不眠症の水面

次の日から眼鏡で通勤するようになった。瞼のまわりまでカサカサになってしまったのでメイクもロクにできなかったが、誰も気に留めていなかった。こんなのは言いがかりだと分かっている。メンタルダウンしているから、ネガティブな方向に飛躍しやすいのだ。それでも、誰も私のことなんて見ていなかったのだ、という現実が焼き付ける陽射しとともに纏わりつく。オフィスに人手が必要だ。誰かの手が必要なだけで、私を必要としているわけではない。もがいてももがいても水面に上がれない。


 仕事用の服は、新しい職場での悩みの種だった。コールセンターで働いていた時は好きな服を着ていた。ジルスチュワートのワンピースにランバンのトレンチを羽織ったり、Zara のジャケットをセットアップで着たりしてもいい。足元はコンバースのハイカットでもアグのムートンブーツでも夏ならクロックスでも良い。かつての同級生たちがつまらない格好をして電車に揺られているのを想像すると優越感に浸れた。私はそんなつまらない大人にはならない。


 今は吉祥寺から原宿まで、スーツに身を包み、ロンシャンの紺ナイロンバッグを持って、ダイアナのパンプスを履いて通勤する。お気に入りだったフューシャピンクのバッグはヒカリさんに言わせると「かわいいけど、起業家としてのブランディングが甘い」。スーツは青山だが、Oggi とのコラボだから、一味違う。もちろん、この格好は一時的なものだ。悪くないが、ブランディングがカンペキではない。自分のビジネスが軌道に乗れば、バッグはルイヴィトンのさりげないモノグラムエピシリーズにする予定だし、靴はルブタンのピンクベージュにするつもりだ。好きな服にお金を使って通勤できないのなら、働く喜びなんて見出せない。


 手帳の戦略会議がまた始まった。結局は1冊目は仕事用という案を採用してもらった。「いつか自分でビジネスをすることを見据えた手帳」という謳い文句付きで。いわく、この手帳は紙の質や、カバーの発色にこだわっているらしい。そして、ウィークリーのページには日付の他に毎日の気づきを記入できるメモスペースがある。ここに自分のビジネスのヒントがあるのだと言う。2冊目は、ユイさんの「夢が叶ったときの未来手帳」という使い方が採用された。


 ヒカリさんは決してノルマなんて言葉を使わない。自分のビジネスがより多くの女性に届くことを夢見ているだけなのだそうだ。自分1人でビジネスができれば外国でだって暮らしていける。永住権やビザの手続きなんて野暮な話はでてこない。


 午前3時13分、夜のとばりに漸く暑さが影を潜めたとき、それは起きた。首の痛みで目が覚めた。痛いと思ったときにはもう遅く、どうやっても寝付けそうになかった。少し遅れて頭痛がきた。痛みは右の肩から後頭部にかけて重くのしかかった。ついこの間、目医者に行って2,000円の支払いをしたばかりなのに。また病院に行かなければならないのか。どのみちこの痛みでは眠れそうにないから、検索をかける。「首の痛み、眠れない、病院」どこのウェブサイトも「首の痛みは危険なので、一度レントゲンを撮りましょう」という結論だった。大体ネットには他人の不安を煽るようなことしか書いていない。ブルーライトで冴えた目で、痛み止めを探す。ずいぶん前に歯医者で貰ったロキソニンが余っているはずだった。


 午前7時30分。仕事の準備を始めるギリギリの時間だ。行かなければ。ずっしり重くなった右半分の身体と睡眠4時間の頭で1時間かけて出勤しなければならない。この仕事を得るために様々な出費をした。もはや、仕事を辞められる余裕はない。仕事を辞めるには貧し過ぎる。I’m too poor to quit my job. ついこの前インスタで見た投稿だ。自虐というか皮肉というか、本来ならユーモラスな投稿だったが、笑えなかった。


 支度をすませる。座席の埋まった電車にのる。オフィスにつく。モニターの前に座る。いつも通りだ。錘をつけた首の上で、すっかり萎縮してしまったかのような脳ミソをフル稼働していつもの業務をこなす。また、映画のセリフが蘇る。I love my job, I love my job. サロンのボランティアメンバーにもイベントの連絡をする。商品の購入が入ったのを確認して発送作業をする。手帳の販売が始まるとこの業務がメインになるらしい。


 どうにか金曜日までやり過ごして、土曜日の午前中に形成外科に行った。レントゲンをとって、無愛想な医者の問診が始まる。

「ストレートネックですね。普段パソコン使う仕事?スマホも沢山使う?」一通りの質問に答えて、リハビリの希望を聞かれた。無理強いはしないというが、リハビリに通わせたいという圧力は伝わってきた。考えます、とだけ言って痛み止めを処方してもらった。


 夏の一大イベントが始まろうとしている。このイベントの最大の特徴はヒカリさんが出席せず、私たちだけで回す所だ。勿論大嶋ヒカリの名の下で集客するので、冒頭30分の録画ミニセミナーと最後の挨拶(これも録画だ)はヒカリさんが行う。全部で二時間。残り時間はオンラインサロンメンバーがzoomで女性たちの相談にのる、というものだ。サロンに入って何が変わったか、どのようなコンテンツがオススメなのか、オンラインビジネスをするにはどうしたら良いか。「どんな質問でも答えます」と銘打っているが、要するに参加者任せだ。メルマガでの案内、当日参加者の名簿、ウェブ上の確認テスト、ボランティアメンバーへの契約書。私たちに任された一大業務なのだから、盛り上げなければならない。当日の流れは何回聞いてもサッパリ掴めなかったが、実際に経験すれば慣れるはずだ。


 ボランティアメンバーが当日使うための10台のiPadのレンタルのために炎天下の原宿だか青山だかを往復しなければならなかった。ヒカリさんのお気に入りであるピエールエルメのマカロンも買いに行かなければならない。わざわざ、オフィスまできてくれるボランティアメンバーへの感謝の印だ。せっかくなら目にも舌にもいい本場のスイーツが良い、というのがヒカリさんの美学だ。マカロンは日持ちがしないので、前日に行くしかない。この疲労も漠然とした不安もイベントが終われば爽快な開放感に変わる。


 来年の6月になれば、ボーナスがもらえる。9月はハワイだ。トムフォードのアイシャドウと、ディオールの財布くらいなら買えるだろう。12月にはまたボーナスがある。その仕事を3年くりかえしたら、退職金がでるから、それまでに仕事を探せばいい。資格の勉強をするのもいいかもしれない。小さな夢ばかりが浮かんでは消える。


 現実の土曜日はひたすら睡眠の負債を取り戻すために眠るか、内容のない短い動画をみている。10分のYouTubeにすら耐えられない。日曜日は、どうにか外にでて、インスタに使えそうな写真を撮りにいく。1日1枚では足りないから、最低でも30枚は撮っておく。コスパよく、タイパよく巡れるかが勝負だ。好きなブティックにもカフェにもしばらく行っていない。他人を惹きつける好きなものでなければ意味がない。そんなカッコよく切り捨てた振りをしているが、実際の問題は1つだけだ。そんなことをする余裕がない。精神的にも経済的にもだ。


 ハワイへの期待と不安はイベントのそれらと同様に私の思考回路をあちこちに駆け回っていた。ハワイに行くならパソコンももっていかなくちゃ。変圧器が必要なのかもしれない。昔、韓国に行った友達が充電したらスマホのバッテリーがダメになったって言っていたし。Amazonで1番安い変圧器を探す。¥1780だった。まだ先のことだから、今は買わないでおこう。これは忍耐なのか、諦めなのか。


 イベントの申し込みは200名だった。家から気軽に無料で見られる。しかも無料なのだから、もっと多くても良さそうなものだ。ボランティアのスピーカー達はオフィスで待機して、時間になったら一斉にzoomで参加する。安定したネット環境を提供するためだ。唯一、仙台在住のメンバーだけはオンライン参加することになっていた。義務はないのだが、「これもオンラインならではの良さよね」とヒカリさんはご満悦だった。マレーシアやベトナムからの申し込みもあったので、ますます気をよくしていた。


 イベントは去年も行われたはずだが、私は参加していない。ヒカリさん本人に会えないので興味を惹かれなかった。そして、ヒカリさんに会うには対価を支払うのが礼儀だと本当に信じていたから、無料のイベントは極力参加しなかった。アイドルの舞台に¥12,000を支払う同僚を冷ややかに見ながら、ヒカリさんと直接話して写真撮影できるセミナーなら5万円でも払って駆けつけた。


 運営メンバーになれたので、今はセミナーにお金を払う必要はない。過去のセミナーも録画と資料は好きなときにみていいことになっている。それだけで何万円もの価値になるはずだ。


 ボランティアメンバーのなかで注意を払わねばならない人間が2人いた。1人は仙台から参加するミツさんだ。よく言えば繊細で謙虚、悪く言えば心配性で自己肯定感が低い。私なんて、という気持ちを変えたいという理由でヒカリさんのセミナーに参加している。質疑応答もまったく皆のためになるようなものでなく、自分の身の上相談が多い。ヒカリさんはいつでもにこやかにアドバイスをしているが、彼女が挙手をするたびに暗い気持ちになった。何万円も払って周りを暗い気持ちにさせて、何の得があるのだろう。


 もう1人は最近会社役員と結婚したエリーちゃんだ。相手の男性はバツイチで、10歳年上だが、すらっとしていて、いかにも重役のように思えた。彼の住んでいたタワマンに引っ越して、バカラのグラスをインスタに投稿する。極め付けはヒカリさんとお揃いのセリーヌの新作をプレゼントされたことだ。「男性からの贈り物を自慢するためのサロンじゃない」とヒカリさんが珍しく堂々と苦言を呈していた。ユイさんはもっとハッキリと「パパからの貢ぎ物みたい」と不快感を露わにしていた。


 自分のビジネスセミナーの結果ではなく、たまたま金持ちの男性を捕まえた女性が現れたのだ。30代独身女性が中心のオンラインサロンのチームワークは乱れた。さすがにサロン内でそんな発言はしなかったが、個人のSNSでは、「年齢も年齢だし、今はビジネスよりも婚活かも」という投稿が激増した。しかもエリーちゃんは確実にキレイになり、フォロワーもどんどん増やしていった。オンラインサロンと全然関係ないところで。ビジネスセンスが磨かれた結果、重役男性を射止めることができた、という可能性もゼロではないが、かなり見苦しい解釈だ。


 エリーちゃんに対する懸念事項はもう一つあった。フォロワーが増加するにつれ、ヒカリさんに関係あるハッシュタグが消えていった。それどころか、ヒカリさんと同業者である山下トウコのセミナーに参加している投稿が増えた。山下トウコと比べると、ビジネスの規模は確実にヒカリさんの方が上で、ビジュアルもヒカリさんが上だろう。ところが、いかんせん、彼女は既婚で三児のママなのだ。顔を隠していても三人姉妹のリンクコーデは愛らしいし、旦那さんは会計士だ。飼い犬が遊んでいる庭からも家の広さが伺える。自分で稼がなくても良い女性特有の柔らかい雰囲気と「ママならではの起業」を前面に押し出しているヒカリさんと正反対のタイプだ。


 そんなだから、エリーちゃんが今回もボランティアメンバーとして、参加する意思を示したときには驚いた。ユイさんも首をかしげた。今更フォロワーを増やしたいわけでもあるまいが、やはりサロンには思い入れがあったのかと安堵した。あるいはヒカリさんをまだ崇拝しているのか。


 あまりヒカリさんを刺激したくはなかったが、ユイさんがさりげなくエリーちゃんの参加決定を報告した。当日のトピックとして「ビジネスに関係ない質問は控えてもらうようにしましょうか。例えば、恋愛とか」と提案したら、喜んで受け入れてくれた。「サトミンもビジネスセンスが磨かれてきたじゃない」


 iPadの設定に時間を取られ、土曜日のマカロン争奪戦に参加しなければならなかったので、退社は21時を過ぎた。沿線でお祭りがあったらしく、電車は乗客でひしめき合っていたが、一刻も早く帰りたかった。明日は8時出社なのだ。


 イベント当日、事件はおきた。エリーちゃんから、「イベントが今日なのを忘れていました。すみません」というメールが来たのだ。言い訳をするにしても、体調不良とか冠婚葬祭とかであってほしかった。ウェブサイトに彼女の名前を掲載してしまっている以上、アナウンスで彼女が参加しないことを伝えなければならなかった。これは明らかな裏切りだ。彼女は2度とオンラインサロンには戻れないだろうが、そんなことは百も承知で、キャンセルしたのだ。ユイさんにはすぐ報告しなきゃ。ヒカリさんにはなんて説明しよう。幸い、このメールは私個人に当てられたものだから、少なくとも理由はでっちあげられる。とにかく今日を乗り越えなければならない。


 ヒカリさんの録画セミナーが終わったあとの1時間半は生きていた中で最も長く感じた。申し込んでいた200人のうち、録画セミナーの視聴者は100名程度、それが終わったあとに残ったのは30名程度だった。スピーカーは9名いるのだ。そこから90分もつとはとても思えない。オフィスに明らかに気まずい空気が流れ、時間が過ぎてくれるのだけを祈った。何人かは盛り上がって話をしているようだったが、明らかにつまらなそうな顔をしているメンバーもいた。堂々とサボってくれればまだ良いが、いたたまれない表情で黙ってスクリーンを見つめているだけのメンバーもいた。どうにか、予定通りの終了時間を迎えて、最後にヒカリさんの録画動画を流す。朗らかな労いの言葉が空に響いた。そのあとはオンラインサロン、今後のイベント、10月発売の手帳のアナウンスがオフィスの誰の耳にも残らずに流れていった。



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