波打ち際の真実

 ベッドからようやく抜け出したときには、スクリーンには11:08の数字が表示されていた。準備のために土日を費やしたので、今日は振替休日だった。土日に出勤しても、給料は変わらない。その分突発的に平日に休日が与えられるが、規則性がないので予定が立てにくい。年間通して働けば慣れるはずだと思うがどうにも釈然としなかった。お湯を沸かしてコーヒーを淹れる。ホットケーキミックスを取り出して、スコーンを焼く準備をする。別にもっと美味しいスコーンはいくらでも手に入るし、本格的に作りたいならキチンと粉を計量してオーブンで焼くべきだ。バターに拘るのもいいだろう。でも私は特別美味しいスコーンを求めているワケでもないし、お菓子作りを趣味にしているワケでもない。暇を持て余す休日に一生懸命時間を浪費しているのだ。


 バターの代わりにサラダ油を混ぜて、牛乳じゃなくて、アーモンドミルクを使う。そこにシナモンシュガーを加えて、一口大に切り分けた生地をオーブントースターに入れる。キッチンに漂う匂いは少し人工的ではあったが、幸せだった。もう何ヶ月もスターバックスには行けていない。何処にも出かけられない囚人の休日は永遠に感じられた。


 「サトミンが気にすることじゃないからね」ユイさんから、いつになく丁寧に優しく慰められたことが余計に深刻な気分にさせた。彼女のオンラインセッションには誰一人訪れなかった。恐れていたことが起きてしまった。彼女はもう2度とイベントに顔を出さないだろう。イベントの最中、気が気ではなかった。数千人フォロワーのいるメンバーですら、訪れる参加者は1人か2人だった。普段から積極的に集客していない彼女の所には誰1人訪れなかった。「これからもよろしくお願いします」とこちらが声を絞り出すのがやっとだった。仙台から新幹線に来なかったことは不幸中の幸いだった。ヒカリさんからの差し入れである、ピエールエルメのマカロンが胸に詰まった。


 オフィスの窓いっぱいに原宿青山一帯を覆う灰色の雲が広がっていた。イベントの報告ミーティングだ。ユイさんはインターンの子に研修をしなければならないというので、どれだけ大事な研修かは知らないが、とにかく私ひとりで報告することになった。空模様とは裏腹に、ヒカリさんの口調はカラッとしていた。あぁ、あの2人はね、とだけ言ってこの話はおしまい。当日まで、機材を借りたり差し入れを買いにいったりして、走り回っていたことにも、咄嗟にエリーちゃんの不在に対応したことにも、傷ついたミツさんをフォローしたことにも感謝の言葉は述べられなかった。「やっぱり、来年からは有料にしないとダメかもね」なんて呑気なアイディアを出していた。外にでると空がさっきまでの湿気を全て集めて、雨を地面に降り注いでいた。


 夏が終わって、家賃の心配がなくなった。すっかり位置が高くなった太陽を反射させた海の水面は、ハワイではなく故郷の白浜の海岸のものだった。潮の匂いがする。


 空の青も影の黒も濃くなっている。「家にいるならレオの散歩に行ってきてよ」という母親の小言に従い、渋々外に出た。母の背中は少し小さくなったように見えるが、声のボリュームは相変わらず大きい。サーファーたちが姿を消した10月の海沿いを30分。海辺で育ったが、泳ぐのは苦手だったし、マリンスポーツなんて論外だった。まして、深く潜っていくスキューバダイビングなんて一生関わることはない。深く深く潜っていって方向感覚を失ったら、水面には上がれなくなるのだ。


 退職は思った以上にあっけなかった。首が回らないとはよく言ったものだ。回せないことはないが、経済的には本当に回らない。実際にクビを動かしてもじっとしていても痛い。医者からもストップがかかった、という言い訳を繰り返して、手続きを進めてもらった。


 「特別だから」と言うのを何回も強調されて、ヒカリさんのお気に入りのレストランに行った。どうしても辞めちゃうの、寂しい、というお決まりの餞のことばを一通り述べて、シャンパンで乾杯した。何も味がしなかったらどうしようかと思ったが杞憂だった。グラス¥800のシャンパンは絶望のなかでもちゃんと美味しい。旬の野菜のバーニャカウダとアヒージョを前菜にマルゲリータとラムを平げた。せっかくなのでデザートを頼みましょう、という申し出を素直に受けて、ティラミスを頬張る。最後にもう一度「退職じゃなくて、休職にするのはどう」と言われたが、断った。こんな素敵なお仕事、サボっていたら罰があたっちゃいますよ。皆が憧れるお仕事だから。すぐに応募が殺到しますよ。こんな感じの滑らかなウソを言った。「コウダイもビックリしてたの。よろしく伝えてって」

程よくアルコールが回っていたので、私は言った。「本当に素敵なパートナーですよね、岡野さん」一瞬強ばったのが分かったが、すぐに笑顔を作ったヒカリさんにたたみかけるように続けた。「お2人の関係、ビジネスパートナー、でしたっけ。なんかそういう言い方なんですよね。上司と部下でもなく、同僚でもなく」思いつく限りのビジネスパートナーへの憧れを語っておいたが、本心は一つもなかった。あの一瞬の表情は、一矢報いたようで、すっとしたが、青空にどうしてもそぐわない小さな黒い雲が残った。


 21時を過ぎて、店をでたが、まだ蒸し暑い風が吹く。ここから地下鉄に乗って乗り換えなくちゃ。ヒカリさんはタクシーで帰るだろう。「何か機会があればお仕事しましょうね」とヒカリさんは念を押した。


 退職する当日、ユイさんは私への餞別と実家の犬のお土産までくれた。「雨がすごいので、オフィスまで戻れません」と伝えたときにも傘をもって迎えにきてくれた。ヒカリさんは窓から豪雨をみても雷鳴を聞いても何とも思わなかったのだろうか。自分のアシスタントがエレベーターを降りたくらいのころだったのに。池みたいなプールみたいな水たまりを避けようとして、別の水たまりに足を突っ込んでキャアキャア言いながら靴と靴下をびしょ濡れにして歩いた。ダイアナの黒パンプスは次の日もちゃんとオフィスに堂々と現れた。


 夏が終わって、家賃の心配がなくなった。リビングのソファで失業保険が支払われるのを待つつもりだったが、母にせきたてられて、求人を探し、どうにか職にありついた。町で唯一にして最大の商業施設の文房具売り場だった。買う人はほとんどいなくても一応モンブランの万年筆とモレスキンの方眼ノートの取り扱いもある。文房具以外でも、直営店舗の商品なら、常に二割引きで手に入る。シーズンが終わったものなら七割引きだ。日用品が安く手に入るのはありがたかったし、そのたびに「リアのおかげで家計が助かる」と母は近所に自慢していた。


 契約社員なので、支払われる給料は15万にも満たなかった。とはいえ、母に5万円分の家賃、折半した光熱費や水道代を支払っても充分なお金が残った。食費も折半しようとしたが、いちいち面倒だと主張されたので、ありがたく、従うことにした。新作のiPhoneを買っても余裕はありそうだったが、ひとまず割れた画面を直すことにした。Vログ用のカメラも買えそうだと思ったが、インスタのアカウントはもう削除していた。


 中学の同級生のミサとお茶をした。意外なことに海沿いでインスタ映えするスポットとして町にはオシャレなカフェが増えていた。土地だけはいくらでもあるのだ。「東京かぶれってカンジ」ミサは開口一番そう言った。ZARAの黒ワンピとピンクのケイトスペード のバッグ、水たまりの中に飛び込んだダイアナのパンプスもいっしょだ。そういうミサは海辺に相応しい、白のTシャツにダメージジーンズでサンダルだった。


 新しい職場で、ミサは偶然レジ打ちのパートをしていた。子どもは2人いて、2人とももう小学生だ。東京でインフルエンサーのアシスタントをしていたが、志半ばで辞めることになった。経済的にどうにもならなくなって実家に帰ってきた。こんな経緯をなるべく明るく話した。ヒカリさんのことを根掘り葉掘りきかれたら答えに窮すると内心ビクビクしていたが、全く興味は示されなかった。地に足をつけて生きている人間は、SNSの人気者をビックリするくらい知らない。

「インスタグラマーって写真投稿してお金もらえるひとだよね」くらいの認識だった。彼女の純粋な無知によって、私が今まで必死に縋ってきたものがガラガラと崩れて、テラスから見える砂浜の一部となっていった。

その後は子どもたちの運動会の話、今は5月が運動会シーズンであること、ハロウィンのコスチュームの話、クリスマスよりも重要イベントらしいことを教えてくれた。


 「子どもたちもリアに会いたいって。ユリはリアのカッコがすごい好きって言ってるし、ケイは来年から調理部に入りたいんだって」


 そこで、オーブントースターで焼けるスコーンの話をした。火も包丁も使わないから一緒に作るのはどうかな。ミサは提案に二つ返事でのってくれた。来週の日曜日はどう。お昼食べたら迎えにいくから電話するね。約束の仕方は中学生の時と変わらない。


 車で送ってもらった道中に運転の練習をしたくなった。それを伝えると、近所の地主の息子、ユウキがドライビングレッスンをやってる話を教えてくれた。この辺では18歳になると皆免許を取らされる。最近の子は用心深いし、親も過保護だから、ブルーオーシャンかもしれない。ブルーオーシャンて白浜のことなの、と聞かれたので、申し訳ないくらい大声で笑ってしまった。そんなに面白いこと言ってないのに、とミサが口を尖らせる。小学校が終わる前に帰らなければならなかったから、太陽がまだ高い位置にいる間にバイバイを言った。


 Instagramのアカウントを消すとサロンメンバーの誰からも連絡は来なくなった。毎日イイねを押し合っていた、何十万も費やして手に入れたはずの横のつながりは跡形も無く消えた。もともと、個人の連絡先なんて知らないのだ。ヒカリさんはどうしているだろう。新しいスタッフちゃんは、ハーブティーが好きな子だといいなと思う。


 「ハワイにも行きそこねちゃった」と呟いたとき、ミサは心底呆れた顔をした。「リアってクラスで一番海が嫌いだったじゃないの」彼女がいうには、私にはスペインみたいにオシャレな国がいいそうだ。


 子どものころから変わらない海風が髪に絡みつく。日が短くなったので、紫の大きな太陽がオレンジの空の中に落ちていく。車の運転をしよう。お菓子作りのレパートリーも増やそう。実家には機能を眠らせた優秀で不幸なオーブンレンジがある。モレスキンのノートにレシピを書いておこう。一緒に飲んだコーヒーの記録も。I love my job は聞こえない。秋も終わろうとしている。私は水面から、もうすぐ夜空に輝くオリオン座を見つめるだろう。

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碧い入江の迷子たち @Lily_Yamada4812

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