきつけた。


「半端な奴は嫌いだね。奴らはみんな阿呆だよ。大統領もロックスターも……」


 半端者がなんで生きているのか分からない、とすら彼は言った。友人は眉をひそめる。大統領まで非難の対象になるのかい? 富、名声、権力全てを手に入れて、あれこそ完璧じゃないのかい。


「それじゃあダメなんだよ。あれは手に入れ過ぎなんだ。あれだからアメリカ人は嫌いだ。慎みを知らない。しかし慎みを知りすぎてもいけない。庭を持って自分で木を剪定できる、それが真に完璧ってことなんだよ。人は強くなきゃならない。欠けることは弱ささ。夏でも冬でもあっちゃいけないんだ」


 君が言っているのはつまり、平凡な人生こそが至高ということかな。しかしそれは唯一性とは矛盾しているね。


「いいや、そうじゃない。君、全てが中庸で満たされた生活というのはだ、平凡とは違うんだよ。たしかにみかけは平凡になりがちだがね。そうあり続ける者はいないんだ。私のミソは、だ。そうあり続けるということなんだよ。そこに唯一性があるのさ。欠けず余らず、そういうことさ。そして俺はそれを成し遂げようとしている……」


 酒の飲み過ぎは、と言われて、彼はその日いちの笑い声をあげた。


「友との酒は飲みすぎくらいが丁度いい。いやまったく、俺ほどいい人生はない。そう思わないかい」

 そのままショットグラスを三杯飲み干し、そこから彼の記憶はない。




 あくる朝、彼は左手の小指の爪がなくなっていることに気が付いた。頭痛のひどさからして、昨晩は相当飲み歩いたのだろう。爪ひとつ落としてきても不思議ではない。不思議なのは、爪はなんの痕跡も残さず消えていて、まるで元からついていなかったように見えることである。指の背の柔らかさが妙に馴染んだ。幾度も揉むうち、彼は爪など無い方が自然なのだと思えてきて、とりあえず爪の行方は考えないことにした。それよりも先に、爆発的に増大する吐き気をやっつけなければならなかった。トイレから出た時にはもう、彼は左手を気にも留めなくなっていた。




 休日が明け、彼はいつも通り制服を着て大英博物館の警備に立った。仕事仲間もエジプトの遺物も、彼の小指の異変を指摘しなかった。昼食を届けに来た恋人だけがそれに気が付いた。何もかもが平均的でありながら、平均的である努力を怠らない彼女は、丁度三分心配したきり、爪のことは忘れて次のデートの話題に花を咲かせた。昼食を終えると、彼は普段の三分遅れで持ち場へと向かった。博物館は海のように広い。車さえ走っている。通りを三本も越えねばならない。小走りである。視界は狭い。飛び出し注意といくら言えども、人は急には止まれない。彼はしたたかに額をぶつけ、交差点の角に転がった。信号はじきに赤。片眉の無い額を押さえる被害者に謝罪Sorryをうめき、よろよろと渡る。どうにか古代ギリシア室にたどり着いたが、頭痛はひどくなるばかり。ひとつ惨状を見てやろうとガラスケースに目をやって、彼は驚愕に目を見開いた。

 彼はかねがね、平均的なパーツばかりが集まった己の顔において、唯一眉毛だけはディカプリオに匹敵する傑物だと考えていた。毎朝くしで丹念に梳かしさえするその眉が、なんと片方なくなっているではないか。恐る恐る手を伸ばすと、陶器のような感触が指先にあらわれた。その途端彼は一声叫び、警備も忘れて展示室を飛び出した。


 ――交差点でぶつかった男を探さねば。


 折しも通りかかった巡査に、彼はまくし立てた。私の眉を知らないか、盗難に遭ったのだ――巡査は当惑して知らないという。その帽子からはみ出た眉に見覚えが――そう思った刹那、不意に引力を感じ、彼の目の前に星が散った。三歩よろめき、彼はようやく自分のしでかしたことを知った。帽子を吹き飛ばされた巡査が痛みにうめいており、その片眉は綺麗さっぱり消え去っていた。彼はまさかと思いながらも、奇妙な確信をもって、自分の額へ手をやった。陶器のような感触があった。顔面蒼白。彼は自分でも気づかぬうちに巡査に背を向け駆け出していた。




 人ごみをかき分け、クラクションを蹴とばし、彼は走りに走った。得体の知れない小部屋が入り組む大英博物館の深奥へと入り込む。無数にあるドアの一つ一つが世界のあらゆるところに通じている。澱んだ裏路地の突き当り、髑髏のノッカーを幾度も叩き、彼は主人の応えも待たずに飛び込んだ。百五十キロの巨躯に跳ね返され、彼は玄関マットに転がった。相殺された勢いを取り返すように、彼の舌が回る。暴風のようなとりとめのない説明に、彼の親友は面食らい、とぼけて立っている。しかし彼の小指、両眉をじっくり見るうち合点がいったようで、キッチンで紅茶を淹れて持ってきた。甘い紅茶を飲んで彼は落ち着きを取り戻す。そこでやっと自分の手のひらが半分無いことに気が付いて、折角取り戻した落ち着きと共にカップを投げ捨て悲鳴を上げた。カーペットの染みには頓着せず、友は彼を応接間へエスコートした。とにかく何があったか話してみろ。彼が再び一からはじめて二分もたたないうちに、友は全てを理解したようだった。


「そりゃ、ドッペルゲンガーだな」


 そう言って彼を驚かせた。


「それは自分と瓜二つの人間だろう。会うと死ぬっていう。それと俺の眉毛となんの関係があるんだい」


「眉毛はもちろん、小指や手のひらとも大いに関係があるよ。ドッペルゲンガーに会うとなぜ死ぬか、君は知っているかい?」


 彼が首を振ると、博士は宇宙の深淵や十一次元の謎に迫る非常に複雑でSFじみた説明の後、こう締めくくった。


「要は対消滅だな。本体がプラスならドッペルゲンガーはマイナス。その逆もしかり。会うと互いに打ち消し合って存在がゼロになる……そういうことだよ」


 なるほど原理は分かったが、それと俺の眉毛、この世から永遠に失われてしまったこの世の宝とは何の関係があるのだ、と彼は思った。友はそれを見透かしたようににやりと笑った。


「つまりね、君のは部分ドッペルゲンガーさ。普通は本体と同じ人間態をしているが、君のはどうしたことか分裂して色々な人の部位に分散しているんだ。それに君が近づくと引力が強まり、頭突きをしたりビンタをしてしまう訳だ」

「俺はどうなるんだ? 死ぬのか?」

「すぐには死なないさ。時間の問題だがね。引力の作用で、君の一部を持つ人々が近くへ集まりつつある。これから君は欠けるばかりさ」


 彼はみるみるうちに泣きそうな顔になった。


「なあ、どうにかならんのか? 俺は死にたくないんだ。まだ結婚だって――頼む、なんとかしてくれよ」

「なんとかしてやりたいが……始まったものは止められない。今の内から祈っておくよ」




 彼は友の家を辞した。俺は死ぬ。これからどんどん欠けていく――それが途方もなく恐ろしかった。防衛反応だろうか。彼は動揺しながらも、古代ギリシア室へと無意識に足を運んでいた。もうあの巡査はいなかった。広大な展示室はがらんとして、彼は己のみの存在を感じてほっとした。彼はいつも通り、部屋をぐるりと点検しだした。日常へ回帰する試みは、すぐ失敗に終わった。彼の足は動きを止め、がくがくと震えはじめた。目の前にエルギンマーブルがあった。パルテノンから略奪された神像たちが、欠けた姿で彼を見下ろしていた。首のない女神、腕のない男神。生気のない白が、巨大な津波のように迫って見えた。彼は恐怖し、その場にへたり込んだ。六体の神像全てに、彼は自らの心臓を幻視していた。




 観光客のざわめきに、彼は素早く振り返った。押し寄せる人々。動く地雷原のようだった。足が途端にしゃきっとし、彼はガゼルのようにその場から逃げ出そうとした。しかし人はガゼルほど速くない。人波の縁をすり抜けようとした彼は、逆に大波に飲み込まれてしまった。どうにか外へ出ようともがく。子供を飛び越え、カップルの間をすり抜ける。不意の引力に彼の身体は回転し、あっと思うと足が一本消えている。彼は倒れそうになるが、人の密度が彼を支え、倒れることを許さない。あちらに引力、こちらに斥力。彼の一部を持っていた人々は、自分の身体が欠けたことに気が付かないようで、つるんと白い断面を見せながら、平然とその場から去っていく。ただ彼だけがきりきり舞い。待て、返せ俺の身体と叫んでも、それは異国語に塗り潰される。長く続いたピンボールから解放されたとき、彼は片腕片足と胴体の四半を失い、古代エジプト室に転がり込んでいた。彼はラメセス二世の巨像を見上げた。ファラオは下半身と片腕を失って、うつろな目で彼を見下ろしていた。彼はぞっとした。余りにも恐ろしかった。打ち消せない未来の自分に見下ろされているように思えた。


 ――半端な奴は嫌いだね。


 彼は己の言葉を思い出した。


 ――半端者がなぜ生きてるか分からないね。


 彼は過去と未来の自分に挟まれ、もうどうすることもできず、冷たい床の上で硬直していた。なぜ俺が――これが報い――しかし俺は何も悪いことなんて――運命――なぜ俺だけが――昨日までうまくいっていたのに――彼は世の不条理を呪った。起きるものごとに理由はない。理由はいつも後天的で、混乱への対症療法でしかない。しかしそれすら見つけられない理不尽を前にして、彼の混乱は留まることを知らず、体内の渦巻はどんどん大きくなっていく。中間状態への強烈なストレス。歩き回る観光客の足音一つ一つが、死神の足音に聞こえる。

 彼は目も口も大きく開いた。体内の渦巻を一気に解放しようとしたのである。それが成功していれば、彼は狂人として生を終えられていただろう。しかし己の名を呼ぶ恋人の声に、彼は開ききっていた喉を閉ざした。冷静な驚きと焦りが、叫びを八分の一秒だけ響かせて止めた。平均的な彼女は典型的な声にならない叫び声をあげ、恋人のもとへ駆け寄った。その一歩一歩が、彼に羞恥を抱かせた。彼は必死に手足を動かし、柱の陰に隠れようとしたが、その甲斐なく恋人に肩を掴まれた。


「どうしたのこれ――どうなっちゃってるの!?」


 彼はうまく答えられない。しゃがんだ彼女と目線が合っていることが、彼にとっては苦痛だった。理想的だといわれる十五センチの身長差、それはマイナスに突入し、完璧な幸せを享受することは出来ないのだった。嫌だ、嫌だと彼はしきりに呟いた。彼女が救急車を呼ぼうとするのを必死で拒否した。この若さで救急車に運ばれる、それは彼のような自尊心の強いものにとっては耐えがたいことだったし、どのみち彼はそのうち死んでしまうのだった。




 死にたくない、と何度も呟いた。恋人は唇を引き締め、彼をえいやと持ち上げた。とにかく病院へ行くというのだ。恋人が人並外れた勇気を持っていたことを彼は初めて知り、胸を打たれたが、それを喜ぶことはできなかった。俺は何てバカなんだ、と呟きながら、彼は恋人の肩にすがりついた。夢想していた黄金の未来が欠け落ち切ってしまう前に、その一欠片だけでも味わいたかったのだ。彼は恋人と口づけを交わした。同時に彼は引力を感じ、気付けば床をゴロゴロと転がっていた。首だけになったのだと気が付くのに三回転を要し、恋人の四肢がばらばらに転がっているのを理解するまで二回転を要した。雄たけびも上げられず、彼は固まった。二人が似たもの同士だと称されることは多かった。しかし、まさか胴体がほぼ同一であったとは――彼の目の前で、恋人だったものの五体はバッタのように飛び跳ね、集合し、三頭身のトロールのようになって、去っていった。もう彼のことなど忘れてしまったようだった。彼はゴムのように横たわる自分の片腕と片足を見やった。それらは彼女の手足のようには動かなかった。


 ――彼女は気が付いていないのだ、忘れたことに、欠落したことに。俺は知ってしまったのだ。


 それ故に、彼は一ミリたりとも動けず、ロゼッタストーンを見上げている。古代のヒエログリフはその三分の二以上が欠けている。それでも解読されたのは、下部に二つの文字で同じ内容が書かれていたからだ。意味の存在には自らによく似た他者が要る。同一であることは自己の消失を意味する。

 彼はもう、消えてしまいたかった。彼は生まれた頃から、自分は何者にも支配されない唯一の存在だと考えていた。嫌われようがどうでもよかった。それが今や、首だけになって、それでも呼吸し、無様に大理石に頬を押しつけている。


 ――ドッペルゲンガーに対して俺もドッペルゲンガーならば、俺は他者の寄せ集めじゃないか。他者を切り貼りした存在になんの意味がある?


 彼の目の前で、彼の片腕が引力に引かれて浮き上がり、ビジネスマンの腕と同化して消えた。ビジネスマンは電話を耳に押し当てたまま、表情を変えずに去っていく。



 彼は目をぎょろりと動かし、ラメセス二世の顔を見上げた。身体の過半を失っても、王は堂々として見えた。それがぞっとするほど美しく、完璧に見えて、彼は恐怖を感じた。どこかから、煉瓦が崩れるような音がした。


「どうした、こんなところで」


 友の顔は、彼とは似ても似つかなかった。そのことに無い胸を撫でおろしながら、彼は答えた。


「道に迷って」

「案内は必要かい」


 彼は目瞬まばたきして考えた。二度目の目瞬きは頷きよりも強かった。よしきた、と彼は友の腕に抱えられる。


「どこまでいこうか」

「なあ友よ、俺に未来があると思うかい」

「あるとして、観葉植物がわりになるくらいだろうな」

「だよな。俺は昨晩言ったな。半端者は嫌いだって」

「言ったね多分。自分の人生には欠点がないと豪語してたね」

「俺はそう、完璧でいたいんだ。状態変化が嫌いなんだ」

「完璧は痛いがね」

「俺はその痛みを求めるくらいには平均的なのさ。俺は死に切りたい。探してくれるかい、俺の顔をもうひとつ」


 お安い御用、と言って友は駆け出した。街並みがぐんぐん通り過ぎていった。彼はしだいに強まる引力を、甘美なものとして受け止めた。


 ――俺の死に花を咲かすため、地球が自転を速めている。


 彼は湧き上がってくる高揚に五キログラムの全身を震わせた。どこかしらを失った人々が、視界の端を掠めていく。その一人一人に、彼は頭の中で勝利宣言を投げつけた。


 ――俺は完全に死に切る。死に切ることで唯一性を手に入れる。俺はお前たちとは違う。あばよ半端者たち。


 通りを三本飛び越えて、古代ギリシア室に飛び込もうかというところ。コーンで四角く囲われた中に、その男はいた。観光客の大群が展示室から吐き出され彼我を遮る。彼は叫んだ。友はそれに応えて大きく振りかぶった。彼は見事な放物線を描き、真っ直ぐに彼の運命へと落下していった。何かを感じたのか、驚いたように振り返るその男。その目が、耳が、すこし不格好な鼻の形さえ今は愛おしい。影が祝福の光のように落ちてくる。彼は快哉を叫び、高貴なる死へ口づけしようとした。




 しかしそれは果たされなかった。天井から落下してきた鉄骨が、ドッペルゲンガーの頭を完全無欠に粉々にしてしまったのである。彼は鉄骨に跳ね返され、唇を尖らせたまま虚しく路上を転がった。ゴミ箱にぶつかって動きを止める。深紅に染まった世界が流れ落ちてゆく。彼は何が起きたか分からずただ呆然と、真っ赤に染まったエルギンマーブルを眺めた。その口は、友に拾い上げられてもまだぽかんと開いていた。もう、恐怖にして甘美なあの引力は感じられなかった。


「なんといえばいいか……」


 彼はにわかに顔を真っ赤にして叫んだ。


「畜生! 死んじまったら何にもならんじゃないかバカ野郎!」


※※※


 その後、友の斡旋により彼は展示物のアルバイトをはじめ、今に至るということだった。語り終えた時、閉館時間は過ぎていた。しかし別に咎められることは無かった。彼は顔に疲れを滲ませて、私に感想を求めた。随分大変な目に遭いましたね、と私は言った。彼は意外そうな顔をして、首を左右にごとごと揺らした。


「そこまで当たり障りのないことを言われたのは初めてだよ。確かに散々な目に遭ったが……実はあまり後悔していないんだ。オンリーワンになれたからね」


 ミロのヴィーナスを思い出してみたまえ、と彼は言った。片頬だけを引いて笑ってみせた。


「欠けることこそ完全じゃないか?」


 そう言う彼の眉毛は左右に歪んでいた。数カ月前に金を払って植毛したのだと聞いた。




 次の土曜、展示室に彼はいなかった。職員によると、収蔵庫の奥にしまい込んでしまったのだという。なんでも彼は狂ってしまったそうだ。数日前、聴衆がぞろぞろと帰っていくのを見送っている時、彼が突然笑いだした。なだめてもすかしても笑いやめないので、仕方なく二重の箱に詰め込んだが、それでも彼の声が聞こえる。とうとう地下収蔵庫の奥の奥に置いてきた。なぜ笑い出したのかと聞くと、職員は唸った。


「……笑い出す直前に若いお客さん同士がぶつかりあっていたが、それかなあ」

「二人に妙な点は?」

「いえ、好青年でしたよ。互いにすぐ謝ってね。さっと別れていったが……そういえば、二人の小指の先が少し欠けていたようでした」


 多分彼は泣きたかったのだ、と私は思った。どこか遠くから喉の裂けるような笑い声が聞こえた気がした。きっと未来永劫、彼は地下で声を上げ続けるのだ。


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