雨と鳩尾
もも
雨と鳩尾
夏の昼に降り始めた、穏やかな雨みたいな奴だなと思っていた。
曇りの日の薄暗さと陽の光の色を混ぜたような、少し黄色がかった目。湿り気を帯び始めたグラウンドから立ち上る、腐って枯れて養分となった草と土の匂い。懐かしく感じるのと同じぐらい、これ以上浸ることに対する後ろめたさ。
「帰れないの?」
6月、梅雨。傘を忘れて呆然としていると思ったのか、声を掛けられた。
「今日は雨予報じゃなかったもんね。僕も置き傘がなかったら危なかったかも」
やんわりと笑いながら下駄箱から白のスニーカーを取り出し、代わりに上靴を入れる。こいつの動きにはいつも無駄がなく、温度を感じさせない。俺はその一定に保たれた涼やかな静けさを好ましく思っていたが、いつも自分の中のどこか、何かがざらついていた。
「その靴、まだ新しそうだな」
「これ?」
箱から出したばかりのような、つるりとしたアッパー。ゆっくりと穏やかに一歩ずつ、同じペースで歩いている姿を想像する。
「そうそう、今朝おろしたて。なのに雨とか笑うよね」
折り畳み傘を開いたところで「小さくて悪いけど、一緒にどう?」と誘われた。傘の下に入ると、限りなくゼロに近くなった距離にギクリとした。
校舎から外へ。
ぱたぱたと雨粒が傘に当たり、静かだった頭上に音が注ぐ。地面を踏む。ざり。靴底が濡れた土を後ろへ跳ね上げる。数歩歩いたところで、白いスニーカーには茶色い土が付いていた。
「靴」
「あー、やっぱり汚れちゃったか。まぁ汚れるのは白スニーカーの宿命だし、どこかのタイミングでこうなっていただろうから」
口では残念そうに言うものの、芯の部分が揺らいでいる様子はない。急な雨も新品の靴の汚れも、実のところあまり気にしていないのだろう。なんなら明日地球が滅亡しますと言われても「そうなんだ」で終わりそうな気配すらある。こいつにとって、ほとんどのことは些末なことに違いない。こっちは折り畳み傘が作る狭い空間の中に肩を並べているだけで、いたたまれない気持ちになっているというのに。
「濡れてない?」
我に返る。あぁ、傘からはみ出た左肩を気遣ってくれたのか。
「大丈夫」
平静を装いながら右側を見ると、俺の顔をじっと見ている心配そうな視線とぶつかった。思わず距離をとる。
「そんなに離れたら傘から出ちゃうよ」
「大丈夫だから」
「全然大丈夫じゃないし」
「問題ない」
「問題あるよ」
右腕をぐいと引っ張られる。二の腕の内側を掴んだ手が意外にも熱くて驚いたが、俺との距離がゼロになってもその手を離そうとしない。自分からどうすればいいのかわからずにいると、前を向いたままでぽつりと呟く声が聞こえた。
「もっと近くにいてよ」
気配が揺らぐ。
隣から漂う、雨の匂い。ぽつぽつと降り落ちる雫が、アスファルトの上に黒い染みを刻んでいく。鞄の中に眠る折り畳み傘のことを思い浮かべながら、俺は鳩尾のあたりをジワジワと覆う熱さの正体が何なのか、考えていた。
雨と鳩尾 もも @momorita1467
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