水光の葛藤


土曜日はカーテンを開けないので、晴れていようが、豪雨だろうが、かまいやしない。朝9時に目が冴えてしまうこともあるし、正午近くまでゴロゴロしていることもある。ネットでまとめて買った板チョコ4枚を溶かして、滑らかにする。3個分の卵黄と卵白を分けていれて、オーブントースターに入れる。8等分に切り分けて、一切れをコーヒーと食べる。残りは冷凍して今週のオヤツになる。差し入れは不定期だから3日続くこともあれば、何週間もない時もある。自分のために日持ちするオヤツを作る必要があった。


 工程は単純だし、見た目も普通に地味なので、写真に撮ることはない。この日常を上手く切り取れたらいいのに。手作りのお菓子の人気アカウントもあるが、私のレシピは個性がない。「どうすれば人を惹きつけるのか、戦略的に考えなきゃ」オーブントースターをアラジンのグラファイトトースターにするのはどうだろう。2枚用のトースターなら、1万円くらいで買える。色は一目で分かるグリーンがいい。アラビアのパラティッシのお皿があれば、出来上がったケーキも見映えがする。どうせなら、コーヒーカップとソーサーも揃えたい。Amazonで試しに思いついたものをカートに入れる。トースターが¥11,100。お皿が以前見た時より安くなっている。¥4,999だ。コーヒーカップとソーサーは¥4799、合計カートの最初の文字が2になったら諦める。少しずつ揃えればいいのに、耐えられない。どのみち揃えるのだから、一度に買っても同じはずだ。よりカンペキなものを、より早く手にしたほうがいいに決まっている。


 それでも、最初の1カ月、慣れない業務に気が滅入って、毎日寄り道していた頃と比べると落ち着いた方だ。ハンバーガー、コンビニのおにぎり、スーパーのお寿司。何一つ贅沢なものはなかったのに口座の残高は虚しさと反比例して減少した。数ヶ月全く足を踏み入れなかったジムの退会手続きをネットに救われる形で完了させた。Amazonプライムには未視聴の映画が山ほどあるが、観る気にもならないし、かといって、解約する気も起きない。


 世知辛い世の中で東京23区のオフィスで正社員として働くことができて、額面25万円の年間休日122日で、しかも30代後半の転職、社長は大嶋ヒカリだ。この条件なら、ヒカリさんの4万人のフォロワーなら誰でも飛びつくのではないだろうか。現に私だって、最初はフォロワーだったのだから。「頑張る女性をもっと輝かせる」というのがヒカリさんのミッションステートメントだ。それは自分の居場所を探してもがいている女性たちの一筋の希望だった。


 35度を超える日が続く。うだるくらいの青空の中で、霧雨のように吹き付ける風が吹き抜けるヒートアイランド。ヒカリさんはよく外国で暮らしたいと口にする。こんなに蒸し暑いと暮らしにくいからだという理由の時もあれば、東京の生活は忙しすぎるからだという理由のときもある。そうするとユイさんが必ず、「それならハワイに会社を作りましょうよ」と提案する。日本からも近いし、女性から人気だし、と力説する。ヒカリさんはハワイもイイかもね、と穏やかに受け止めるが、絶対に外国の選択肢がハワイしかないことを知っている。


 岡野は息子をハワイの寄宿学校に入れたがっているのだ。早ければ7年生から入れるから、高校卒業まで6年間かかる。下調べや準備にかける時間を入れれば8年くらいは日本とハワイを行き来することになる。そんな中でうちの会社、まったく私が関わっているとも思えないこの会社が、現地に法人をもっていれば心強いだろう。岡野本人が作ればいい話だが、彼が唯一ヒカリさんに釣り合わない点はその乏しい英語力だった。


 実際の仕事は、予想外にラクだった。映画みたいにイジワルされることもない。電話は滅多にならないし、1日デスクトップのモニターに張り付いていなければならないけれど、人気インフルエンサーのアシスタントの役割は想像よりずっと地味だった。まず一つ目は、オンラインサロンの会員たちのSNS巡りだ。10件に1回、できれば5件に1回コメントを残す。「素敵な投稿ですね」「参考になります」「美味しそうですね」なるべく他の人と被らないように細心の注意を払っている。オフィスの公式アカウントからイイね!を押すが、気をつけなければいけないのはヒカリさんの振りをしないこと。コメントを残すときは必ず自己紹介しなければならない。二つめの仕事は、オンラインストアの商品の発送。ノートやペンケース、ハーブティーのように日常で使える千円単位のものから、3万円のピンキーリングやら、2万円のパールモチーフピアスみたいなアクセサリーまである。


 10月には毎年の手帳が販売される。女性起業家たちはこぞって手帳を販売したがるが、ヒカリさんの手帳はいつも特別だ。今年は3色出すらしい。見本が届いたら、写真を撮って、活用例を書かなければいけない。3色販売するのは「お客様に最愛の色を選んでほしいから」と謳っているが、いかに客単価を上げるか、一人の人間に複数買ってもらえるか考えなければならない。


 10月に販売するには、8月には告知をしなければならない。期間限定にして、1色はロットを少なく注文して、早めに売り切らなければならない。PRのための戦略会議は毎週のために行われる。好きな色を1冊もらえるらしいが、残り2冊は自分で買わなければならないことを意味していた。


 ノートにアイデアを書き溜める作業は好きだった。ヒカリさんのセミナーでも自分の好きなことを掘り下げるワークの時間が設けられている。箇条書きにしたり、ブレインストーミング形式にしたり、ときには付箋も使う。ヒカリさんのオンラインストアに並ぶものは学校でもオフィスでも使えるデザインだ。コクヨのノートの方が丈夫だし、ボールペンならサラサのほうが書きやすいけれど、Radiant Blue がゴールドに光ることに意味があるのだ。アナログな道具に対する執着なんて、オンラインビジネスでは不要だ。


 「今年は3色にしちゃいました。迷ったら、全部買うのもアリ?!」社名にちなんで、毎年ブルーは必ず販売される。今年は、そこにペールオレンジと、ラベンダーが加わる。自然光のなかで撮るとブルーとラベンダーが分かりにくいので、間にオレンジを挟んだ。ハッシュタグを付けて投稿する。1冊目はシンプルに仕事用。これは誰もが手帳を欲しがる理由だから、納得させられると思ったが、ヒカリさんからストップがかかる。

「それは悪くないんだけど、もっと手帳を使ってキラキラした日常が手に入るイメージを持ってほしいんだよね」考えておいて、と締めくくられて、振り出しに戻る。結局また3種類の使い方を考えなければならない。


 3つ目の仕事はセミナーの資料作りだ。冊子上にして配っていたこともあったが、今は専らSDGsに配慮して、PDF化した資料を特別に提供している。ヒカリさんがセミナーをするにあたって「使い回している」という印象を与えるのはご法度だ。デザイン、順番、文言に気をつけて毎回準備する。ここだけは唯一この会社で磨かれたといっていい。


 「何の技術も学べない仕事」をしていた日々には辟易していた。西新宿のコールセンターに勤めて7年、業務は大分慣れたし、気の合う飲み仲間もいた。入れ替わりの激しい業界だったから、年単位で働いていれば上司からの信頼も厚くなる。休みも通りやすいし、趣味の時間は充実していた。何より、13時からの勤務は満員電車とは無縁だった。大都会で働いているワケじゃなくても快適だった。それでも、コールセンターのオペレーター、という肩書きには満足できなかった。ただただ受け身に受電に応える日々。同僚たちの中には大志を抱く者もいて、司法試験の勉強をしていたり30を過ぎて医学部入学を志していたり。でも大半は役者崩れや売れないバンドマン、アイドルオタクで、何の役にも立たないことにお金も休みも注ぎ込んでいた。


 私は彼らとは違う。私だけは彼らと違う。私はこんなところにいるべきではない。表面上は仲良くしていても自意識だけが膨らんでいった。SNSにのめり込んでいくのに時間はかからなかった。最初はどのアカウントも見ているだけだったが、惹かれたのは華やかな女性起業家たちだった。フォトジェニックな写真の中の服やバッグにアクセサリーは勿論、彼女たちの美学にも夢中になった。「ありのままの私で上手くいく」「会社に縛られない生き方を」「好きなことをしてお金を稼ぐ」その中で一際吸い寄せられたのがヒカリさんのミッションステートメントだ。


 元々はオンラインサロンだったRadiant Blue に入会して、インスタを始めて、2ヶ月。ヒカリさんから「いいね!」をもらえた時は本当に天にも舞い上がるくらいに高揚した。そのまま、どこかの出版社の開催する2時間3万円のセミナーに申し込んで、握手してもらった。セミナー参加者への先行案内で、ヒカリさんのインストラクター講座募集があった。少人数制。早期割引。直接教えを受けられるのはこれが最後。今思えば、Webマーケティングの常套句だった。この時にはすでにユイさんはヒカリさんのビジネス仲間だったらしい。取り巻きらしき人達は常にいたが、メンバーの入れ替わりが激しかったので、あまり記憶がない。そこに煽られ、3ヶ月26万円、割引がなければ36万円、の特別講座に申し込んだ。3ヶ月がすぎると、講座修了者だけが受講できるアドバンスの案内がきた。これは57万円。


 オンラインサロンは現在も継続中だが、5年前に法人化して今は事業拡大中。そのために人手が必要ということでアシスタントが新たに募集された。そこに応募したのが私だった。アシスタント採用が決まったときにはヒカリさんもユイさんも盛大に自分のアカウントを通じてアナウンスをしてくれた。彼女たちのフォロワーも含めて何百件ものコメントをもらった。誰もが憧れるポジションを手に入れたのだ。


 私はコールセンターの同僚たちとは違っていたし、それは正しかったことが証明された。皆が生活の足しにもならないアイドルのアクリルスタンドを買っている中で、言葉を交わすこともできないコンサートの遠征に行っている中で、私は自分に投資しているのだ。自分で自分のビジネスを始めようとしているのだ。そのために繋がりを増やして、チャンスを窺うために、受講料を支払っているのだ。転職したいといいながら、10年以上居座っている同僚にも優しくアドバイスしてあげていた。そんな中で、ヒカリさんのアシスタントの座を手に入れたのだ。


 会社員のお給料をもらいながら、空いた時間で、月収30万円を目指しましょう。そのためのノウハウを全て教えます。なんという甘美な響き。私自身が輝くようにために。会社に頼らず稼ぐために。


 「来年の9月はハワイね」これはヒカリさんの口癖のようでもあり、社員を引き止めるための合言葉のようなものでもあった。「あ、もちろん、社員研修だから全部会社持ちね」とウィンクする。全部、というのは航空券と宿泊費、そしておそらく旅行についてくるヒカリさんのセミナーの参加費用のことだ。本当に個人で行くとなったら、ユイさんは「それだけで50万円だから、本当に私たちってラッキー」とよく主張をしている。その50万円の中にはセミナー代19万円が含まれているのだ。そして、食事は朝食のみ。円安とハワイの物価高でランチでも¥3,000になるらしい。ディナーはその倍だろう。ホテルだから自炊もできないし、観光地だからスーパーの品揃えも悪い。カップ麺くらいなら作れるかもしれないけれど、ハワイで5日間、ホテルでカップ麺を食べるの?服もバッグも買わずに帰るの?


 調べれば調べるほど、想像すればするほど胸のおくがズシンとなる。呼吸すら上手くできない。血が逆流するように熱く感じたかと思えば、文字通り血の気がひいて青ざめるときもある。


 そのハワイ旅行は、本当にご褒美なの?この仕事はほんとうに頑張る女性を輝かせるものなの?いつか観た映画のセリフが頭をよぎる。I love my o, I love my job, I love my job. でも、私の仕事ってなんだろう。


 1月に入社をしたので、初年度はボーナスがでない。もちろん、働き始めて1年ピッタリで貰えるわけでもない。ボーナスが出るのは6月と12月なので、あと11ヶ月。クレジットカードの明細と睨めっこしなければならない。前の会社では契約社員だったが、こんな苦しい思いをしたことはない。必要なものは全て支給されたし、シフトの穴を埋めれば週6勤務にはなるものの、生活の足しには充分だった。社内のカフェテリアで食べられるランチが無料なのも有り難かった。栄養バランスを考慮して、レストランの監修が入ったランチだった。


 今では毎日ランチを作って持っていく。デスクで好きなタイミングで食べることができる。つまり、業務の合間、手が空いたときにしか食べられない。その分30分朝の支度に時間がかかる。毎回スーパーでの買い物も増えるし、ランチボックスも必要だった。それでも毎日ランチを食べに行くことは不可能に近いし、コンビニでの調達も限界があった。第一に、原宿はいつもどこでも混んでいる。


 入社したばかりの時に、希望が有ればリモートワークも可能だと聞いた。毎週でなくても、例えば台風や大雪警報のとき、あるいはコロナの濃厚接触者になったとき。あとはヒカリさんが不定期という名のもとに行う気まぐれなセミナーが旅行先から開催された時。「私がいない時にわざわざオフィスに行かなくてもいいように。皆にも家でビジネスをすることに慣れてほしいの」


 そう言われて、新宿の家電量販店でインターネット回線の契約を新しくした。当時使っていた回線は繋がらないことで有名だった。知識の乏しい長いネイルの女の子が説明をしてくれたので、こちらが在宅ビジネスで必要な旨を力説した。女の子はニコリともせずに、今なら最新ルーターがキャンペーンの値段で契約出来ると言われた。解約料金1万5千円を払って、新規契約で5千円支払ってインターネット環境を整えた。試しに繋いでみたところ、パソコンの動作環境が悪い、ということで、新しくヒカリさん愛用のMacBook Airを買った。月々の支払いは1万7千72円で支払いを終えるのはまだまだ先だ。加えて、ワイヤレスのマイク、15インチのモニター、映りをよくするための照明の支払いだけでも3万円近くになる。「オンラインでビジネスをするには欠かせない」らしいので、覚悟を決めて支払いをした。毎月の通信費は女の子の説明より1,000円ほど高かった。


 ある日の業務中、目の両端がチカチカし始めた。やけに眩しく感じるし、常にまつ毛が目に入ったみたいな違和感があった。午後休をもらって、眼科に行った。経験したことのない違和感と痛みだったので、この世の終わりくらい絶望したが、診断はドライアイだった。しばらくコンタクトレンズ使用の禁止、カラコンなんてもってのほか、そしてヒアルロン酸入りの目薬を処方してもらう。1週間後にもう一度診察に行かなければならない。

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