川面の翼

恐竜洗車

川面の翼



 冷え込んだ冬の早朝、男が道を歩いていた。

 

 男の表情は暗かった。それは季節の寒さのせいであり、またまだ空に青さが澄み渡りきっていない時刻のせいであり、彼自身の心境のせいでもあった。

 

 男はその日から新しい職場で働くことになっていた。朝早く出歩いているのも通勤のためバス停を目指してのことである。以前の職場ではうまくいかず、強引な形で退職し、知人の紹介でなんとか次の働き口を見つけたのだ。 


 しかしそれは男にとって福音ではなかった。彼は表向きは伝手を頼って職を探していたが、内心ではいつまでも何も見つからず、何も起こらず、やがて時が過ぎて、変化のもたらす緊張と苦痛にさらされる事の無い、穏やかな世界にひきこもりたい思いだった。 


 だが男の本意とは裏腹に、話は速やかに進んでしまった。彼はさして間を置かず社会復帰するはめになった。


 果たして自分は大丈夫なのか。沈んでいく精神が男の顔に、朝焼けのなか取り残された夜の闇を落とす。 暗い表情に次第に強くなる陽光を浴びながら、男はバス停へとたどり着いた。 


 バス停は川沿いの道にあった。時刻表示に間違いが無いか目を通す。特に何もない。男は自分の人生が嫌に淡々と進行している気がして不愉快になった。 


 その不愉快さを少しでも紛らそうと、男は歩道から川を見下ろした。


 瞬間、男は目を奪われた。川面が白く輝いている。それは湯気だった。冷えた冬の気温は川の水よりも低温で、大気と水面に生じた温度差により川全体が湯気を発していたのだ。 

 

 湯気は朝焼けを受けて暖かな光を宿している。水から立ち上るそれは、天を目指そうと上昇するも、大気の微風と川自体の勢いに負けてしまうのか、下流に向かって静かに流れていく。それでも湯気は止めどなく溢れ出す。何度吹かれようと、何度流されようと、天に向かって飛翔する、朧気な白い翼である。


 それは天然自然の顕現であった。凍える季節の冷え込む時刻に、ただそこにある川という自然が、自らの存在を世に示す意志の現れだった。湯気とは即ち蒸気である。流れゆく白はやがて気化し、大空の青に溶けていく。自然が発揮した雄大な力は、同じく自然の雄大さの中に還元されてゆくのである。 


 眼前に広がる光景に男は見惚れた。彼は実在する幻想の中に堕ち、いつまでもこの情景に焦がれていたいと思った。 


 だがその感傷は突如途絶えた。道路の向こう側からバスがやってきた。 


 その事に気づいた男は自分の心を忘れたかのように向き直り、停車したバスに乗り込んだ。男の存在は無機質な鉄の箱に還元された。 


 辺りに人はいなくなった。 

 

 川面の翼は健在だった。その姿を見る者がいなくとも、白い翼は天に向かって羽ばたき続けた。



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